幸せな日
六の朝は早い。
誰もが寝静まっている早朝。六は起きる。そして鳥の囀ずりを聴きながら身支度を始める。身支度を終えた頃に母親が目を覚まし、共に朝食を作り始める。
朝食を作っている最中に手の空いている方が、朝刊を取ってきて机の上に置いておく。最後に朝食を作り終えたら、机の上に並べてみんなが揃ってから食べ始める。食べ終えたら片づけ。二人の兄と父母、六の5人。静かな朝の一日であった。
「兄さま、今日の調子はどう?」
六が無邪気に尋ねた。視線の先には先日帰ってきたばかりの兄_壱がいた。壱は暗い表情で大丈夫だと言う。明るく振舞おうとしていても、生気を感じさせない瞳や言動が目立つ。時折反応が無くなり、生きているかどうか確かめなければ自身を持てないときもある。やはり朝起きるだけでも辛いのだろう。帰ってきた直後は反応すらしてくれなかったことを考えると、進歩はしている。六は何も気づいていないフリをしながら、明るく返事を返しまた違う話題を振る。
父も母も元気がない。それも無理もないだろう。息子が戦場に出て行っただけでも心配だったというのに、精神を患ってしまうだなんて。きっと想像だにしなかったにちがない。父母ともに陽気で穏やかな人であるから、辛い事があったとしても口にしようとしない。そんな家庭状況だから、六はどことなく居心地が悪く感じた
食事と片付けを終えると、その後は洗濯をする。5人分の洗濯物は干すだけでも大変である。重いカゴを抱え、縁側までたどり着くと、急にカゴが空に浮き上がった。
「持つ。そんなに持って怪我でもされちゃこっちが困るからな」
「あ、兄さん。ありがとう」
ため息交じりに、カゴを奪ったのは二人目の兄_肆瑠であった。肆瑠は六よりも長い脚で二歩先を歩いて、縁側から外に出ると素早く洗濯物を干していく。六も負けじと必死に干していくが、地味に届かない竿に苦戦する。それでもなんとか、肆璃の二分の一のペースで次々に干していった。
風に煽られ揺れる洗濯物を眺めながら、六と肆瑠は縁側に腰を下ろした。風が心地よく、絶好の洗濯日和である。少し汗ばみ高まっていた体温を風が冷ましていく。手で仰ぎながら休憩をしているが、二人は無言であった。心地よい風が二人の間を埋める。
ふと何か思い出したかのように、肆瑠は口を開いた。
「そういえばさ」
その先の言葉が紡がれることは無く、六は首を傾げながら肆瑠の方を見た。口をモゴモゴとさせ、何やら言い出しづらい事らしい。
六は話したいことはなんとなく察していた。壱のお陰...といってもいいものか壱が口を開くことが少なくなってしまったため、様子を見て感じ取るようになった。
もとより肆瑠は本音を滅多に口にしたりしない。口から出るのはぶっきら棒な言葉。少し目つきが悪い所為もあって、皆から遠ざけられている。口にできないようなことをしているという噂も聞いたことがある。
例えば、チンピラが気に入らないからとボコボコに殴ってしまったとか。その他には、盗みをしているとか。その実、前者の方はカツアゲに遭っていた人を助けただけで、後者はその逆で盗みをしている人物を捕まえたのである。悪行どころか善行を積んでいる立派な人格者である。
人の噂ほど当てにならないものはない。そう思いつつ六は目の前の不器用な兄に目を向ける。壱が六と肆瑠の仲を取り持ってくれなければ、きっと肆瑠を勘違いしていただろう。
「どうしました、肆瑠兄さま。私はお話していだかないと、兄さまの言いたいことは理解できませんわ」
六が優しく諭すように言い聞かせると、肆瑠は下唇を噛みしめた。そして目を瞑り、何かを堪えるような動作を見せる。滅多にしない所作に、六はおやと思った。もしかすると六が思っていた内容とは異なるのかもしれないと不安になる。
話す勇気が出ないらしく、肆瑠は取って付けたような別の話題を振る。
「そういえば、兄さんのことなんだけど。兄さん、元気そうだった?」
肆瑠は壱の様子を滅多に見に行かない。食卓で出会う以外に2人でいるところを見たことはなかった。無理もないと思う。肆瑠は壱のことを慕っていて、普段は刺々しく接していたが実はかなり兄好きであった。
誰よりも頼りにしていた兄がもぬけの殻のようになっていては、ショックを受けないはずがない。
「ええ、まだ以前のようにはいかないけど元気だよ。六郎さんっていう兄さまのお友達が来てくれて話し相手になってくれているし、偶に兄さまが楽しそうな顔をするのよ」
「そ、そうなんだ」
よかったら、肆瑠兄さまもどうですか。そう口に出しかけて六は口を閉ざした。肆瑠は壱と仲が悪い訳ではないし、以前はよく二人で出かけていた。それに共に悪戯をして叱られているのも知っている。
しかし今は、会話をしているところすら見かけない。目を合わせずに、お互いいないものとして扱っているようにも見える。
肆瑠の内面はある程度分かっていた。恐らく壱に対する罪悪感。戻らない過去に対する後悔に苛まれているのだろう、もし壱が戦場に行くと言ったときに止めていれば、代わりに行くと進言していれば。壱は自分を苦しめなかっただろう。今まで通りの優しい兄のままでいられただろう。そんな想いが、側にいるだけでも込み上げてきて仕方ない。六にも気持ちは痛いほどわかった。
「六郎さんがね、今度お土産を持って来てくれるっていってたの。何かしら、楽しみ。もしかすると菓子かもしれないわ、勿論それ以外でも嬉しいのだけど」
頬に手を当て、普段よりも早口でまくし立てるように話した。何も知らない純粋な妹。それがきっとこの場での好ましい態度。六が演じるべき人物だと思った。これは六が気遣うようなことではないと分かっていても、家族としての役割を果たしたいと思った。
肆瑠はそうだなと返事をする。妹に気を遣わせてしまったと反省した。そんな気を遣わせるつもりは無からなく、むしろ六をリラックスさせるつもりだった。だが妹に気を遣わせている。この始末では兄失格である。
「こうしてもいられない!六郎さんが来た時に振舞うお菓子の用意をしないと!お茶もきっとそれに合ったものがいいわよね。
じゃあ、茶屋に買いに行かないとね!お客様のおもてなしはしっかりしないと」
「そんなに準備しなくてもいいんじゃないか。あまり気を遣うと、遣われた側も気を遣うだろう」
人を楽しませるためのおもてなしに心力を注ぐ六は慌てて立ち上がる。まだ六郎が尋ねてくるのは先だというのに、心待ちにしているようだった。
肆瑠がそっと告げると、六はハッと気が付いたようだった。そして少し顔御赤らめる。
「私ったら...まるで幼子のように騒ぎ立てるなんて...」
顔に手を当て、赤らむ顔を隠す。その動作が昔から変わらず、一層愛らしく感じる。肆瑠は六の頭を優しく撫でた。こんなに愛しく家族想いな妹がいるのだから、きっと兄も時期に良くなる。支えてくれる人たちの力も借りて。そしていつかのように笑って三人で居られる日が来るそう思っていた。
何度か太陽が昇った。六郎が尋ねてくる日の朝、六はいつもよりも早く起きた。何か特別なことをするでもなくいつも通りの日課をこなし、茶菓子の用意をする。六郎は何度か未葉家を訪れているため案内も必要ない。
六郎が来る時間になった。人が通る度に六は顔を上げた。車の音がする度に、玄関から顔を覗かせた。
しかし、六郎は姿を見せることは無かった。誰かが家の前を通る度に何度も戸を開けて覗く。その先には通り過ぎる人だけ。夕刻になっても六郎の姿は無かった。
「何かあったのかしら...もしかすると事故にでもあったのでは...」
「六ちゃん、少し落ち着きなさいな。川田さん家の六郎さんはしっかりしているって聞いているし、何かあったら連絡をよこしてくれますから」
母の艶が六を宥める。確かに今までの六郎の訪問には何時何分に着くと事前に連絡があった。遅れそうなときも。そんな六郎が何の連絡もなく、約束を破ることがあるだろうか。
_まさか事故に遭ったとか。
不謹慎なことが脳裏を過る。壱と六郎がどのような仕事をしていたのか詳しくは知らないが、どれほど体を鍛えたとしても肉体は人間。車に引かれればただでは済まないし、馬に踏まれれば死ぬ。
六の表情はまだ曇ったままであったが、首を縦に振り何とか自分を納得させた。確かに六郎は何かと連絡をよこしてくれるマメさを分かっているのだから、今回も遅れると連絡が来るはず。
最近は治安が悪くなってきているとも聞く。国の争いに必要な物資が買い占められているとかで、市民には手に入りずらくなっているらしい。今は六たちの生活に大きな支障がある程ではなかったが、何れは影響があるだろう。それまでに何とか蓄えを準備しておかなければならない。干し物や畑の準備もして、節約もできるところは切り詰めないといけない。これから苦しい生活になりそうだと食事中に話していた。
もしかすると六郎は何か家庭の事情で来れないのかもしれない。目の前の会話にも六は集中できず上の空だった。六郎は兄弟がたくさんいると話していた。例えば兄弟が風邪を引いたとか。あり得ない話ではない。実際壱も六たちの面倒を見てくれていた。
食事を終えると、六は席を立った。あまり考えすぎるのも良くないと思い立った。事情があるならまた聞かせてもらえばいい話で簡単なことだと気が付いた。
「六郎さんにも事情があるだろうし、また後日に連絡を取ってみる。掃除しようかな、その間に来るかもしれないし」
「そうね。頼めるかしら」
艶はホッとした表情を浮かべる。あまりに不安そうな表情を六が見せてしまったために、心配をさせてしまったらしい。
倉庫に向かう六を艶は見送った。姿が完全に見えなくなった頃、胸に手を当てて一息つくことができた。取り繕う必要がなくなったその表情はほの暗いものであった。
そして艶の視線は手の中に注がれる。手の中に握られるは一通の手紙。くしゃくしゃに握りつぶされ、文字を読むのにも一苦労するほどだ。
その手紙は数刻前に一人の少女が届けに来たものだった。六はそのとき肆瑠と話していたので、このことは知らない。偶々出会った艶は少女から手紙を受け取った。正確には押し付けられたの方が正しい。少女は目一杯に涙を溜め、溢れそうになるのを何とか堪えていた。
「大丈夫?何かあったの」
心配をした艶が駆け寄ると少女は首を横に振り、手紙を艶に差し出してくる。戸惑う艶だったが、手に無理やり握らせようと少女は必死だった。艶がその手紙を受け取ると、少女は涙をポロポロと地面に滴らせ走り去っていった。
何だったのか理解できずに、艶は少女の背中を見届けてから受け取った手紙を開けた。端的な文章であった。そこにはとある青年が死亡したとの旨のみが綴られていた。
六は家事をして一日を過ごし、六郎のことは頭の片隅にはあったものの忘れかけていた。家庭の事情に踏み込むことは宜しくないという艶の教育が功を成したのかもしれない。
しかしいつも通り静かな夕飯には一層暗さが増していた。
六はちらりと父母の顔色を伺う。心なしか二人そろって表情が硬いように見える。何かあったのかと聞いてみたが、二人とも何もないと首を横に振った。どうみても何かあったのは明白なのだが、二人が教えてくれるつもりは無いようだった。肆瑠も知らないらしく、六同様2人の様子を観察している。
重々しい雰囲気に耐えられなくなり、六が口を開こうとすると珍しく父が口を開いた。
「そういえば、最近は鉄も規制されているみたいでな。店の方に役員と名乗る人が来て、鉄を節約するようにと言われた」
六の家は時計屋を営んでいる。曾祖父の時代から受け継がれ、時代に珍しく婿入りしてきた父が継いだらしい。この辺りでは評判で、遠くから発注もある。父が代になってから、漸く軌道に乗り始めてきたといえる肝心な時期。
そんな時期にやってきた役員。壱が戦場から帰ってきた日から使われている未葉家の隠語であった。医者曰く、壱は心を患ってしまい、戦場での出来事がトラウマとなっているらしい。戦場に関する言葉_例えば軍隊や軍医、死体など。酷い時は政府でも拒絶反応が見られた_が引き金となって、暴れたり声を上げることがあった。
そのため、皆で壱を支えるため壱を刺激する言葉を使わないようにしようと作戦を立てた。政府職員を役員と言い換えて、できるだけ壱にとっての平穏を守ることにしている。作戦のお陰か、壱は暫く暴れる様子はない。少し笑う様子も見せており、徐々にだが回復しているようであった。
「そうなのね。鉄の節約だなんて…お仕事に支障をきたすでしょうに」
「役員が言うのだから仕方ない。今までも何度かそう言われることがあったが、どれもそこまでの規制は無かった。今回も同じようなモノだろう」
父は味気のない汁をすすった。
何年も続いている戦いは、何度か市民にも強い影響をもたらした。壱がうまれる前には食べ物や金属の規制や移動の禁止などの規制はあったが、そこまで大きなものはなかったという。規制は発表されるが、破ったところで罰則はない張りぼて。だが、生きづらさを感じさせていたに違いない。
時が経ち壱が生まれ、肆瑠、そして六が生まれた。規制は年々継続と撤廃が繰り返され、市民たちは何度も振り回される。そしてついに慣れてしまっていた。
「今回はそう上手くいくか分からないらしい」
落ち着き始めていた父母の会話に、本当に珍しく肆瑠が口を挟んだ。
「友達が言ってた。今回は物資も不足しているけど、他にも足りないものがあるって」
「足りないもの?」
焦らす肆瑠に六は首を傾げた。
「そいつ曰く、何よりも人材不足らしい。何処も大変だって」
肆瑠は汁をすすって、魚に手を付けた。まるで他人事である。父母も何も言わず、手を進めている。手を止めているのは、六のみだった。
人材不足。戦いにはつきものである。なにせ命をとして戦っているのだから。掬われるものもあれば散るものもあろう。当たり前の話なのだが、これほど他人事のように話されると実感がわかない。六郎や壱のようにいつか周りの人が連れていかれてしまう日が来るのかもしれない。六は一人不安になった。
食事を終えると、食器を洗い場で洗う。食べ終えたら皆が解散していくのだが、その日ばかりは違った。父が肆瑠と引き留めていた。今日は色々と珍しいことが起きていた。明日槍が降ってくると言われても信じているかもしれない。
「六ちゃん。さっさと終わらせてしまいましょうか」
「は、はい。母様、すぐに取り掛かります」
艶に呼びかけられて、六は洗い場にかけていく。肆瑠と父が何か話していたのは分かったが、言葉を聞き取ることはできなかった。
朝。
朝刊と共に入っていたモノを見て目を見張った。差出人は件の政府。届け先は未葉家。大層真っ赤な手紙であった。