プロローグ
空を見上げれば曇天。今日ほど良い日はないと思うのに残念だ。六は窓を開ける。家のあちこちボロが来ていて、埃だらけのため換気は欠かせない。しかし、今回だけは目的が違う。
「早く帰ってきてくれないかな…兄さま」
今日は六の兄壱が帰ってくる。壱は戦に出て行ってから、一度も連絡をよこしたことは無い。毎日死亡通知が来ていないかソワソワしていたものだ。ようやく心置きなく休めると安心した。
壱が帰ってくるのは、戦場で復帰不可能な傷を負ったからと聞いている。怪我をしたのは悲しいのは確か。しかし兄が生きたまま帰ってきてくれているというのが嬉しいのだ。いつも優しい兄だった壱は、三人兄妹で一番頼りになる存在だった。
戦場からの応援要請が届いたとき、両親は困ったような顔をしていたのを覚えている。応援要請といっているが、要請ではない。むしろ強制。逆らうことは許されない戦場で命を捧げよと命令していたのだった。最初に真ん中の兄が行くと言った。
しかし壱は真ん中の兄を押し留め、自分が行くと宣言した。壱が喧嘩をしているところなど見たことはない。それどころか笑っている姿しか見せてくれなかった。その日も怖いだろうに笑っていたのだ。
出発した日のように、六は坂道を登る。見送りのときは、こうして坂を登り頂上から次第に小さくなる兄が乗った車を見ていた。今度はその逆。兄を迎えるため、坂を登る。いつもは苦しい傾斜をスルスル登っていく。頂上に近づくにつれ、心が弾み口角が上がっていった。
遠くに車が見える。時代遅れの馬に引かせるタイプのものである。馬の後ろに雑に作られた木箱のような腰掛けに人が数人乗っている。日除けすら付けられていない。きっと暑いだろう。
遠くからでも判別できた。座っていてもずば抜けて高い背丈。腰ほどの長い髪の毛。きっちりと着こなされた制服。間違いがなかった。
「壱…壱兄さま!」
きっと聞こえていない。偶々動いたのだろうが、それが返事をしてくれているように感じた。六は嬉しくて坂をかけ降りる。
車とは坂の中腹辺りで合流した。御者は六に気付き馬車のスピードを落とし、ゆっくりと進んでくれる。六は邪魔になるだろうからと乗車を断った。
馬車にあわせて横を走り、六は兄に話しかけた。
「壱兄さま、お帰りなさい!元気そうで安心した!」
元気よく六が笑いかける。しかし壱は反応をせず、俯いていた。その表情は見えない。六は態度を変えることなく、また話しかける。
「兄さまが、いない間に色々なことがあったの。聞いてほしいわ!」
壱は身動ぎすらしなかった。不思議に思ったが、戦場ではろくに休めないと聞く。寝ているのかと思い、口を閉ざした。
それを見た同乗者の一人が、六に向けて首を横に振る。何のことか理解できず首をかしげていると、同乗者は眉を下げて言った。
「俺は六郎。壱とは戦場で知り合ったんだ。お前が壱の自慢の妹の六か?」
「はい!…壱兄さまの自慢の妹の六です」
六は自慢の妹だ、が壱の口癖である。自信満々に言い放つ六に、六郎は豪快に笑って車から身を乗りだし六の頭を撫でた。
「そっか、壱コイツはいつも家族の話しかしなくてな。愛されてんなぁ…お前たち」
「はい!私も壱兄さまが大好きです」
それはいいことだと六郎は頷き肯定する。兄の口から家族の話が出たという話だけで嬉しくなる。六は照れ臭そうに答えていた。
壱が起きるまで、六は六郎と話していた。最初は同じ"六"なのに、六と六郎でここまでも性格が違うのはどうしてかというどうでもいい話から始まった。同じ六でも、六郎は明朗快活で、六はお淑やかさなどなんのその。六郎は話上手な様で、六は話に身を委ねるだけで楽しく会話ができた。
坂道が終わりを迎える頃合い。おもむろに六郎の顔が真剣なものになる。六は表情の変化に気付いたが、理由は分からなかった。真っ直ぐを見つめているが、その視線の先は六ではない何かを見ていた。
なにか口にしようとしたが、声が喉でひっかかった。先程までとは違う六郎の雰囲気に圧倒される。六は遅れて、表情を真剣なものへと変えた。
数秒後、六郎は「それでな」と話を切り出した。その声はどこか震えている気がする。六郎の視線はゆっくりと項垂れる壱に注がれた。
「それで壱の話なんだが…精神をやられたらしい」
六には理解が出来なかった。精神がやられたとはどういうことなのだろう。戻ってくる理由は"戦場で復帰不可能な傷を負ったから"だったはずだ。
疑問を口にする前に、六郎は話を続ける。
「もともと、戦場に出られるような性格じゃなかった。優しくて、気配りのできるヤツだったよ。敵にさえも慈悲の心を見せようとするもんだから、よく怒られていたな」
「嗚呼…そんなこともあったな。あれは壱が悪かった。本当に傑作だった」
「叱られたが、面白いって笑ってるヤツもいたよな。同じく叱られてけど」
六郎の話に片腕を失くした同乗者が乗ってくる。その姿を見て、他の同乗者も冗談を交えながら口を開いた。体が欠損していても、彼らは平気そうに笑っていた。無理をしているようには見えない。
張り積めていた場の空気が、少し和んだ気がした。もしかするとそこを狙ってわざわざ笑い話をしてくれたのかもしれない。しかし六にはその光景が奇妙なものに見えた。自分だけが異質なのだろうか。
目の前にいる壱の同僚だと名乗る青年たちは、六にたわいもない話として自分の出自から隊員としての武勇伝を聞かせた。本物とは思えない敵との戦闘は、物語の一節のようで信じられない。
六は敵について知らなかった。戦場というものはそれほどに過酷なものであるとは思ってもいなかった。いや、過酷さを知っていてもいつの間にか自分と切り離して考えていたのである。
「その敵は実在するのですか」
思わず聞いてしまった。今まで生きて来た年月でそのような異形と出会ったことも無ければ、話したことすらもない。信じられないという言葉はつい口からもれた。
壱の同僚たちの表情が、ほんの一瞬だけ暗くなる。そこで六は気が付いた。今の自分の言葉は、彼らの仕事を壱がしてきたことを否定してしまうということなのだと。
焦った六は言葉を取り消そうとするが、優しい手が六の言葉を遮った。
「お前ら怖がらせるのも程々にしろよ。それに一般市民に聞かせてもいい話でもない。壱は疲れ切っただけだし、お前の腕は…」
六郎は場の雰囲気を再び和ませた。彼の同僚たちも元の穏やかさを取り戻しており、六はそっと胸をなでおろした。
化け物の話は信じられないが、本当の話なのだと思う。何故ならば、目の前の彼らが存在するからである。ようやく家に帰る彼らに、化け物の話を詳しく聞くことは気が引けた。今は体を休めようとしているのだから。
だが、今は一つ気になることがある。これだけは聞いておきたい。
_だって、家族なのだから。
「壱の話の続きをお聞きしていいですか?」
六郎はチラリと六の表情を伺った。本当に話していいのか判断しているようだった。その視線に六は頷いて見せる。他の同乗者たちは話を脱線させたことに軽い謝罪をしてくれた。だが六は怒ってすらいなかった。
恐らく精神を逆撫でたであろう六の提案を、同乗者たちは快く了承してくれた。
「それで、壱の話だったな」
その場の皆を代表して六郎が、ゆっくりと声を発した。その声は空気を振動させて生まれている。耳に入った声が脳に入り、やがて言語として生まれ変わる。
「壱には友人がいたんだ。だがソイツが壱の目の前で死んだ…恐らく死体は残っていない。戦場は過酷で、隣にいたヤツが死んでるなんてことは”よくある話さ”」
「…そう…ですか」
そこから先は何となく察した。心優しい兄のことだ、きっと心を痛めて自分の所為だと責め続けたに違いない。そして自分の心まで閉ざしてしまったのだろう。誰も傷つく姿を見たくはなくて、それでも家族のためには戦うしかなくて。色々な事情の板挟みになってしまったのだ。
六は壱の手を握る。そして優しくゆっくりと話した。心を閉ざした兄に届くように、兄から教えられた暖かなこの気持ちが伝わるように。
「壱兄ちゃん…お帰りなさい。よく頑張ったね」
それが8月15日の出来事。六の18才の誕生日の話である。兄は光の失くした瞳で戻ってきた。
これから始まる話は云々。席に着いたのであれば、手を合わせましょう。着いていないのであれば、差準備をして。
_皆で頂戴しましょう。




