溝に落ちる音がした
初任務。心は踊らなかったが、心臓の鼓動は五月蝿かった。初めての場所に行く上、周りも出会って数日。関係性もそれほど出来上がっていなければ、信頼性も余りない。そんな彼らと向かう任務は恐怖以外なかった。もしも死んだら、と遺書を書こうとしたこともある。だが、その度に死ぬ準備をしてはならないと自身を励ました。
六が目をパチリと開くと、最初に倦怠感に襲われた。体が動かず、瞬きすら辛い。
「おう、お目覚めか」
上から六甲の声が降ってくる。六とは対称的に元気溌剌で、疲れを感じさせない。だが、頬に赤黒い液体が付着していた。初めは目にゴミが入ったか、六甲にゴミが付いているのだと思った。目を擦っても落ちる様子はなく、寝ぼけ眼のまま六甲に触れると赤い液体が六の手に付着した。
手についた血液をみて次第に目が冴えていく。
「ち、血がついていますよ」
そういって体を飛び起きさせようとした途端に、激痛に襲われた。声にもし難いもので、悶えると全身から痛みを感じる。動けなかった。ただ悲鳴を上げようにも呼吸をするだけでも辛い。
「あんまり動くなよ、胸部に刺し傷があるんだからな」
「それを早く…」
それを早く言って欲しかった。
落ち着いた頃、思い返せば最後の記憶は城壁の上で胸を刺されたところである。嫌な記憶で、今でも感情と景色が鮮明に思い出せる。介護されている間、六甲も同じく手当てを受けていた。実は怪我を隠していたらしいが、六が騒ぎ立てたことにより発覚した。
記憶というものはひとつ思い出せば芋づる式に次々と話を思い出すものである。本当に死ぬかと思った。あのアジサイと名乗る女性は怖かった。見た目は綺麗な人なのに、何かが六とはかけ離れていると思った。同じ土俵にいる、人間でいることすら許されないと感じさせられた実力。圧倒的な強者で六だけでは生き残ることすら叶わなかっただろう。
「怖かった…」
顔を下に向け、六は小さく呟く。第六隊隊員として、死ぬのが怖いということはいけないこと。死を恐れているようではやっていけないと自分を叱る。だが、確実に死ぬと悟ったとき、死にたくないと思った。
ああ、生きているのか。私は。
六の内側に込み上げてくる熱いものを抑えるが、堪えきれず涙となって溢れだした。しゃくり上げるとそれが痛みになり、顔を歪める。身を捩れば、痛みしか生まない。つまり、何をやっても痛い。
「生きてるって…最高…」
「そうだな。死人に口なしって言うし」
六甲は六の頭を乱雑に撫でた。言いたいのはそういうことではなかったと思う。
「死にかけたことなら何回もある。生きているだけマシだっていつか思うさ。頑張れよ」
「不思議と全然嬉しくないです」
六甲の言葉は現実を突き付けてくる。今まで犠牲になった隊員の数を考えれば、生きているだけ幸せなのだろう。だがそれはそれ。
六甲は用事で足早に帰っていった。一人部屋に残された六は身体をもう一度起こそうとした。が、やはり負けた。何度も挑戦するが結局、体をお越しかけてまた寝転がる。
「程ほどにすることをお勧めする。それ以上酷くなると、六こ…ろくなことにならないんでな」
「そうはいっても、私は元気です」
件の救護班所属の厳つい男がため息を付きながら、六の点滴を入れ換える。ポタポタと落ちていく液体を眺めているが、酷く退屈に思える。こうしている間にも鍛え始めた体から体力が少なくなっていく気がした。
今にも自主練をしたい気持ちに駆られるが、自身よりも巨体の男に一睨みされると自然と風船の様に萎んでいった。だが不安ばかりが大きくなっていく。
「私は隊の中でも最弱だと自覚しています。だから、安静にするだけでは皆との差が大きくなってしまいそうで…」
「それはそうだな。不健康なままで訓練に参加しても、余計に差がひらくだけだ」
分かったら大人しくしていろと言われ、六は最もだと納得する。ただでさえ足を引っ張っているのだから、負担は少なくしたい。
渋々布団を被り、目を閉じる。体はまだ休息を必要にしていたらしく、意外とすぐに眠ることができた。
何かの夢を見ていた気がする。物音で目が覚め、ボヤける視界に世界の色が映る。黒い何かが視界の大半を覆い尽くし、茶色いサラサラとした布が顔に当たっている。そして自分の視界がはっきりする頃。
「お、目が覚めたか。おはよう、今日は二回目だが」
六甲が六の顔を覗き込んでいた。六甲は何故か六が横たわるベッドに乗り、六の顔横に手を付き顔を覗き込んでいる。息がかかりそうな距離。
一体何故。そうとしか思えなかった。まだはっきりと頭が働いていないのか、パニックに陥っているのか。ただひとまず状況説明がほしい。
「一体、何故こんなことに」
「ちょっと気になってな」
寝ている間に何があった。六の脳内で色々な想像が逡巡する。とりあえず誤解を招く前に離れなければ、と体を捩る。すると痛みが襲い掛かってきた。
「安静にした方が良いぞ」
誰の所為だと思っているんだ。心の声が漏れそうになる。しかし痛みでそれどころではなかった。
体勢を立て直すため、六甲にはまず退いてもらう必要があった。状況の説明は後でもできる。
「わ、分かりました。とりあえず離れてくれませんか」
六の提案に、六甲は了承し体を起こそうとする。ふと六甲は流る結晶に目がいく。ふっくらとした六の頬を伝い、顎へと駆け抜けていく涙。痛み故かそれとも感動故か六甲には想像できないが、ホロホロと流れ落ちる宝石を六甲は徐に眺め、そしてそれを己の手で拭った。
六甲に拭い取られ濡れた手を見て、六は初めて自身が涙を流していたことに気が付いた。一度目が覚めたとき、沢山泣いたにもかかわらず、まだ足りなかったらしい。
「おお、水だ」
六甲は自身の指に乗っかる法制をじっと眺めた。透明で向こう側の景色を映す。普通の水とは違う温かさを感じた気がした。
そしてあろうことか、六甲はそれをペロリと舐めた。六甲の突拍子のない行動に、六は呆ける。数秒の沈黙が訪れる。状況を要約整理し終えた六は、口許を歪め上げることすら叶わなかった腕を一気に振り上げた。見事、その拳は六甲の顎に直撃した。
数日後の報告書には、重傷者はいるものの死者はゼロと記された。世にも珍しい話である。特殊部隊の任務において、死者は必ず出るものとされていた。出なければ死力すら尽くさず、何も結果を残さない能無しと罵られる。”生贄”のような存在である。
だが、今回の任務において声を上げるものはいなかった。それは何故か。敵国の筆頭_敵うもの無しとまで言われた将を討ち取ったからである。名はアサガオ。彼女の剣術は見事なもので、全てを裁くには大将レベルの部隊が二つなければならないと言われるほどであった。手加減されていた、卑怯な手を使ったなどと妄言を言い張る声もあるが、討伐者の名を聞けば皆が黙る。討伐者の名は六甲、第六隊隊長である。
「それで、六甲。お前に昇格の話がきてはいるけど、どうするネ」
まるで汚いものを扱うように、細い指先で摘ままれるのは重要書類。ペラペラな紙っペラ一枚ではあるが、これを紛失しただけでも数人の首が飛ぶというモノである。
「そう言われてもな……どうするのが一番だ?」
「大人しく話に乗るのが一番。断ってもいいけど、難癖つけられる可能性があるネ」
六甲はため息をつく。扱いに困っていたから持ってきたというのに。上官の前だからと、一応礼儀正しくしているつもりだったが癖で腕を組んでしまった。途端に後ろに控える護衛から鋭い視線を感じるが、六甲は視線を天井に向け気付いていないフリをする。
「とはいっても、その話に乗ればデメリットの方がデカい?」
「それはそうネ。出掛けるだけでも護衛が付くし、そう簡単に仕事はサボれない。ただ歯向かってくるヤツらを片っ端から処分できるっていう利点はあるネ」
「それ、敵を作るだけだろ。できるだけ穏便にしたいんだ」
六甲は用意されていた椅子に座る。今まで適当に扱われ、死んでも仕方ない、死んで来いとまで言われていたのに、掌を返すのが早すぎる。
書類には六甲を昇格させる旨と、全部隊の指揮権及び管理権を望むなら委任するという話まで書いてあった。事実上、アカネと同じように特殊部隊の全てを掌握するということ。興味はそれほどないが、うまい話すぎてどうも乗ることができない。
「お前、やっぱり肝が据わってる。普通、それを発行したヤツに直接相談しにくるヤツがあるかネ」
「だって、お前と俺の仲だろ?」
「たった1ヶ月共に過ごしただけネ。仲良しこよしかしたつもりはないネ」
何を隠そう六甲と駄弁る女性は、特殊部隊総督_つまりトップに座するアカネ。彼女は特殊部隊の全権を握っており、無茶振りを要求する立場である。
その権利を六甲に委任しようというものだから驚きを隠せない。アカネという女性は使えるものは使う主義の人間で、職権乱用をし尽くすという我が儘さを持っている。それでも着いてくる人間がいるのだから、彼女は何か持っているのだろう。
「急になにか変なものでも食べてたっけ。周りから説得されても1ミリたりとも譲渡しようとしなかった大切な"我が儘を聞いてもらう権利"を放棄するなんてな」
六甲の言い種に護衛の視線が突き刺さる。また知らぬ不利をして、来客用の灰皿を護身用の鞘でトントンと叩く。心地よい音が部屋に響き、アカネは何も言わなかった。
暫くの無言の後、六甲は立ち上がる。
「今回は断るわ。体裁的には辞退ってことになるか。書類を提出するから受け取っといて、それじゃあ、後のことはよろしく」
部屋唯一の扉に向かう六甲は、アカネに呼び止められて足を止める。そしてゆっくりと振り返ると、満面の笑みを浮かべるアカネと目があった。気味が悪い。
「そういえば、第六隊に面白い子が入ったのは知ってるネ。その子、お前が大層気に入っているらしいのも聞いたネ」
大層気に入っている新兵。六甲の脳裏にある姿が過る。最近入ってきた特殊部隊に毛ほども向いていないし、才能も子供よりもあるという位。しかも初任務に向かった途端に重傷。もはや第六隊に残る理由はないし、残す理由はない。
「それがどうかしたか」
「その子、要らないなら私がもらうネ。丁度猫の手、虎の手、カメノテ、蛇足でも何でも借りたいぐらいには忙しい」
すぐ殺られそうなか細い存在など第六隊には必要はないだろう。ただでさえ激務というのに、木の枝1本なんて気にしていられないのである。六甲は合理主義にならねばならない。隊長という役割には、何百という命が乗るのである。
六甲は顎に手を当て唸る。引き取ってくれるのだから引き渡せばいいものの、何故か躊躇う自分がいることに気付いた。アカネは我が儘を言うが、悪いヤツではないというのが六甲の中の評価。きっとソイツを引き渡しても、悪い扱いはしないだろう。だが、直感で六を手放すのは勿体ない気がした。
「悪いな。やっぱり、もう少し面倒みるわ」
素早く返事を告げると、堪忍袋の緒が切れそうな護衛に手を振り、六甲は足早に部屋を出て扉を閉めた。しかし足を動かさず、足元を見つめる。
自分の判断を疑うつもりはないが、今回は奇妙である。悩むことなどないというのに、悩んで非効率な結果を残した。自分の行動にモヤッとしながら、六甲は窓を覗く。
窓の外には青々とした空と隊員たち。腕を組み合い、相変わらず悪巫山戯をしていた。そして騒ぐ隊員たちの後ろに松葉杖を付きながらも、懸命に歩く姿がある。隣には肥河がおり、心配そうに歩く姿を見ていた。
ふと歩く足を止めて、六は顔を上げる。そして窓を覗く六甲と目が合うと、六は嬉しそうに笑い会釈をした。六に釣られて顔を上げた肥河が六甲を見て眉間に皺を寄せる。
「そんなに嫌がることをしたか」
あまりにも顏を顰められたため、思わず呟いた。胸に手を当てて考えてみると、仕事をしないことしか心当たりはない。
「おはようございます」
声は聞こえないが、六の口がそう動いた。六甲は返事をするように手を振り返した。
満足したのか、前へと六は進んでいく。もう視線が合わさることは無い。
六甲はふらっとよろついた様に、壁に背中を預ける。
六と目が合ったとき、ふと一瞬時が止まったように感じた。六のふとした表情と仕草が脳裏に焼き付く。胸の奥がむず痒くなり、またモヤモヤする。六甲は胸に手を当てるが痛みはない。服の下を確認しても古傷以外何も残っていなかった。
「…今朝の肉に当たったか」
そういえば今晩の献立はさば味噌だった気がする。




