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こうして、私のイグラファル王国第二王子妃候補としての生活が始まった。
少ししたら、ゼノ様の婚約者として正式に発表がなされるらしい。
「未来の王弟妃ということで、学んでもらうことが多くあると思う。負担をかけて本当に申し訳ない」
そう告げられたときには「己の無知が露呈してしまう!」ということで、大層慌てたけれども、授業はどれも基礎的なことから始められたうえに、とても興味深くわかりやすい。
さすが大国の王族を指導する教師陣、本人の優秀さに加えて“指導者”としても頂点に立つような人達なのだろう。
ちなみに、最初の指導者は専属侍女のカーラだった。
侍女や使用人に対しての言葉遣いや態度が第二王子妃としてふさわしくないと、徹底的に直された。
王族は軽々しく他者に頭を下げてはいけないらしい。
おかげで、城内でぎょっとされる回数もぐんと減ったから、カーラには感謝している。
授業の合間にちょくちょくと様子を見に来るゼノ様には、「疲れてない? 休憩も必要だよ?」と気遣われるが、ルクシオ王城での五年間ずっと休憩しかしていなかったような私に、休む余裕などないのだ。
というよりも、休憩に飽きてしまっていた私は勉強が楽しくて仕方がない。
「そろそろお食事を召しあがりませんと」
専属侍女であるグレイスがもう三度も声を掛けてくれているけれど、首を横に振る。
「あと少しだけ、区切りがついたらこちらから言うから」
食事は大事だとカーラに口酸っぱく言われているが、一日三食規則正しく食べるという習慣がない私には、その感覚がいまいち掴めない。
むしろ毎朝用意される朝食だけで、一日分の栄養は摂取できていると思っている。
「…かしこまりました」
そう言って軽く頭を下げると、グレイスは静かに部屋から出て行った。
その行動に一瞬「怒った?」と思ったけれども、その後すぐに部屋に戻ってきたグレイスの前に立つ人物を見て、頭の中で白旗を上げる。
「もう昼の二時を回っているが、昼食がまだだというのは本当だろうか?」
厳しい顔をしたゼノ様にそう言われると、手を止めざるをえない。
「申し訳ありません、つい夢中になってしまって」
そう言いながら立ち上がろうとする私を制して、ゼノ様が私の前に跪く。
「アイリス、君が私の婚約者として懸命に学ぼうとしてくれていることを、心から嬉しく思うよ。けれども、君が心身ともに健康であることが、何よりも大切なんだ」
そう言い含めるゼノ様の声があまりにも切なそうなので、私まで胸が締め付けられるような心地がする。
「…一旦おしまいにしますね」
そう言って本を閉じた私を見て、ゼノ様は明らかに安堵した表情を浮かべ、グレイスに告げる。
「ならば私と一緒に食事をしよう。夕食までそれほど時間もないから、軽いものを用意してほしい」
「かしこまりました、食堂にご準備いたします」
グレイスはそう言うと厨房に向かったのだろう、部屋には私とゼノ様だけが残される。
ゼノ様に連れられて横並びでソファーに腰を据えると、ゼノ様の手が私の髪をするりと撫でる。
「アイリス、教師陣から君は大変呑み込みが早いと聞いている。急に異国に嫁ぐことになったのだから、焦りもあることだろう。けれどもどうか、あまり思いつめないでほしい」
そう言って一筋取った髪に口づけを落とすゼノ様は、絵画のように美しく、神々しさすら纏っていた。
思ったよりも間近にあるゼノ様のお顔は、何度見ても芸術品のようだ。
「女性の格好をしてもさぞ美しいだろう」と思うほどに中性的なゼノ様だけれども、先程頭に添えられた手は大きくて骨ばっていて、やっぱり男の人なんだなあと実感する。
間近に自分より少し高い体温を感じるだけでもドキドキしていたのに、壊れ物を扱うかのように丁寧に髪に口づけられて、私の脳内はパニックだった。
そのままの姿勢で上目遣いに「アイリス」と呼ぶゼノ様からは、すさまじい色気が放たれていて、自分が首まで真っ赤になってしまっていることを自覚する。
コンコンコンコン。
「ゼノ様、お食事の準備が整っていますよ」
突然強く扉を叩く音が室内に響き、慌てて扉に目を向けると、開け放たれたままのドアの前にはリックの姿があった。
「リックさん!」
五年ぶりに見るリックの姿に感極まった私は、彼のもとに走り寄る。
「ご無沙汰しております。きっとリックさんも、城内にいらっしゃるのではないかと思っていたのです。お会いできて本当に嬉しい…」
やはり他国での生活に緊張していたのかもしれない。
見知った相手と出会えたことで、視界が滲みすらしてきた。
零れそうになる涙を抑えようと、口をきゅっと結んでリックを見上げると、濃茶の瞳は何かに驚いたように見開かれていた。
「あの、どうかなさいましたでしょうか? お顔も少し赤いような…」
「いえ、本当になんでもありません。ゼノ様、怖いです」
慌てたようにリックが私の背後に立つゼノ様に視線を向けたので、私も何かあったのかと後ろを振り返る。
「何を言っている、リック」
ゼノ様はそんな私達に美しい微笑みを向け、話を続ける。
「アイリス、これはリックだ。私の乳兄弟で、現在は側近をしている」
「まあ、ではカーラの! 私ルクシオ王国から参りました、アイリス・ホワイトと申します。あのときは、嘘をついてしまってごめんなさい」
そう言って握手のために手をとると、リックは「ヒッ」と声を上げてゼノ様へと顔を向けた。
「…すみません、何か無作法を致しましたでしょうか。不快な思いをさせてしまって申し訳ありません」
リックの反応に慌てて手を放すが、まさか握手だけでこれほど顔色を悪くさせるとは思ってもいなかった。
私はまた他者との関わり方を間違えてしまったのだろう。
どうするのが正しかったのか、後でカーラに教えてもらわないと。
きっと私が落ち込んだのが伝わってしまったのだろう。
「いいや、アイリスは何も悪くない。リックが邪念を抱いたのがいけないんだ」
いつの間にか私の横に来ていたゼノ様が、そっと私の腰に手を添えて慰めてくれた。
「いや、僕悪いですか?」
リックの慌てた声にくすりと笑ってしまう。
きっとゼノ様は私を気遣ってリックのせいにしたのだろうけれど、さすがにそれがわからないほど鈍感ではない。
リックは何もしていないのだから。
「アイリス、君に落ち度はないけれども、今後はむやみに私以外の男に触れてはいけないよ。君は私の婚約者なのだから」
「はい、ゼノ様」
ふふふ、と笑いながら返事をする。
でも確かに、第二王子妃候補としては少しはしたない振る舞いだったかもしれない。
次からは気を付けなければ、と思いながら、私は食堂へと足を進めた。
「リック、後で部屋に来るように」
「さすがに理不尽すぎません? 今のは不可抗力でしょう」
私の少し後ろで交わされるやり取りには気がつかなかった。