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昨日は嵐のような一日だった。
イグラファル王国の第二王子妃候補として迎えられたと伝えられてから、ゼノ様と何をお話ししたのかはほとんど覚えていない。
ゼノ様との話が終わってすぐに、専属侍女二人と共に仕立て屋がやって来た。
身体の隅々まで採寸された後、「どのようなデザインがお好みですか?」と聞かれて、私は内心とても焦った。
使用人のおさがりばかりを譲り受けていた私は、好みで服を選ぶという発想はなかったのだ。
流行りも何もわからない。
とりあえず、慣れないドレスで転ぶのだけは避けたいので、「動きやすい服がいいです」と伝えると、一番下っ端であろう職人が呆気に取られていた。
「そういたしましたら、シンプルで軽いドレスを数点お作りいたしましょう」
私の返事を聞いてそう応えてくれた仕立て屋のマダムの対応力はさすがだ。
「お色はいかがいたしましょうか?」
続けて問われ、うーんと唸る。
クローゼットに用意されているのがブルー系のドレスばかりだから、バランスを考えて暖色系のドレスにした方がいいのかしら?
「失礼いたします、アイリス様。特にご希望がなければ、ブルー系の衣装になさるのがよろしいかと」
決めかねている私に、グレイスが助け舟を出してくれる。
先ほどゼノ様は「色の指定はない」と言っていたけれど、これほどまでに青色を推されるということは、きっと暗黙の取り決めがあるのだろう。
教えてもらえて本当によかった。
「ありがとう。ではマダム、ブルー系のドレスでお願いできますか?」
そう伝えると、マダムはぱっと顔を輝かせる。
「まあ、それはきっと、ゼノ王子殿下もお喜びになりますでしょうね」
なんとなく生暖かい目で見られているような気がしたけれど、それがなぜかはわからなかった。
そして今朝。
柔らかな羽で全身を包まれているような奇妙な感覚を覚えて飛び起きた。
真っ白な寝具から香るほのかな洗剤の香りに、一気に夢から現実へと引き戻される。
仕立て屋との打ち合わせが終わり、お風呂で身を清められた後、食事もせずに眠り込んでしまったらしい。
昨日ゼノ様は「後ほど夕食時に会おう」とおっしゃっていたような気がする。
その約束を反故にしてしまった!
どうしよう。どうしよう。
私はどうしたらいいのだろうか。
外に出て誰かに尋ねたいけれども、身体のラインがわかるような夜着で部屋から出るのはさすがにアウトな気がする。
外の明るさを知りたいけれど、カーテンを自分で開けても良いのかすらもわからない。
ベッドの上で様々な考えが頭に浮かぶが、私が起きた気配を察知して、カーラがすぐに部屋へと来てくれた。
「おはようございます、アイリス様。昨日は大変お疲れでしたでしょう。よく眠れましたか?」
母親のような包容力をたたえながらそう聞いてくれるので、私は一気に心情を吐露する。
「カーラさん、おはようございます。おかげさまでぐっすり眠れましたが、今は何時なのでしょう? 昨夜ゼノ様と食事を共にする約束をしていたのですが反故にしてしまったようで。ゼノ様は怒っていらっしゃったでしょうか」
その程度の約束すら守れない私に、ゼノ様は早くも愛想を尽かしたかもしれない。
そう思うと恐ろしくて、膝に置いた手の震えが止まらない。
「今は朝の十時を少し過ぎたところです。ゼノ様はその程度のことで気を悪くはなさいませんよ。アイリス様のお身体を、とても心配しておいででした」
そう言いながらカーラは私に水を差し出して、にっこりと付け加える。
「アイリス様。私を含め侍女や使用人に敬称は付けないよう、お気をつけくださいね」
思っていた以上に寝過ぎてしまったことに驚愕し、慌てて朝の支度を手伝ってもらう。
今日はクローゼットに用意されていた深青のドレスを選んだが、こんなに素敵な衣装を着るのは初めてなので、不安な気持ちの中でもついつい顔が緩んでしまう。
欲を言うならば、もう少し自分の胸元にボリュームがあればいいのだけれど。
いつの間にか部屋に現れていたグレイスの「とてもお似合いですよ」という言葉に背中を押され、軽く朝食をとった後で、政務中だというゼノ様の元を訪れる。
昨夜寝てしまったことを、できることならすぐにでも謝ってしまいたい。
「お仕事中失礼いたします。アイリスです」
この時間なら大丈夫だろうと言われてゼノ様の執務室まで来てみたが、邪魔になりそうならすぐ部屋に戻ろう。
その程度の軽い気持ちで訪れたのだけれど、バタバタと部屋から出てきたゼノ様の顔は、歓喜に満ち溢れていた。
「君から会いに来てくれるなん…」
そう不自然に言葉を切ったゼノ様は、私の姿を上から下まで見下ろし、固まってしまった。
「いかがなさいましたか?」
私の格好に、どこかおかしな点でも?
そう思ったが、カーラとグレイスが二人がかりで支度してくれたんだから、きっと大丈夫なはず。
「すまない。…とてもよく似合っているから、驚いてしまったんだ」
ゼノ様のそんな言葉に、胸が高鳴って上手く返事ができない。
とはいえ、きっと今後はこのような社交辞令を言われる機会もたくさんあるのだろう。
慣れていかないと。
「ところで何かあったのかい?」
ゼノ様は私を執務室に招き入れると、ソファに座るよう勧めながらそう尋ねた。
「はい、昨夜のことを謝りたくて。ご挨拶もせずに眠ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
カーラはああ言ってくれていたけれど、もしかしたらお叱りを受けるかもしれない。
そう思うとゼノ様の顔をきちんと見ることができない。
「アイリス、顔を上げて?」
そう言われて恐々と視線を上げると、幸せそうに微笑むゼノ様と目が合った。
「長旅で疲れていたのだろう。何も気にすることはない」
美しい顔でそう笑いかけられて、緊張の糸が切れるのを感じる。
ゼノ様が怒っていないことに安堵し、私はふーっと細く息を吐き出した。
謝罪も済んだことだから、迷惑がられないうちに退散しようと思っていたときだった。
室内にノックの音が響いたかと思うと、「ゼノ様、お茶をお持ちいたしました」と言って侍女が入室してきた。
彼女が目の前のテーブルにティーセットとお菓子を手際よく用意するのを見て、私は慌ててゼノ様に頭を下げる。
「ゼノ様、お茶を召しあがるご予定だったのですね。邪魔をいたしまして申し訳ありません。これで失礼いたします」
「ちょっと待ってくれ」
ゼノ様の休憩の邪魔にならないようにと、急いで席を外そうと立ち上がったところ、ゼノ様が焦ったように呼び止める。
「一人でお茶を飲んでも意味がないだろう。私はアイリスと共に時間を過ごしたいんだよ」
「へっ?」
全く予想もしていなかった言葉に、素っ頓狂な返事が口から漏れる。
私と? どうして?
「ゼノ様、そう言っていただけるのはすごくありがたいです。けれども私、ゼノ様を楽しませるような話題を提供できる自信がありません」
「何もそんなことを期待しているわけではない」
食い気味にそう否定され、ゼノ様の本意がますますわからなくなる。
「ただ君と同じ空間で、同じ時を過ごしたいんだ。面白さなど求めていない。他愛無い話の中で、君のことを知りたいし、私のことを知ってほしい」
ゼノ様は切実な顔でそう訴えてくるが、私のことを詳しく知られると困ったことになる。
なんと答えればよいのかわからず、「はあ…」と気の抜けた返事をしてしまう私に焦れたように、ゼノ様が私との距離を詰める。
「アイリス、私達は夫婦になるんだ。私に愛されることに、慣れてほしい」
そう言って私の手の甲に口づけを落とすゼノ様からは、なぜか獲物を狙う獅子のような気配がした。