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馬車の停車に合わせて、小窓から外の様子を見たカーラの顔色が変わったのを、私は見落とさなかった。
「少々お待ちください」と言って馬車から降りるカーラが、外から中の様子が見えないように扉を開け閉めする様子に、楽天的な考えをしていた先程までの自分を叱りたくなる。
内容まではわからないものの、外から男女の言い争う声が聞こえる上に、人の気配も増えてきている。
徐々に激しさを増す諍いの声に、私は膝の上で拳を握り締める。
「私の存在が混乱を招いているのですね」
斜め前の席に腰かけるグレイスに発した言葉は、予想以上に沈んだものとなった。
自分が歓迎されざる客であることは当然わかっていたものの、いざそのことを体感すると、恐ろしくて黙ってはいられなくなったのだ。
「私は皆様の前に、どのような顔をして姿を現せばよいのでしょうか」
怖い。怖い。怖い。
「おそらく、心配なさるようなことはないかと」
恐怖に青ざめる私に、それまで完璧すぎてアンドロイドのような顔をしていたグレイスが、少女らしい微笑みを向ける。
「私が、隣に控えております」
その言葉とともに私の手に添えられたグレイスの掌は、すべすべとしていて少し冷たかった。
「…ありがとう」
私に寄り添おうとしてくれるグレイスの気持ちが嬉しい。
少なくともここに一人、私の味方でいてくれる人がいるんだから、きっと大丈夫。
例え馬車から降りた途端に石を投げつけられようとも、それを甘んじて受け入れよう。
私一人が辛い思いをすることで、何千万人もの民の生活が維持できるのだから。
おそらくこの後、私はイグラファルの王族の方々とお会いすることになるだろう。
人質として登城したのだから、アイリス本人であることを確認する機会が設けられるはずだ。
そうなると、その際に目立つ傷があるのはよろしくないだろう。
石が飛んできても顔に当たらないように、俯いた状態で馬車を降りるのが得策かもしれない。
ところで、ルクシオ国内ですら私の顔は知られていないはずだけど、本人であるとどう判断されるのだろう。
王には寸分たりとも似ていないし、肖像画を描いてもらった記憶もない。
王女らしい気品が備わっていないからと言って、別人認定されたらどうしよう。
そもそも……
「ゼノさまっ!」
カーラの慌てた声が、私の取り留めのない思考を中断する。
外側から開けられた扉の向こうに広がっているであろう悪意を想像し、無意識のうちに身体が強張る。
しかし私に投げかけられたのは石ではなかった。
「アイリス王女を迎え入れたと聞いていたが、どうしてエイミーがここにいるんだい?」
柔らかな声に顔を上げると、そこには黒髪藍眼の青年がはにかんでいた。
「ゼノ…さん??」
「そうだよ、五年ぶりだね」
「会えるのを楽しみにしていたよ」と言いながら恭しく私の手を取るゼノは、すっかり成長していて、バランスの良い体躯に中性的な顔立ちがまるで芸術作品のように美しかった。
ゼノの人間離れした美しさにしばらく見惚れていた私だけれど、自分の置かれている状況のまずさにはたと気が付き、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
さっそく“身代わり”をよこしたと勘違いされている!
あのときついた嘘がこれほどの大問題に発展するなんて、考えてもいなかった。
なぜあの日ルクシオの王城にゼノがいたのかはわからないけれど、状況からしてゼノがイグラファル王国の関係者であることは間違いないだろう。
両国の平和維持のためにも、早急に誤解を解かなくては!
「ご無沙汰しております、ルクシオ王国第一王女のアイリス・ホワイトと申します。あの折には、嘘をついてしまい申し訳ありません。城の者に内緒で部屋を抜け出していたものですから…。あのっ、悪意を持って騙そうとしたわけではありませんし、私が王女本人であるということも」
「落ち着いて、大丈夫だよ」
矢継ぎ早に説明を続ける私の言葉を、笑みを含んだゼノの声が止める。
「ついからかってしまっただけなんだ。君がアイリス王女であることはわかっているし、騙されたなんて思ってない」
そう言って細められたダークブルーの瞳は、宝石のように輝いていた。
「とりあえず、先に君の部屋に案内しよう。荷物は彼女達に任せればいいよ」
その言葉にカーラとグレイスが頭を下げたので、私はお礼を告げてゼノの言葉に従う。
差し出された左手に疑問が浮かぶが、確かに今到着したばかりの敵国の王女に自国の王城を自由に歩かせるのは不用心すぎるだろう。
乱暴な方法で拘束してこないところに、スマートさを感じる。
反逆の意志などないことを示すためにも大人しく右手を重ねた私を見て、ゼノがなんとも言えない表情をした気もするけれど、とりあえず今は部屋を目指すことにする。
「ここが今日から君の部屋だ」
そう案内されたのは、日当たりの良い広々とした部屋だった。
華美ではないものの、知識のない私が見てもわかる位には上質な家具が取り揃えられていることに驚愕する。
見るからに柔らかそうなベッドだけでも、ルクシオの王城で過ごしていた物置部屋と同じくらいの広さがありそうだ。
「必要なものは揃えさせたが、足りないものがあれば遠慮なく言ってほしい。部屋の中であれば、内装も自由に変えてもらって構わない」
そうゼノに言われて、これは夢だろうかとすら思うけれど、同時に恐ろしい考えが頭に浮かぶ。
これほど丁重にもてなすだけの価値が私にあると思われているんだ。
ルクシオ国王もそれだけ私を大切にしていたと、だからこそ人質としての価値があるのだと、そう思われているんだ。
それに気づいた途端、身体中の体温が下がった気がした。
私が人質としての価値がない人間であると知られたら、それこそ戦争が始まってしまうのでは…?
「何か不都合な点でもあっただろうか?」
黙り込んでしまった私を心配したゼノが顔を覗き込みながらそう尋ねるものだから、今度は急に顔に熱が集まる。
今まで同年代の男性と関わったことがほとんどない私は、この距離感に平常心ではいられない。
「だい…っじょうぶです。良くしていただき、ありがとうございます」
美しい人に至近距離で見つめられて、なんとか返事をした自分を褒めてあげたい。
「ならいいのだけれど」
そう言ったゼノは、次にクローゼットを開けて中を示す。
「君の好みがわからなかったからね。ドレスは数着しか用意していないんだ。疲れているところ申し訳ないのだけれど、すぐに仕立て屋が来ることになっているから好きなものを仕立ててもらってくれ」
そう言われても困ってしまう。服を仕立ててもらったことなんて、今までで一度もないのだから。
でも、今それがばれるのは避けなければ。
私はクローゼットに目をやり、気づいたことを尋ねてみる。
「何か、色合いに指定がありますでしょうか。ブルー系のドレスが並んでおりますが」
「…っ、特に指定はないよ」
「好きな色を着てくれたらいい」と言って気まずそうに眼を逸らしたゼノの頬は、ほんのり色づいているように見えた。
常識はずれな質問をしてしまったのかしら?
「それと、最後に一つだけ守ってほしいことがある」
そう言うとゼノは、先ほど入ってきたのとは別の扉の前へと私を促した。
「この扉はまだ開けてはいけない。内鍵も決して外さないと、約束してほしい」
「承知いたしました。鍵には決して触れないと約束いたします」
人質だもの。制限があるのは当然だ。
あからさまにほっとした表情を見せるゼノに、今度は私から一つ質問をする。
「あの、いまさらこのようなことをお聞きするのはお恥ずかしいのですけれど、なんとお呼びすればよいでしょう?」
そう、私は“ゼノ”が何者なのか、一切知らされていないのだ。
その言葉にはっとした表情を見せたゼノは、すぐに美しい微笑みを浮かべて衝撃的な発言をした。
「名乗るのが遅れて申し訳ない。イグラファル王国第二王子、ゼノ・オーウェンです。夫婦になるのだから、どうか“ゼノ”と呼んではもらえないだろうか?」