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私が王城に来て五年が経った。
その間何か変わったことがあったかと言われると、何もない。
私は相変わらず元物置小屋で暮らしており、城の使用人にこっそり貰った食事で腹を満たし、同様に貰った毛布で暖をとっている。
王妃や王子達には相変わらず軽んじられているが、いないもののように扱われるのはむしろ都合が良い。
王族が私に無関心なおかげで、最近では余った香油まで手に入るようになり、肌艶まで良くなってきた。
第一王子に関しては、つい最近立太子の儀が行われて王太子になったそうなので、正式に王位継承者と認められ、私になど構っている暇はないのだろう。
ここ最近商人であろう者達の出入りが増えているので、みすぼらしい私よりも心惹かれる何かに夢中になっているだけかもしれないけれど。
この五年間で王と話したのは片手で数えるほどの回数しかなく、王に期待することなど何もない。
とはいえ、つい先日「アリス」と呼びかけられたことにはさすがに驚いた。
この城では、唯一の血縁者である王ですらそのような態度なので、私と“王族の皆様”との間に家族らしい繋がりなどあるわけがない。
私にとっては王城で働く人達の方がよっぽど大切だし、彼らの方がよっぽど私を大切に扱ってくれる。
王城では、下級貴族出身の執事や侍女と、エイミーのように庶民である使用人が働いている。
仕事内容は明確に区別されているけれど、執事長であるカールの指導が行き渡っているからだろうか、身分に関わらずそれぞれが他者に対して敬意を持って接しており、王妃達に虐げられている私に対しても粗雑な扱いをする者はいない。
「ねえ、エイミー。また内緒で本を借りてきてくれないかしら?」
「かしこまりました、アイリス様。とっておきの本を見繕ってきますね!」
使用人として働くエイミーとは私が城に来た時からの付き合いで、四歳年上の彼女を姉のように思っているのだけれども、以前それを伝えたところ「なんて恐れ多いことっ!」と半ば本気で怒られてしまったから、今は心の中に留めている。
ちなみに、カールのことは祖父のように思っているが、“カールさん”と呼ぶだけで「使用人に敬称を付けてはなりません」と小言を言ってくる彼には、そのようなことは口が裂けても言えない。
ところで。
いつの間にか部屋にひっそりと置かれるようになったティーセットでお茶の用意をしてくれてるエイミーに、ずっと気になっていることを聞いてみる。
「エイミー、ここ数日の城内の緊迫した空気はなんなの? 何か知っている?」
他国の国王がいらっしゃるときでも、こんな空気になったことはない。
「私は掃除を担当している使用人ですからね。重要な事柄に関しては知らされませんよ」
「どなたかがいらっしゃる予定もないの?」
「ありませんし、むしろお客様のお見え自体がこの数日間ぱたりとなくなっています」
「うーん、カールさんに聞いたら教えてくれるかしら?」
「“さん”を付けるとまた怒られますよ?」
…使用人と王女の会話として異質なのはわかっているけれど、そもそも私自身が異質な王女なので問題はない。
そんな話をしているときだった。
コンコンコンコン、というノックのすぐ後に部屋の扉が開けられた。
「アイリス様、王様がお呼びです」
扉の向こうには、つい先ほどまで話題にしていた人物が立っていた。
いつも冷静沈着で私に対しても礼を尽くしてくれるカールが、額にうっすらと汗を浮かべているなんて、一体どんな異常事態が発生したのだろう。
そもそも扉を開ける前になんの確認もされなかったことも、王の中で私が“存在している”状態であることも、普段ではありえないことだ。
「王が私を? それとも“アリス”を?」
鬼気迫るカールの雰囲気を和らげたくて冗談めかして聞いてみたものの、それに対する返事はなく、「お急ぎください」と言われるだけだった。
ただごとではないぞ、と察知した私は、それ以上は何も聞かずに席を立ち、カールの後に続いた。
カールに案内されて、王室へと続く廊下を懸命に歩く。
廊下の絨毯は毛足が長く、私の部屋のカーペット(注:使用人のお下がり)とは比べ物にならないくらいにフカフカしていて、歩きにくいことこのうえない。
廊下の両脇には煌びやかな装飾品が並べられており、地味な格好の私はかえって目立ってしまうほどだ。
ワンピースの袖のボタンが取れかかっていることに気が付いた私は、転ばないように必死に足を動かしながらも、「せめて他の服に着替えた方がよかったのではないだろうか」「でもまあどの服でも似たようなものか」などと考える。
そんな考え事をする時間があるくらいに、私の部屋から王室までの道のりは長いのだ。
王室の前にたどり着いたのは、「王の前ではせめて袖口が見えないように腕の角度に気を付けよう」と結論付けた頃だった。
王に促されて初めて足を踏み入れた王室は、想像以上にがらんとしていた。
人払いがされているようで、今入室した私とカール以外には、王と兄王子二人がいるのみだった。
この室内が王城の緊迫した空気の発生源なのかと思うほどに重苦しい空気に身を固くしつつも、王からの言葉を頭を下げて待つ。
自身の左手で髭を弄びながらもどこか遠くに視線をやる王と、足元に視線を落としたまま動こうとしない兄王子達。
無言の時間にそろそろ居心地の悪さを感じ始めた頃だった。
ごほんと咳払いをした王からなんの前置きもなく告げられたのは、「…おまえはイグラファル王国に行くこととなった。三日後には城を立つように」という決定事項だった。
「我が国に同盟の条約に反する行為があったとして、あちらの国がおまえの身柄の引き渡しを要求してきたのだ。断った場合には武力行使に踏み切る、とな」
イグラファル王国。
我がルクシオ王国に隣接する国の一つで、近隣諸国と共に同盟を結んでいる国。
我が国の二倍の領土を有するその国は、近隣国との国交が盛んな豊かな地であると聞いている。
条約が締結された約七十年前以降、同盟国間では武力による衝突はなかったはずなのに、その国が武力行使に踏み切る可能性を示唆しているというのか。
「…私が行かねば戦争になる、ということでしょうか?」
もはや袖のボタンのことなど気にしていられない。
震える手を握り締めて問う私に、王は「そうだ」とだけ返した。
どうしてそのような話になったのだろうか。
“同盟の条約に反する行為”とは一体なんなのか。
私はどのような立場で迎え入れられるのだろうか。
聞きたいことは山ほどあるけれど、そのような質問ができるほどの信頼関係が、私と王との間にはない。
そもそも、私が行かねば戦争になると言われているのに、断ることなどできない。
王家がどうなろうと知ったことではないけれど、戦争で最も傷付くのは国民なのだ。
「承知いたしました。早速準備を進めてまいります」
あまりにもあっさりと返答をした私に、第二王子は少し驚いた顔をしたけれども、王太子は表情も変えずにこちらを見つめるだけだった。
私のことを妹だとは思っていないだろうし、目障りな人間がいなくなって内心ではほくそ笑んでいるのかもしれない。
「ありがとう、アリス」
そう言う王に史上最高の笑みを残して、私は王室を後にした。