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婚約発表まで残り一ヶ月。
ノックの音に気づいたグレイスが私の部屋の扉を開けると、部屋の前にはゼノ様とリックが立っていた。
今日は婚約発表の場で着るドレスの打ち合わせをする、と伝えていたのに、一体どうしたというのだろう。
「アイリスの衣装が気になってね、仲間に入れてもらおうと思って」
そう言うゼノ様の瞳はキラキラと輝いているが、リックの顔は浮かない。
目の下の隈が酷いうえに、彼の濃茶の瞳はどんよりと濁っており、政務の忙しさで疲労が溜まっていることがわかる。
それに比べて、どうしてゼノ様はこんなに生き生きしているのだろう?
前回身体のサイズを計測し終えているので、二人が加わることになんら問題はない。
「もちろんです。マダムにお持ちいただいたデザイン画を見ているところでしたので」
そう言って机上を示すと、ゼノ様は断りを入れて私の隣に腰掛け、仕立て屋のマダムがテーブルに広げていたデザイン画に目を向ける。
用意されていたデザイン画は三十枚ほどあるだろう、どれもそれぞれに魅力的だ。
最近の流行りは背中が大きく空いたデザインのドレスらしい。
腰あたりまでを露出したドレスだというのに、いやらしさを感じさせることなく、むしろ上品さを醸し出しているドレスは、さすが王族御用達の仕立て屋が用意したデザインだ。
他にも、伝統的と言われる形のドレスや、スタイルが良くないと着こなせないであろう細身のドレスなど、たくさんのデザイン画が並べられており、目移りしてしまう。
するとゼノ様が、デザイン画を手に取って二つに分けだした。
「こちらは公式な場に出るには少し奇抜すぎるだろう。こちらのデザインから選んでほしい」
そう言って片方の山を指差すと、もう片方の山をマダムへと返す。
ゼノ様が選んだデザイン画は、どれも首元が詰まったデザインで、袖も肘か手首までを覆うものばかりだった。
「頭の固い貴族もいるからね。流行を取り入れる必要はないよ。肌の露出は少なければ少ないほど良い」
確かに、婚約発表という正式な場においては、流行を取り入れたり個性を出したりすることよりも、“できるだけ多くの人間に不快感を与えないこと“の方が重視されるのだろう。
「ご指摘いただきありがとうございます。ゼノ様が様子を見に来てくださって、助かりました」
そう言うと、ゼノ様は決まりが悪そうな顔をした。
マダムの意見も参考にしつつ、その中でも特に素敵だと思ったデザイン画を伝える。
Aラインのドレスで、デコルテや首、袖の部分にはレース生地が使われているものだ。
ゼノ様もデザイン画を眺めては、親身になってアドバイスをくれた。
彼はなぜかドレスに対して並々ならぬこだわりがあるようで、こちらが驚くほどに熱心だった。
次に色合いを、というときになって、ゼノ様が覚悟を決めたような表情で口を開く。
「アイリス、ここからは完全に私の我儘だ。もし君に希望の色があるならば聞き流してくれて構わない」
膝の上で固く握りしめられた彼の手が僅かに震えていて、何を言われるのかとこちらまで緊張してしまう。
「どうか、私の瞳の色であるダークブルーのドレスを身につけてはもらえないだろうか」
これは私もつい最近知らされたことだけれど、大きなパーティーや大事なシーンでは“配偶者や恋人の瞳と同じ色の服や装飾品を身につける”というのがこの国での慣例らしい。
そこから転じて、恋人に自身の瞳と同じ色の装飾品を贈ることは、“自分のものだ”というアピールでもあるということだ。
その話を聞いたとき、一面青色で埋め尽くされた自室のクローゼットを思い出し、思わず赤面してしまった。
みんながあれほど青色にこだわっていたのは、そういうことだったのね…。
しかし今では、教えてもらえてよかったと思っている。
そのような慣例を知らずに無視して、いらぬ噂を立てられることは避けたい。
それに、一部では「束縛的だ」として忌避されているらしいこの慣例を、私は素敵なもののように思う。
好きな人の瞳の色に身を包まれていると、その人に見守られているような気持ちになれるのだ。
「もちろんそのつもりでおりました。ゼノ様の髪色である黒も使えたらと思っているのですけれど、難しいでしょうか?」
思えば、婚約発表会は“イグラファル王国第二王子の婚約者”としてのお披露目の場であると共に、“ルクシオ王国の王女”として初めて人前に立つ場でもあるのだ。
そのことを思うと足がすくんでしまう。
自分を強く保つために、ゼノ様の色のドレスを纏いたい。
「当日は、全身でゼノ様を感じていたいのです」
私のその言葉を聞いて、部屋にいる全員、今までどんなときにも表情を崩すことのなかったマダムまでもが顔を赤くした。
「イグラファルにいらっしゃった当初から、青色ばかりで囲んでいた甲斐がありましたね」
呆然とした表情で、リックがゼノ様にそう耳打ちするのが聞こえた。
ドレスの打ち合わせも終わり、ゼノ様とリックをお見送りしようとした、まさにそのときだった。
「ゼノ王子殿下。すぐにお伝えしたいことがございます」
そう言って私の部屋に訪れたのは、軍部を統括する大臣だっただろうか。
その言葉を聞いて、“私の婚約者”としての顔をしていたゼノ様が、一瞬で“第二王子”の顔になる。
「わかった、部屋で聞こう」
大臣にそう伝えたゼノ様が早足で執務室に向かうのを見て、胸を張って彼の隣に立ちたいと、強く思った。
固い表情をしたリックが、「ゼノ様がお呼びです」と私を自室まで呼びに来たのは、それから一時間後のことだった。
今までゼノ様が私を呼びつけることなどなかったのに、一体どうしたというのだろう?
小さな違和感に、胸騒ぎを感じる。
リックに先導されて着いた部屋で、執務机の奥に座ったゼノ様に迎え入れられる。
私からは逆光になっていて、彼の表情はわからない。
「アイリス、落ち着いて聞いてほしい」
淡々としたその声からも、彼の感情は読み取れない。
「ルクシオ王国の国王が、イグラファル王国への武力攻撃を指示したとの情報が入った」
…どうして、この幸せが続くと思っていたんだろう。
イグラファル王国の第二王子妃として求められたのは、“王族から大切に思われている”ルクシオ王国の王女だったのに。
血の繋がりがあるだけの私は、本来ここにいるべきではないのに。
伝えなくてはならない。
イグラファル王国の国民を危険に晒すわけにはいかない。
ゼノ様に正しい情報を伝えて、最善の方法を考えてもらわねば。
「一番重要なことをお伝えできていませんでした」
頭を下げて、言葉を続ける。
「騙すつもりはなかったのです」
ゼノ様と幸せになりたかった。
イグラファル国民の幸せを共に作りたかった。
「ゼノ様と共に歩む未来に焦がれて、どうしても言い出せなかったのです」
でも今は、自分のことをきちんと伝えなくては。
「私はルクシオ国王にとって、武力行使を思いとどまらせるだけの価値がある存在ではありません」