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イグラファル王国に来て三ヶ月が経った。
二ヶ月後には、私をゼノ様の婚約者として正式に発表することが決定したと聞かされた。
「ルクシオ王国同様、イグラファルでも十六歳から成人として認められるからね。君の十六歳の誕生日に、正式に婚約を発表しようということになったんだ」
そう私に伝えるゼノ様は、とても嬉しそうに見えた。
婚約発表会では、ダンスを披露する場が設けられるらしい。
ルクシオ王国では、十二歳になると全員が国立学校に入学し、身分を問わずに様々な教養を身につけることになっている。
イグラファル王国でもそれは同様らしく、ダンスも履修科目に含まれているため、国民は身分に関係なく様々な場面でダンスをする慣習があるそうだ。
「基本のステップはどちらの国も同じだよ。気負うことはない」
最初にその話を聞いたとき、ゼノ様にはそう言われたけれども、ますます気持ちが沈むだけだった。
しかし隠し立てする訳にはいかない。
このままでは私だけでなく、隣に立つゼノ様にも恥をかかせることになってしまう。
「ゼノ様。私、体調の関係で学校には通えておりませんで。きちんとダンスを教わったことがないのです」
本来ならば全員が入学するはずの学校に、私は通わせてもらえなかった。
おそらく王族の権力を使ったのだろう。
自身の教養のなさを告白するのは、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。
けれども、「そうか、ならば教師をつけよう」と、何でもないことのようにゼノ様に言われて、思わず涙が出そうになる。
「ありがとうございます。ゼノ様の顔に泥を塗らぬよう、精一杯練習いたします」
どんなに厳しいレッスンであろうと、必ずやり遂げてみせよう。
「アイリス、気持ちは嬉しいけれど、くれぐれも無理をしてはいけないよ」
そう言って目を細めるゼノ様は、微笑んでいるのにどこか寂しそうだった。
ダンスレッスンは、さっそく翌日から行われることになった。
ゼノ様が上手く伝えてくれたおかげか、教師は立ち方や歩き方から指導してくれた。
「アイリス様は姿勢がとても美しくあられますね」
こればかりは習慣なので矯正するのはなかなかに難しいのです、と続ける教師の言葉を聞いて、ほんの少しだけ自信がつく。
イグラファル王城の教師陣は穏やかな人が多いが、担当科目に関しては厳しく、決してお世辞は言わないのだ。
「そう言っていただけて嬉しいです。姿勢だけは、幼い頃から母に厳しく躾けられましたので」
私がそう言って微笑むと、教師は満足そうに頷いた。
「母君の教えが、今もアイリス様の中で生きているということですね」
しばらくは基本のステップを、教師を手本に練習していたけれど、そろそろ対人練習をというときに、ホールに声が響いた。
「アイリス、練習には私が付き合おう」
そう言いながら大股で近づいてくるゼノ様に、「ぜひ!」と応えそうになるが、第二王子としての政務はどうしたのだろうか。
「ゼノ様、お仕事は大丈夫なのですか?」
掌を見るとわずかにインクの汚れが付いており、つい先ほどまで政務をしていたことが見て取れる。
普段も忙しいゼノ様だけど、それに加えて婚約発表に関する仕事が山積みだと、リックが嘆いていたことを思い出す。
「ひと段落ついたところだから大丈夫だよ」
「でも、きっとお疲れでしょう? 私のことは気にせず、お身体を休めた方がよいのでは?」
「何を言ってるんだ。一人で休むよりも、君と踊る方がよっぽど体力回復に繋がるよ」
そこまで言われると断ることどできない。
「ではお言葉に甘えまして、よろしくお願いいたします」
そう言って、ゼノ様に促されるままに手を取り、お互いの背中に手を回す。
鼻先が触れてしまいそうなほどに目前に迫ったゼノ様の胸元から、ふわりと柑橘系の香りを感じて、あまりの距離の近さに顔に熱が集まる。
ゼノ様とこんなに密着するのは初めてで、もはやステップどころではない。
挙動不審な私の姿があまりにも残念すぎたのか、ゼノ様は口元を自身の手で覆いながら目を閉じ、何かに耐えるような表情をしている。
つい先ほどまでは、教師にも「だいぶ上達なさいましたよ」と言われていたのに、こんな状態ではゼノ様も不安に思うに違いない。
「あのっ、ゼノ様、違うんです! もう少しできていたんですけれど、ドキドキしてしまって!」
「…大丈夫だ、集中しよう」
そう言ったゼノ様の声には、いつもより緊張感が漂っていた。
ようやくコツが掴めてきたのは、何度目かの練習の後だった。
ダンスが上手な人にリードされると踊りやすいと、どこかで聞いたことがある。
実際にゼノ様と踊ってみると、一人でステップを踏んでいたときよりも格段に踊りやすいことがわかる。
第二王子なのだから、きっと今までもたくさんの女性と踊る機会があったのだろう。
そう考えると、当然のことなのに胸がモヤモヤとしてくる。
それが顔に出てしまっていたのだろうか。
「そろそろ疲れてしまった?」
ゼノ様は心配そうにそう聞いてくれるけれど、その言葉に「いいえ」と答える自分の声はとても冷たく響いた。
これには私も驚いたが、ゼノ様は明らかに狼狽えている。
「アイリス? まさかどこか痛めたのか?」
ゼノ様は本気で私の身を案じてくれている。
いつも言葉を尽くし、行動で示してくれるゼノ様。
そんな誠実な彼に対して、私ばかりが何も伝えずにただ不機嫌な態度をとるべきではない。
そうは思うけれど、あまりに子供じみた独占欲が恥ずかしくて、表情が見えないようにとゼノ様の胸元に顔を埋める。
「ゼノ様のダンスがお上手なのは、初心者の私でもわかります。きっと今までたくさんの女性と踊ってこられたからなんだなと思うと、少し面白くない気持ちになってしまって」
そう言うと、宥めるように私の肩に置かれたゼノ様の両手がわずかに震える。
頭上からは「ぐうっ…」というくぐもった声が聞こえ、さすがに子供っぽすぎたかと不安になる。
「…明日からも、アイリスのダンスの際には必ず私が相手になろう。練習も含めて全て」
きっと私の先ほどの言葉を聞いて、安心させようと思ってくれたのだろう。
ゼノ様の提案はありがたいけれど、スケジュールの都合上無理だということは容易に想像がつく。
「いえそんな、我儘を言うつもりはなかったのです。次にお相手していただく際に上達したと思っていただけるよう、ゼノ様とのダンスを思い出しながら練習に励みますね」
ゼノ様の胸元に身体を預けたまま、顔だけを上げてそう言うと、ゼノ様がふわりと私を抱きしめる。
「アイリス、愛しているよ」
耳元で聞こえたその言葉が嬉しすぎて、言葉が発せなくなる。
私はただただ、ゼノ様の腕の中で何度も頷いた。
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