(9)残日【完】
「……お前の思い描いた私に相応しい場所が、この待遇か? アルトゥーニヤ」
幽閉とは名ばかりの貴賓室にて、虜囚には見えない華やかな衣装に身を包んだ最愛の女性は、どこか影のある笑みを浮かべて低く呟いた。
ラズィーヤは、王族としてもてなし、足繫く様子を見に訪れる俺を迎え入れはするが、かつてのような軽口を交わすことはない。度重なる重苦しい沈黙に、深い断絶を突きつけられているかのようだった。
「ええ。俺は貴女のすべてを手に入れたかったんです」
さらりと答えた言葉の本心を探ろうとするかのように、ラズィーヤは何も言わず、俺の顔をじっと眺めた。
本当にすべてを手にできるほど己の器が大きければどれほどよかっただろう。ここまでの謀略を弄して、せいぜい得たものは身柄と熱を失った眼差しだけだ。それでも、ラズィーヤの価値を理解せず、その尊厳を踏みにじようとする者たちの中心に、これ以上は置いておけなかった。
答えを求められていたわけではないことはわかっていた。
今の彼女を支えるものが、怒りや憎しみであったのだとしても構わない。
ラズィーヤは深々とため息をつき、あの戦いで彼女を守って命を落とした兵の名を一人ずつ口にした。
「〜〜、〜〜、〜〜、――ヤークート」
務めて平静を保っていても、最後の名前にだけ特別な意味を感じてしまうのは、俺の妄想だろうか。
「お前が私を籠に収めるために殺した男たちの名だ。ゆめゆめ忘れるな」
裏切りを責める代わりに、ラズィーヤはただ一言、重々しく釘を刺した。
◇
夢を見ているのだろうか。
罪の意識に耐えかねて、とうとう幻覚や幻聴まで引き起こすようになったのかと本気で疑うほどには予想だにしない言葉だった。
「いまなんと?」
「私と結婚せよ、と言った」
ラズィーヤは淀みなく、単純明快な言葉でくり返した。
「いまさら、俺をお望みとは――」
正気ですか、と問う言葉は声にならず、喉の奥から乾いた嘲笑が漏れる。婚姻の提案を愛の告白と受け取れるほど、傷のない生き方はしてこなかった。
バフラム王の即位から二か月が経った頃、アイティギンが暗殺されたと報せが届いた。摂政の口出しを嫌ったバフラムの手によるものとされている。ラズィーヤに対して反乱を起こす際に約束されていた地位は与えられず、再三の要求を突き返してきたアイティギンとの関係は良好とは言えなくなっていたが、俺が国政の中枢に関わる望みは完全に断たれた。
すくなくとも、現王政においては。
この婚姻がなにを意味しているのか、わからないとは言わない。目を見れば本気だとわかる。バフラムを討ち、王位を奪う権利を与えると、そう言っているのだ。彼女からすべてを奪った、この俺にすがってでも、まだ統治者に返り咲こうと望むというのか。
「……なぜですか。貴女はそれほど愚かでも、盲目でもないでしょう」
「あの日の逆だな」
ラズィーヤは不意に口元をゆるめ、どこか遠くへ思い馳せるように呟いた。
「夢を、みた。それは、みてはならぬ夢だった」
「ゆめ……?」
「ヤークートは私の夢だ。決して叶えるつもりも、応える気もなかったが、あれの手を取ればまったく違う生が与えられるのではないかと、一度として考えなかったといえば嘘になる」
彼女にとって将軍とは、それほどまでにかけがえのない存在だったとでもいうのだろうか。
自ら手にかけた死人に嫉妬するなど馬鹿らしいことながら、仄暗い感情が頭を擡げる。自分がここまで愚かな人間に成り下がるとは思わなかった。
彼女のためという大義名分をかざしながら、彼女を愛し愛された者たちの悉くを屠り、あの男の首をとった瞬間に、胸の内に湧き上がる暗い歓喜がなかったとは言い切れない。
「しかしその夢は、はるか昔に捨てたものだ。懐かしく思い返すことはあれど、いまさら拾い上げるつもりは毛頭なかった。今にして思えば、夢を見ていた頃が、私の生涯においてもっとも幸せな時間であったのやもしれぬ。私がまだ何者でもなかったとき、そなたとかけた世界は自由に満ちていた」
幼き日、俺たちは共に、まだ世の残酷さを知らなかった。際限なく湧き上がる万能感に包まれて、ただただ無邪気に輝かしい未来を思い描いていた。
「散々に遊び回った夕暮れ、都の端に沈む陽は美しかったな」
束の間、言葉をなくす。
――それは、俺にとっても忘れ得ぬ原体験だった。
落陽を惜しみ、空の鳥籠を掲げ、天上の輝きを手中に収めんと欲した愚者がいた。
時を止める術など持ちえぬまま、わずかでも長く地上にとどめたいと馬鹿なことを望んだ。
自ら翼を手折り、籠に閉じ込め、憎まれてでも生かしたいと願った最愛の女性は、しかし幼心に憧れた理想の君主でもあった。複雑な感情を抱えながらも、理想の果てへ、どこまでもついていきたいと願った心に嘘はない。許されるのであれば、あの頃の関係のまま、彼女の治世を側で支えられたのなら、どれほどよかっただろう。
しかし共に生きる道はない。
なによりも彼女自身の誇りが、それを許さない。
打倒される瞬間まで偉大な君主であろうとした彼女を、他の誰かに奪われるくらいならばと強引に攫った。俺の裏切りを彼女は生涯許すまい。
生きてさえいてくれるのならば、どれほど深く恨まれようとも、俺は己の行いを悔いはしないと――それだけの覚悟を持って叛旗を翻した。
それだけの覚悟がありながら、望まぬ形で彼女を喪うことを恐れていた。
「盟友よ。私は民との約束を果たさねばならぬ。思うに我々は、共犯者であることがもっとも相応しい――いま一度、私と命運を共にしてくれるか?」
ところが今、恐れるばかりか、この胸は清々しい興奮に沸き踊っている。
あてがないわけではないが、現体制に不満を抱える有力な貴族、いまだ一部に高い人気を誇る彼女の支持者、さらに周辺一帯の叛乱因子をかき集めたとしても、なお勝算の薄い賭けだ。
死出の共を命じられたも同然だというのに、彼女に求められる喜びの前では、そんなことはまったく問題にならない。
これほど単純な答えに行き着くまでに随分と遠回りをした気もするが、つまるところ、俺は――偉大な王であろうとする理想ごと、彼女を愛していたのだということに、ようやく気がついた。
あの日。彼女を。
後戻りできない地位に押し上げた民衆を。
忠誠を捧げる主人に定めたあの男を。
止められなかった自分自身を。
憎々しく思っていた。
しかし、民を先導し、戦場を駆り、望みつづけた実権を手にその威光で国中を熱狂させた彼女の姿も、誇りも、理想も、どうしようもなく美しかった。いつまでも見続けていたいと、抗いがたいほどの魅力に取り憑かれた。
生唾を飲み込み、これまでの経緯を不問に付すと言わんばかりに晴れやかに笑って見せるラズィーヤの姿を目に焼き付ける。
嗚呼。
あのころ魅了されてやまなかった、常に一歩前を走り、ついて来いと振り向いて笑って見せた横顔が、ともに輝かしい将来像だけを思い描いていた少女の面影が、目の前にある。二度とは戻らぬと覚悟していた、烈火のように燃え盛る瞳の温度さえそのままに。
「望外の、僥倖にございます……我が君」
声の震えを抑え、王冠をなくしてなおも美しい君主のもとに跪く。
陽の落ちた先の暗闇を一人さまよう覚悟はなかった。
しかし、共に往けるのであればそれに勝る道はない。
「ただひとつだけ訂正を――貴女の生涯において最も満ち足りた瞬間は、まだ訪れておりません」
ラズィーヤは破顔した。
「よく言った。ついて参れ、アルトゥーニヤ」
そうして俺は、終わりを前にして初めて、純粋な歓びを胸に彼女の手を取ることを許された。
これより先は、泡沫の夢。
決して長くは続かない束の間の自由は、その価値を知らずにいた幼少の頃よりも遥かに芳醇な美酒として俺たちを酔わせることだろう。
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1240年、ラズィーヤとアルトゥーニヤは婚礼を挙げ、兵士を率いてデリーへと進軍した。
10月15日(※)、敗れたラズィーヤは農民の手によって命を落としたと伝えられているが、彼女の威光を地に落とさんとした策略とも目され、実際の足跡は定かではない。
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了
※諸説あり(10/13〜15)