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(8)謀計

 私の主人には敵が多いが、その美しさを否定する者はいない。


 強硬な改革姿勢を快く思わない者も多い一方で、誰もがスルタン・ラズィーヤの歓心を手に入れたがっている。彼女の最愛と目される私が、どれほど多くの嫉妬の視線に晒されているか、当人だけが預かり知らない。


「貴女と私が恋仲だと、くだらぬ噂が市井に流布しているようですが――いっそのこと真実にしますか? 我が君」

「不敬罪に処されたいのであればそう言え」

「冗談です」


 戯れに誘惑をしかけてみたところで、けんもほろろにあしらわれる。実態はこのように色恋めいたものとは程遠い関係であるというのに、男たちは私の地位を二重の意味で羨んでやまない。


 ――たとえば、あのマリク・アルトゥーニヤ。


 ラズィーヤは腹の底で何を考えているのかわからないと距離を置いているが、あれほどわかりやすい男はいない。初めて対面した日以来、交わす言葉や向けられる視線に、いますぐ殺してやりたいとばかりの敵意を感じつづけている。


 旧知の仲であるという二人の間には、一線を引いて尚も余人には立ち入れない空気感がある。わざわざ知らせてやる義理はないが、実のところ万人を公平に扱う女帝が個人として最も拠り所にしている存在は、あの男なのだろうとも思う。


 鬱陶しくはあるが、あの男の進言は往々にして正しく、アルトゥーニヤやアイティギンを始めとするイルトゥトゥミシュ王政の流れを汲むトルコ系貴族の一派が重用され、国政の要を担っていることは、政務に疎い私の目からも明らかなことだった。


 その彼らが、同列に叙された私を疎んじていることも。


 わざわざラズィーヤにとって不利になる――ましてあのような内容の――噂を流すとは思えないが、彼らも一枚岩ではない。派閥の中心にいたアルトゥーニヤ自身が都を離れたことで手綱が緩んでいるのだろう。


「とはいえ、私を気に食わぬ者が多いのは事実。いかがなさいますか?」

「お前は私の剣だ。他の誰がなんと言おうとも変わらぬ」


 ラズィーヤは迷いなく断じ、初めて手を差し伸べられた日となんら変わらぬ熱を瞳に浮かべて私を見つめ返してきた。彼女の答えをわかった上であえて問おうなど、私も欲深くなったものだ。無造作に投げ渡されるこの甘露を、手放すことなどできるはずもない。


 あまりにも穢れのない瞳で、自分だけのものが欲しいと言った主人を、心から敬愛している。


「私を望んでくださるかぎり――私の忠誠は、真実、貴女だけのものです」


 ラズィーヤは、わかっている、とどこか寂しげに微笑んで答えた。


 たとえ彼女が最も欲するものが他にあったのだとしても、決して揺らぐことはない。誰を敵に回すことになろうとも、私だけは孤独な王の味方でありつづける。


 そして何一つとして心から信じられない立場にある彼女もまた、私の忠誠だけは疑うことなく受け入れられる。


 私たちの間柄は、あるいは恋仲以上に歪な関係なのかもしれないが、すくなくともこうして捧げる言葉に嘘はなかった。



  ◇


 事の起こりは、北方の街ラホールで起こった反乱だった。

 正しくは、ラホールで起こった()()()()反乱から、すべては始まっていたのだと思う。


 あれをきっかけに、ラズィーヤは自身に忠誠を示した功労者を厚遇するようになった。


 反乱を収めた後、新たに創設した要職につけるため、父王ゆかりの宮廷奴隷マムルークであるアイティギンを都に呼び寄せた。アルトゥーニヤにもバランの徴税権イクターを与え、私のようなアビシニアンの奴隷ハブシーにさえそれまでトルコ系の将校にしか許されていなかった高い地位をあてがった。その一方で、恭順を示した離反者も寛容に受け入れた。


 ラズィーヤは一貫して、出自や背景に関わらず功績を評価する公正な人事を執り行ってきた。それがこの国においてどれほど異例なことであっても、彼女は己を曲げなかった。


 やがて再びラホール、シルヒンドで反乱が起こり、それを収めて都に戻った時、ラズィーヤは想定しうる限りの――あるいは意識的に想定してこなかったであろう――最悪の状況を知った。


 パティンダ総督、マリク・アルトゥーニヤの反乱。


 あの時点で私たちは、完全に奴の術中に嵌っていた。


 包囲されることを避けるため、ただちに都を離れてパティンダに向かった遠征軍の内部には内通者が潜んでおり、数多くの離反者を出した。


 勇猛な主人は自ら戦うと言ったが、一方で冷静に戦況を見極めて己が成すべき最善を悟り決断を下すことができる柔軟さもまた、スルタン・ラズィーヤという君主の長所であり、そして政敵からは忌避された優れた王の資質だった。


 最終的にアルトゥーニヤの手勢に挟撃されて孤立したラズィーヤの回りに残されたのは、私を含む彼女自身に忠誠を誓う近衛部隊のみ――それでも踏みとどまって彼女を逃がそうとする兵が多くいるのは、あの女とは異なる人望の賜物か。


 生き延びることは難しかろうが、決して悪くはない。

 一度は捨てた命。かつての夜より、よほど捧げ甲斐のある舞台ではないか。


 増援も期待できまい。彼らが結託していたのであれば、おそらく既に次の支配者としてバフラーム・シャーを担ぎ出そうとしているアイティギンの手に都は落ちている。


 すべての企ての裏には、ラズィーヤという人物を最もよく知り尽くした、最大の庇護者の存在があるにちがいなかった。


「王城で対面して以来だな、()()()。ラズィーヤはどこにいる?」


 とりつくろおうともせず、侮蔑じみた敵意を曝け出した敵の指揮官アルトゥーニヤの姿に、相手が貴族然とした風貌の裏に傭兵精神を宿す生え抜きの軍人であったことを思い出す。これほどの殺気を浴びせられた今にして思えば、あれは随分と抑えられていたらしい。


 馬鹿な男だ――。


 女帝と私の繋がりは、アルトゥーニヤが思うほどに深いものではない。私たちは互いに叶えがたい理想を投影していた。しかし道半ばに殉じても悔いが浮かばないほど、その理想は美しかった。


 もしも結末を回避する術があったとするならば、その鍵を握るのは私でもラズィーヤでもなく、マリク・アルトゥーニヤ自身に他ならない。


 こうして反旗を翻すということの意味を、彼女にとっての己の価値を、この男は理解しているのだろうか。いや、正しく理解していたのであれば、最悪の形で対峙することになってはいまい。


 こうなってしまったからには、もはや。


「知りたければ私を倒して行くがいい……この首を取ったところで何も変わらないがな」


 残るは、彼女は()()()()()()()()()()という事実のみ。



  ◇


「なぜだ、アルトゥーニヤ。こうして相対してもなお俄かには信じがたい。他の者どもはまだしも、お前は目先の欲に目がくらむような愚か者でも、盲目でもないと思っていたのだがな」


 戦場の血と泥に汚れても輝きを失わない女帝は、逃げ場をなくして追い詰められながらも、獰猛な虎のような眼差しで俺を睨み据えた。


「買い被っておられる。これは紛れもない俺の欲です」

「では、この私よりもバフラムの方が王に相応しいとでも申すのか? それともお前自身が王となり変わるか?」


 まさか。


「俺の考えは変わりません。貴女より他に王位に相応しい人間がいるはずもない。しかし俺が貴女を支えつづけたのは、その素晴らしき王の資質のためではなく――貴女を愛していたからです。この国の安定よりも、民の幸せよりも。知らぬとは言わせません」


 再三うやむやに誤魔化してきたこの口で本心を語ったところで、素直に信じてもらえるとは思わないが。


「愚かな……」


 ラズィーヤは案の定、理解しがたいという顔で吐き捨てた。


「数えきれないほどの求婚を袖にされてきましたが、それ自体は構わなかった。貴女が誰のものにもならないのなら、それでよかったのです」

「ヤークートか。まさか、お前までも、あのくだらない噂を間に受けているのか?」


 民の間で、ラズィーヤとヤークートの爛れた関係についての噂が流布しているのは知っている。


 真実ではないだろう。ラズィーヤの脇に手を差し入れて馬に乗せた様子を見たというが、そもそも彼女は権威を示すために公の場では象に乗ることを好む。幼いころから慣れ親しんだ馬の騎乗に他人の手を借りるとも思えない。


 だが、あれほど熱狂し、ラズィーヤの支配の恩恵を享受してきた民は、簡単にそれを信じた。

 身分違いの恋に身を焦がし、公私を混同する愚かな女という虚像に、誇り高い女帝を貶めた。


 俺にはそれが許せなかった。噂を信じた者も、流した者も。

 もはや、この国、この民は、彼女を戴くに相応しい環境ではない。


 ならば、どうかせめて。


「わからないふりはおやめください。姫様。聡い貴女なら、とっくに察しておられたでしょう。個を捨て、命を燃やして国に尽くす貴女の誇りと、俺の愛は相反する」


 虚を突かれたラズィーヤは、わずかな動揺を見せたが、彼女の回答が以前と変わることはなかった。


「無理だ……それはできない。私は王だ。お前の手を取ることなど考えられない」


 ああ、よく知っている。


 通算何度目ともつかない拒絶に胸をえぐられても、思いつく限りの罵倒を投げつけられることさえ想像していた中で、随分とマシな部類だろう。


「わかりました。それでは力づくでお連れさせていただきます」


 くれぐれも手を出すなと言い含めておいた部下が配置についていることを確認して、片手を掲げ、捕縛の許可を出す。


「もはや王城に貴女の居場所はない。このまま相応しい場所で生涯を終えていただく」

「退け――私がそれを許すと思うたか!」


 かつて行く手を阻んだときよりも遥かに眩く、黒々と瞳に燃え盛る烈火に焼かれて、俺は笑った。


「……だからこそ、ですよ」


 迷いはない。ずっとこうしたいと――こうすべきだと思っていた。いつかこんな日がくることを予期しながら、一方で限りなく遠い未来であることを願っていた。散々、俺を悩ませ、他の選択肢が思い浮かばなくなるまで抱えつづけてきた心の澱を解放することに、いまさら躊躇いがあるはずもない。


 美しい幼馴染は、そんな穢れなど理解できないだろう。

 それでいい。


 それでいいから。

 焼け落ちてしまう前のわずかな時を、せめて俺の手中で過ごしてくれないか。



  ◇

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