(7)傾国
「……不足など」
「は?」
「不足など、何一つありはしなかった」
束の間の沈黙が場を支配する。不意をつかれた俺は身動きも忘れて、美しき君主の次の言葉を待っていた。
「いまさらこうしたことを口にするのも気恥ずかしいものだが、お前が貴族たちと私の対立を深めぬように陰で取りなしてくれていたことも、みな理解している。だが」
そうは言いつつも、彼女の瞳の中にいまだ衰えを知らぬ苛烈さで燃え盛る業火を見て、答えを悟った。
嗚呼。
これだから。
「私には愛するものを増やす余力など持てぬのだ。私の愛はすべてこの国に捧げたゆえ――許せ」
これだから、王の器というものは。
客観的な事実として、当代において彼女は最良の選択肢であり、歴代の支配者と比しても決して見劣りしない名君と言えただろう。
しかし、いや、だからこそ、スルタン・ラズィーヤという君主の威光は疎まれもした。
民衆がどれだけ豊かな治世を歓迎しようとも、彼女の蒔いた知恵の種が芽吹き、公正な視点で優れた為政者を選び、支えるまでに育つには、あまりにも長い時間が必要だった。
「そうでしょうね。……貴女はそういう人だ」
平静を装って呟きながら、目を伏せて自嘲する。
そうしてなお、彼女の焼けつくような視線が突き刺さってくるのを感じる。変わらぬ距離感を演じながら、なにげない会話の裏を読み合い、緊張感を漂わせるになったのは、いつからだろう。
先に目を逸らすのは、いつも俺の側だった。
愛を乞うつもりなどなかった。彼女の愛を得ようと願うのならば、彼女が愛するものをすべて守らねばならない。都を、国を、民を。偉大な庇護者たらんとする誇りまでもを、すべて。
俺の手には、余る。
できることなど、たかが知れていた。どれほど広大な檻を作り上げたとしても、この女帝は内側に収まってなどくれない。幼き日の憧憬は今も変わらずこの胸にあるが、すべてをさらけ出したとて、足を止めることさえ叶わないのであれば、無垢な信頼に価値などない。
俺には、彼女が王位に就いた日に、密かに心に誓ったことがあった。
仮に彼女が、この国にとって、それ以上を望むべくもない至高の王でありつづけたのだとしても。
不公正な天秤が、その価値を軽んずるのであれば――。
思索にふけった刹那、断りもなく唐突に背後の扉が開け放たれた。
腰に下げた剣を抜き放つべく腕を伸ばしかけたところを、ラズィーヤに目で静止され、すんでのところで思いとどまる。書類の束を片手に無遠慮に押し入ってきた男の顔には、嫌というほど見覚えがあった。
「――失礼。予定の時間を大きく過ぎていたもので。まだ客人がいらしたとは」
「ヤークートか。すっかり仕事は終えた気でいたのだが、店じまいには早いらしいな」
急な来訪にもかかわらず、ラズィーヤは緊張した素振りを一切見せずに迎え入れ、それが彼らにとっての日常であることはたやすく窺い知れた。
ジャマールッディーン・ヤークート。よりにもよってトゥルカーン妃に仕えたアビシニアンの奴隷という出自でありながら、ラズィーヤの歓心を買い、腹心の地位を奪っていった男。
静止されるのがあと一瞬遅ければ、喉元に剣をつきつけるくらい許されただろうに。絶好の機会を逃したことを苦々しく思いながら腰を上げる。
「では、私はこれにて辞させていただきます。お二方とも、宮中はどこに耳目があるかわかりません。くれぐれも軽はずみな振る舞いにはお気をつけください」
「ご忠言どうも。アルトゥーニヤ総督」
わざとらしく肩をすくめたヤークートをすれ違いざまに引き寄せ、ラズィーヤの耳に入らないように低く囁きを落とす。
「伝わらなかったようだからはっきり言ってやる――立場を弁えろ。お前の出自を快く思わないものが多いことを、ゆめゆめ忘れるな」
この男がどうなろうと知ったことではないが、品性に欠けた振る舞いが反感を煽れば、彼女にも害が及ぶ。
「なるほど、貴方様のように? 我らが皇帝は公正な方だ。時代は変わる」
愚かな、と、返す言葉は閉じた扉に遮られた。
己の手に余ることはよくわかっていた。しかし、薄氷の上に立つような権威に守られた者に、どうして彼女の盾が務まろうか。彼女にとって最も危うい主戦場がどこかさえ正しく理解してもいない男に。
「……それでは、遅いんだよ」
俺は、あの男とはちがう。
美しい女君主の夢に酔うことはなく、守るべきものの優先順位は、とうに定まっている。
王城を辞そうとしたところで、かつてイルトゥトゥミシュさまに仕えた宮廷奴隷あがりの貴族仲間が待ち構えていた。義兄弟ともいえる者たちの険しい表情を見て、嫌な予感を募らせる。
「女帝は相変わらずか」
「アイティギン。お互い昇進してから顔を合わせるのは久々だな」
「ああ、あの奴隷と共にな。まだ時間はあるか? お前の耳に入れておきたい話がある」
「……聞こう」
天秤は徐々に、その傾きを変えようとしていた。
◇
彼女の選択を止められなかったことを悔いた瞬間は、無数にある。
最たるものが民衆を扇動したあの革命であったとしたら、二番めは間違いなく、ジャマールッディーン・ヤークートの大将軍任命だ。
「今からでも遅くありません。ジャマールッディーン・ヤークートの大将軍任命をお取り下げください」
「なにか問題でも? 能あるものの働きに相応しい地位をくれてやっただけのことだ」
「馬鹿なことを。彼は奴隷ですよ。貴女を疎む貴族たちが、このような人事を快く思うはずもない。つけ入らせる隙を与えるようなものです」
「だが正しかろう。貴族どもの顔色を窺うばかりの傀儡であるならば、私が王である意味はあるまいよ。なにより——あれは私を裏切らない」
お前と違って、と言われたかのようだ。
彼女は正しい。ラズィーヤが王である意味など果たしてあるのだろうか、という俺の迷いすら見抜かれているのかもしれない。――最良の選択肢であることを否定はしないが、その恩恵を受ける価値が、この国にあるのか。
「我が忠誠は貴女のものですよ、麗しき君」
恭しくこうべを垂れた俺の仕草を、ラズィーヤは鼻で笑った。
「いいや、父のものだ。私のものではない」
かつての己の言であるがゆえに、否定することはできない。事実として、イルトゥトゥミシュ様に捧げた忠誠と、ラズィーヤに向ける想いはまったく性質の異なるものだという自覚があった。
「……わざわざ敵を作るようなことをなさらずともいいでしょう」
「もとより奴らと私の思想は相容れぬ。お前の言う通り、私には敵が多いのでな。信頼できるものにこそ力をつけてもらわねば」
深々とため息をつく。ラズィーヤ自身とて、問題がわかっていないわけがあるまい。
「それでは御身が危険にさらされると言っているんです。彼らの武力は戦場では頼りになりましょう。しかし卑劣な陰謀から貴女を守る壁としてはあまりにも脆弱。新興勢力が十分な力を得る前に、不満が爆発すれば――」
「無論、承知の上だ。天命に沿って討たれるならばそれもやむなし。期待を裏切った暁にはこの首くれてやると宣誓し、民の力を借りて奪い取った帝位なのだから、私には倒れるまで誇りを曲げることは許されぬよ」
ちょうど、その頃からだろうか。
あえて言葉にせずとも、俺たちは互いに相入れない溝の存在を感じ始めていた。彼女の意思を揺るがすことはできずとも、俺にも譲りがたい一線はある。本音を告げれば衝突する。決定的な対立を避けるために、触れられない領域が増えていく。
とどのつまり――彼女ほどには、俺は国を愛してなどいなかった。
◇