(6)請願
「いま一度、賢明なるご裁可を願いたい。皇妃ラズィーヤ」
「皇帝だ。皇妃ではない。私こそが王だ。二度と間違えるなよ」
いまや紛れもない国主たる美女は、煌々と照る陽のような眼差しで臣下を睨みすえた。
「私の考えは変わらぬ。出直せ」
「失礼いたしました……。女狐が」
背を丸めボソボソと謝罪の言葉を述べた高官は、彼女に背を向けるなり苦々しい表情で舌打ちする。
「せめて狐ほどの可愛げがあればよかったな」
「! これは、マリク・アルトゥーニヤ」
入れ替わりに執務室へ入ろうとする俺の存在に気づき、さっと顔色を変えた男が、あからさまに礼を尽くした仕草で道を開けてみせる。本音を言えば、くだらない彼女への不服を訴えるパフォーマンスに巻き込まないでもらいたいものなのだが。
あえて咎め立てすることはなく、微笑を浮かべて行き過ぎる。ただそれだけのことで同意を得られたと付け上がるのだろう。――使えないものは身内に飼うより、適度に泳がせておいた方が都合がいい。
こうした官吏は珍しくもなく、彼らは揃って王の神経を逆撫でするのが非常にうまい。頭の痛いことに逆もまた然りである以上、対立するなというのも無理があった。
「ご機嫌麗しゅう、我が君。壮健のようでなによりですが、訪れる日を間違えましたかね」
「お前か……」
座したまま気怠げに応える声には、疲労の色が濃くみえた。接見の予定時刻は大幅に過ぎていたが、事のなりゆきは容易く想像できたので、あえて追求する気も起きなかった。
「物わかりの悪い愚鈍ばかりで困るよ。揃いも揃って耳の遠い老害どもめ」
「あまり過激な言葉をお使いになられぬよう。誰かに聞かれでもすれば、いたずらに敵を増やすばかりですよ」
「今更であろう? いや、待たせて悪かった。よくきたな、アルトゥーニヤ」
殺気立っていた牙を収めて、ラズィーヤは目を細める。
これを女狐に喩えるとは、ものを知らなすぎる。飢えた猛虎の間違いだろう。
「まったくです。急ぎでもない用件を掘り起こして都に呼びつけておいて」
「まあそう言うな。すこしばかり世間話に付き合っていけ」
「気兼ねなく愚痴をこぼせる先が惜しくなりましたか? これでも忙しくしているのですよ。ありがたくも重要都市の総督などに任じてくださったがために」
「能ある者に相応の地位を与えただけだ」
「耳障りな小言を遠ざけたかっただけではなく?」
美しい獣のような幼馴染は、否定も肯定もせず、くつりと喉を鳴らした。
憎らしいことに、魔性じみたその輝きは民衆を先導したあの日から――いや、もっと遠い昔から、一瞬たりとも翳ることがない。
権力を手にして尚、兄弟のように欲に溺れて堕落することも、義母のように驕り高ぶることもなかった。暇さえあれば城下に降りて市井の声を聞き、特権階級を優遇することなく民のための政を行っていると聞く。それ自体は素晴らしいことではある。
「近頃は、教育に力を入れているそうですね」
「子は未来だ。知識の蓄積は、黄金にも勝る国の財となろう」
「同意しますが、あまり下々の民を優遇すると、また貴族の反感を買いますよ」
「受けた恩を返しているだけだ。私を王に選んだのは民衆なのだから」
さらりと本心から答え、さらには行動で示してみせられる者が、他にどれほどいるだろう。君主としての心持ちも振る舞いも極めて理想的なものだ――ただ、その理想を支えるに足る強度が、彼女の足元にあるとは言い難い。
「恩、ですか」
前例のない女性君主の実権を認めようとしない勢力は数多あるが、その最たるものは俺自身を含むトルコ系の貴族たちの派閥だった。
ラズィーヤ自身もフィールーズを打ち倒すために力を借り、先のイルトゥトゥミシュ王を支えた強力な後ろ盾でもあった者たちが、彼女にとっては非常にやりにくい政敵となっている。
今となっては予想に反して思うままにならなかった王を再びすげ替えようと画策していることが明らかであっても、安易に手を出すことができないほどに。
「そう難しい顔をするな。どの道、あれらは私が何をするのも気に食わぬのだ。皇帝を名乗ることも、古びたしきたりを廃して民の前に顔を見せることもな」
即位したラズィーヤは、初めのうちこそ貴族らの様子を伺って慎重に振る舞っていたが、やがて反発を無視して多くの改革を断行し始めた。とりわけ反発を煽ったのは、あえて王を自称した上、常に男装を纏い、宮中どころか民の前にすら素顔を晒して執務を行っていることだ。
称号入りの名を刻んだ貨幣すら発行させた徹底ぶりは、たとえ茨の道であったとしてもお飾りの君主に甘んじる気はないという固い決意の表明のようでもあった。
「凝り固まった社会通念は、ときに国家を蝕む病理とも成り果てる。神の教えですらもそうだ。異教徒を弾圧せよなどと直に告げられた者はいまいに――形骸化した表層によって本質が蔑ろにされることなどあってはならない。嘆かわしいことだと思わぬか?」
貴族ばかりではない。正当な理由もなく虐げられる弱者を捨て置くことのできない気高き王は、そのために神学者たちとすら対立しようとしている。
文化の守護者であり異教徒にも寛容であった父王の治世を真似るように――いや、単に政策を真似ているのではなく、ラズィーヤこそがイルトゥトゥミシュ王の思想を受け継ぎ理想を結実した君主なのだ。そう、彼女を見続けてきた俺は理解している。
しかし類稀な才気をもって巧みに立ち回っているとはいえ、時に伝統を軽んじてまでも改革を重ねていくやり方は、あまりにも危うい。
「……姫様」
眉を顰め、咎めるようにこぼれ落ちた懐かしい呼称を、不敬と咎められることはなかった。ただそれだけのことを特別だと思い上がりそうになる自分が愚かしくてたまらない。
「また私を止めるか?」
「そして振り払われるのでしょう。かわりにひとつ願い事を聞いてはいただけませんか」
「聞くだけ聞こう。申してみよ」
「歩みを止められぬのならば、せめて、この身を盾にお使いください」
ラズィーヤは豪快に笑い飛ばした。
「盾ときたか。では連れ立って戦地にでも赴くか?」
「貴女にとって、この宮中より他に主戦場がありますか」
「まったくもってその通りだがな――断る」
つまらぬ、と言わんばかりの声色で同意し、ラズィーヤはため息混じりに拒絶した。
「なぜですか。再三申し上げておりますとおり――」
「ああ、よいよい、わかっておる」
「いいえわかっていません。後ろ盾となり得る者と適当な婚姻を結んで国婿を立てれば、対面にこだわる者も多少は御しやすくなりましょう。貴女が望むなら傀儡くらいこなしますよ。俺の何が不足ですか」
言い募る俺の姿を見て、ラズィーヤは昔を懐かしむように目を細めた。
「そなたも自信家になったものだな」
「下手な欲を出して干渉する者より、よほど適任でしょう?」
「どの口が言う」
「気心しれた仲ではありませんか」
「いつの話をしている。近ごろは四十ほど群れた目障りな虎どもと連んでおると聞くが? ――最も油断ならぬのはお前だ、アルトゥーニヤ」
「ああ、だから中央から遠ざけたんですか。俺の忠誠をもてあそぶとは、ひどい人だ」
「もとより州知事であっただろう。正当な報酬だと言っておろうに」
戯れに本気を忍ばせて、いくどもくりかえしてきた色気のないやりとりに、その日はわずかな変化があった。