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(5)童心

 怨嗟の声を遺し、息子とともに断頭台の露と消えていった毒花のことを、多くの民は早くも忘れつつあった。


 暗君を廃しても、彼女の戦いは終わらない。むしろそれからが『スルタン・ラズィーヤ』の真の戦いの始まりだった。


 ラズィーヤの即位からまもなく、宰相ワズィールのジュナイディ率いる貴族の一派は、フィールーズ打倒のために手を組んだ同盟を反故にして反旗を翻した。


 彼らにしてみれば担ぎ上げる王など誰でも構わないのだから、他の選択肢はいくらでもある。


 可能なかぎり操りやすく、自己主張が弱く、能のない王である方が都合が良い――俺にしてみればラズィーヤがその対極に位置することなどわかりきっていたため、遅かれ早かれ対立するであろうことは十分に予期していた。


 ラズィーヤがジュナイディの軍勢を正面から下し、イルトゥトゥミシュ王から引き継いだ領域一帯の支配権を一応は確立させたことさえも、取り立てて驚くべきことではなかった。


 そうして得た平穏さえも、しょせん仮初のものだ。女帝の権威を認めない叛乱分子を内に抱えて抑えつづける、決して気の休まることのない日々の連続。彼女の歩みを止めないということはつまりそういうことだと、俺はよくわかった上で手を貸した。


 ……本当に、わかっていたのだろうか。


 望んだものは、彼女が生きる道。

 ただそれだけだった。



  ◇


 ジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤは、神に愛されて生まれてきたような子供だった。


 元主人アイバクの血を引く正妃ハトゥンの産んだ初めての娘の誕生を、イルトゥトゥミシュ王をはじめとした皆が喜んだ。やがて期待に応えるだけの美しさと優秀さを兼ね備えていることがわかり、王の溺愛は加速した。


「あの子供たちは、なにをしているのか?」

「イルトゥトゥミシュ陛下が庇護されている宮廷奴隷マムルークの子らです。厳しい鍛錬に耐えて一人前になったときには奴隷身分から解放され、身につけた武力や学問により、お父様や兄君をお支えするようになるのですよ」

「私は? なぜ私には、なにもない?」

「ラズィーヤさまは王女でいらっしゃいますからねえ……宮廷奴隷というのは」

「そうではなく、私もお父さまをお支えしたい!」


 幼いながらも強い意志をもった王女の望みは、前例のないものであったが、強硬に反対するものはまだいなかった。


「――と、姫様が申しておりました。大変可愛らしいことですが、いかがなさいましょうか」

「あの子の好きにさせるがよい。アルトゥーニヤとは歳も近いだろう。よき遊び友達になるやもしれぬ」


 彼女の幼少期は、ほとんど少年期と言ってよかった。本来なら後宮の内にこもり言葉を交わすことも難しかったはずの姫君ながら、男児と同じ教育を施したイルトゥトゥミシュ王の酔狂で、俺たちは引き合わされた。


「ラズィーヤだ。よろしく頼む」


 第一印象は、場違い。


 王族の、まして幼く可憐な姫が、宮廷奴隷の鍛錬にまざるなど正気ではない。


 しかし内心どう思おうが、イルトゥトゥミシュさまの意向に逆らう選択肢が俺たちにあるわけがなかった。


「お前、全然ものをしらないんだな」

「そちらこそ、ろくな礼儀作法を身につけておらぬとみえる」

「な……」

「知らぬことは罪ではない。これから学べばよいだけのことだ」


 面倒なものを押しつけられた、という印象が覆されるのに時間はかからなかった。好奇心旺盛なラズィーヤは、与えられた知識を瞬く間に吸収し、周りの子供を追い抜いて急速に成長していった。


 出会った頃の感情など素直なもので、苦楽を共にし、夢を語り、様々な知恵を授けてくれる勇敢な友と過ごすうち、少年の心は簡単に魅了されていった。嫉妬心など抱く隙もない純粋な憧憬に瞳を輝かせて小さな背中を追いかけた日々の、なんと清々しい喜びに満ち溢れていたことだろう。


「また一人で抜け出したのか、姫様」

「つべこべ言わずついて参れ、アルトゥーニヤ! 今日こそは店主に泡を吹かせてやろう」


 共に泥に塗れ、悪戯をしかけ、街へ抜け出し、汗だくになって武器を振り回していた幼友達。あまりにも当たり前に側にいたから、それが特例であることに、長く気づかなかった。



  ◇


 十三歳になったころには、とうとうラズィーヤは騎馬に乗り、弓を携えて、戦場にも同行するようになっていた。


 俺にも役職が与えられていたくらいなのだから、その時が来るのは必然だったのだろう。


「遠征に同行し指揮を執る、ラズィーヤだ。よろしく頼む」

「は? なんでお前が」

「父上の決めたことだ。なにか不都合でも?」

「だけどお前は……!」

「私が、なんだ?」


 少女。

 イルトゥトゥミシュ陛下の娘。

 この国で最も遠く隔てられた箱庭で守られているはずの、お姫様。


 なぜ?


 ひとたび気づいてしまえば、頭の中を無数の疑問符が飛び交い、やがて真っ白な思考の中にポツポツと、黒い影のような感情が染み込んでいった。


「逆に問おう。お前が将に求める条件はなんだ? 私はお前たちと同じ経験を積み、相応の武力と知力を身につけた、王の子だ。それだけでは不足だと?」


 ラズィーヤは、いつか自分が仕える主人として不足のない高潔な猛者であった。理想の王だと言ってもいい。もしも男であったなら、の話だ。


 女は王にはなれない。

 ラズィーヤは、きっと誰よりも優れた資質を受け継いだ、王の子だった。

 けれど、絶対に王にはならない。


 いずれ並び立つ友でもなく、いつか仰ぎ見る主でもなく、――では、何者なのだ。あれは。


 もしも彼女が男であったのなら。

 なぜ彼女が男ではないのか。


 幼くして王のもとに奴隷として売られ、忠実な腹心となるためだけに育てられてきた自分などよりも遥かに優秀な、彼女が。


「俺の主人はイルトゥトゥミシュさまただ一人だ。王子や王女にまで忠誠を捧げた覚えはない」

「なんだ、そんなもの。祖父アイバクに仕えた四十人チャハルガーニーが、兄上ナシルディンや私に向ける目をみればよくわかる」

「あいつらと一緒にするな。……主人としては認めないが、共に育った盟友としてなら認めてやらなくもない」

「はは! それは悪くない。共に父上をお支えしよう」


 共にイルトゥトゥミシュ王を支える。

 それでいい。

 今は、それでいい。

 ……その後は?


 俺が彼女に向ける感情は、収まるべき形を見失い、次第に屈折していった。



  ◇


 男勝りな少女は、いつしか美しく成長し、その輝きは歳を重ねるごとに増すばかりだった。誰かの妻となる姿などまるで想像できず、したくもなかった。


 しかし王女である以上、どこぞの王に与えられる日がくるのだろう。後宮ハレムで寵を競う毒々しい花々を見かけるたび、男たちの中で臆することなく堂々と先頭を闊歩し、時に戦場にまで赴いてきた幼馴染は、女という生き物とは似ても似つかない何か別の存在に思えてならなかったが……それでもいつかは彼女は、ああした籠の中に収められる運命なのだということを苦々しく思っていた。


 ところが長兄を亡くして、彼女の立場は一変した。


「次の王は、やはり姫様になるらしい」

「あれはだめだ、イルトゥトゥミシュさまに似すぎている」

「だから選ばれたんだろう? 能力的にも実績的にも優る候補がいるとは思えないが。あれほどの方でもだめなのか」

「あれほどだからだよ。……私個人の見解ではない。お前にもそのうちわかるさ、アルトゥーニヤ」


 王になることはない存在から、王にしてはならない存在へと――。


 後継指名をされた途端に吹いた逆風の強さを目の当たりにして、初めて俺は理解した。誰も彼女が王位に就く未来など想像していなかったからこそ、彼女の能力は手放しに賞賛されていた。勉学も鍛錬も、お遊びの延長としてだからこそ認められていた。いずれ優れた王妃となることは望まれても、優れた王となることなど望まれていなかった。


 つまるところ彼女は、ただの一度も箱庭の外に出てなどいなかったのだ。この国、この世界の常識そのものが、彼女を決して自由に羽ばたかせることのない透明な鳥籠に他ならず、その強度といったら、どれほど優れた人物の一生を捧げたところで到底破れるような代物ではなかった。


 あれだけの有能さを備え、相応の自負を持ちながら。


 イルトゥトゥミシュ王も残酷なことをするものだと、不条理な真実をしかたないものとして飲み下した当時の凡庸さをあざ笑うように、それでもなお、彼女は翼を得ることを望みつづけていたことを、後に俺は思い知る。



  ◇

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