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(4)散華

 為政者の責任など面倒なばかりで、軍事にも内政にもさほど興味を持てず、父が存命のうちから大都市の総督として税収を割り当てられてはいたものの、王族としての政務より娯楽に興じている方がよほど面白かった。有り余る金を使って豪遊することは富める者の責務であり、貧しい者も恩恵を受けることを喜んだ。


 王になる気などまったくなかった。


 母親の異なる真面目な長兄や物好きな妹は積極的に父の仕事を手伝っていたが、父も俺に期待はしていないとわかっていた。血筋的にも能力的にも議論の余地なく、誰もが正妃ハトゥンの産んだ長兄、第一王子のナシルディンが王になると思っていた。


 ところが、ナシルディンが死んだ。


 早くからベンガル知事を務め、東方の主として周辺国と渡り合い、着々と実績を積んでいた王太子の処刑は、デリーに衝撃をもたらした。予想もしない形で唐突に後継者を失い、父は随分と悩んでいた。


 母も、周りの貴族も、神学者たちも、みな口を揃えて俺が王になるべきだと言いはじめた。妹ではなくこの俺が相応しいと、父も最後には認めた。民だって、俺の即位を歓迎していた。


 なのに、なぜ――。


 父が拡大してきた領土は侵され、各地で起こる反乱は止まらず、とうとう異母弟までもが旗印に担ぎ上げられて命を落とした。都では民衆を引き連れた異母妹が蜂起して母を捕らえたという。


 そして今、父の代から仕えた宰相ワズィールのジュナイディまでもが我が軍を裏切り、俺の喉元に剣を突きつけているという現実に、理解が追いつかない。


 なにひとつ間違えてはいなかったはずだ。

 俺は望まれて王になり、望まれたままに振る舞った。


 出しゃばりで厚顔な異母妹とはちがう。信頼できる者らに国政を任せ、王家の富を分け与えた。それでいいのだと彼らは言った。民もまたそれを望んでいるのだと、それがあるべき王の姿なのだと、誰も彼もが言っていたのに。


「ジュナイディ……俺は良き王になると……」

「ええ、我々にとって。母君の干渉を抑えられないほどに無能だとは思いませんでしたが」


 かつて貴方こそが王位にふさわしいと語ったその口で、悪魔が囁く。


「貴方でなければならない理由など初めから一つもなかったのです、フィールーズさま」



  ◇


 頼れるものは、己の誇りひとつだった。


 王城という魑魅魍魎が渦巻く伏魔殿で、夫の関心などという不確かなものを、どうしてよすがにできただろう。


「シャー・トゥルカーン」


 悪夢のような夜から数日後、戦支度のまま格子戸の向こう側に立った女の姿を見て、息子フィールーズの敗北を知った。


「貴女がたの処刑は九日に決まった。専横と暴虐の限りを尽くして国を荒らした罪、その命で贖うがいい」


 淡々と語る義理の娘・ラズィーヤは、相変わらず可愛げのない冷ややかな瞳で私を見下ろしていた。


 父を欺き、弟を殺させた私のことが心底憎いであろうに、それでもなお私情に駆られることなく、公明正大であろうとする愚かな娘。その様が滑稽で、こんな状況だというのに、腹の底から笑ってやりたい気分になった。


 いいえ、こんな状況だからこそ。忌々しい小娘に、悲嘆にくれる姿を見せることも、平伏して許しをこうことも、私のプライドが許さない。


「専横、暴虐、ふふっ……あははは!」

「なにがおかしい」

「お前、本当にそう思っているの?」


 そう思っているのでしょうね、本心から。


「恣に振る舞って何が悪い? この私を所有させてあげていたのだもの、当然の権利よ。ハトゥンの娘。いいこと、これが女の生き方。私は負けてなどいない。私は勝者。私が頂点」


 けれど私の努力も、誇りも、栄光も、お前にとってはさぞかし無価値でつまらないものなのでしょう。


 わかっているわ。


 お前はいつもそうして、後宮の女たちを不思議そうにながめていた。

 同じ穴の狢にすぎない身で、他人事のように距離をおいて、私たちの苦悩を嘲笑った。


 お前の目を見るたびに私はたまらない気持ちになった。

 想像もつかないでしょう?


 お前は、私を羨んだことなどないものね。


 予想通り、ラズィーヤは眉を顰めて、理解しがたい生き物を見るような目で、私を眺め下ろしてきた。


「貴女の言う頂点とは、つまりスルタンの生母という地位のことか……?」

「ああ、ああ、その目――。その目で私を見下ろすでない!」


 他のどんな者の目線よりも、耐えがたいほどの屈辱を感じさせられる。褒章という形で降嫁されて別格の扱いを受けていた正妃ハトゥンよりも尚、私の神経を逆撫でする。本当に腹立たしい目。


「私は、この国で最も美しく、最も高貴で、最も幸せな女。あらゆる女の頂点に立ち、すべてを手に入れた――なぜ私が、お前のような者に哀れまれなければならないの?」

「哀れんでなどいない。ただ理解できないだけだ……貴女の所業を許すつもりは毛頭ないが、これより国を治める者として、私は貴女が何を考えて生きてきたのか知りたい。父は貴女を愛していたのだろう。貴女にとって、父の後宮で生きることは苦痛だったのか?」


 真摯な振りをして問う、あまりの無神経さに吐き気がした。


 うるさい。

 お前のような者がいるから。


「……理解など、できるものか」


 どうしてもっと早くに殺しておかなかったのかしら。

 お前さえいなければ、お前さえ……。


「先ほど貴女は、すべてを手にしたと言っていたが、それは誤っている」

「ええ……ええ、そうよ。本当に私が手にしていたものなど、何もない」


 すべては借り物。

 私も、私の財も、権力も、なにもかもが男の所有物。

 わかっているわ。


 わからされたの、お前に。


 この女は、私の苦悩など決して理解しない。

 私を自分自身と同列の存在として敵視することさえない。


 疑問を抱くことさえなく鳥籠の内側で生涯を終える小鳥に、自由に空を舞う翼の存在を知らしめることの残酷さを、当人だけが知りえない。


 だから、これは善意の忠告などではないの。私のささいな復讐。幸せな幻想を暴いて、生涯気づかずにいることもできた残酷な真実を教えてあげる。


「お前。民を率いることができたのは自分の力だと思っているでしょう」


 男のように、己の才覚と威厳で引き連れたのだと。


 けれど、そうではない。

 そうではないわ。


()()()()()()()よ。彼らはお前の美しさに従ったの。ハトゥンが産んだアイバクの孫。お前は女をわかっていない」


 いくら男を真似て生きたところで、お前は女としての価値から逃れることはできない。


「女は他人の眼差しを着飾る生き物よ。裸で生きてなどいけないの。お前がなにを思おうと変わらない。男たちはお前の所有を夢見、女たちはお前の美しさを妬む」


 お前がいくら私たちの在り方を蔑み、拒絶したところで、お前が女として生まれたこと、女として求められることを覆すことなどできない。


 いつまでも世俗の垢にまみれず、傷ひとつない精神のまま生きて死ねるものか。幼子のごとき一方的な信頼は、いつか必ず踏み躙られることでしょう。


 ただの女に堕ちる瞬間を嗤ってやれないのが心底残念だけれど、せいぜい身をもってその意味を知るとき、私の遺した言葉が呪いとなればいい。


「哀れね。私よりも、ずっと――」


 私の真意など露知らず、ただ怪訝そうに眉を顰める美しい娘の顔を見て、わずかに胸のすく思いがした。


  ◇

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