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(3)払暁

 美しい女の戯言に振り回されるのには慣れきっていた。


「後継者指名? 目障りなハトゥンの長男が死んだというのに、フィールーズではなく、よりにもよってあのラズィーヤですって!? まさか、冗談にしても面白くなくてよ」


 たとえば身分の低い侍女の出自ながら、その美貌を王に見染められて後宮入りを果たし、やがて王太后の座まで上り詰めた女だとか。


「いいえ、いいえ、私はしかと聞きました。王は本気です、トゥルカーンさま……」

「聞きとうない!」


 あの日、側仕えの女の頬を容赦なく扇で張り倒し、激昂する女主人の浮かべた凄絶な表情、まなざしで人を殺せるのではないかと思うほどの冷え冷えとした暗い瞳は、今なお印象深く思い出せる。


「この後宮で一番美しいのは私。イルトゥトゥミシュさまに一番愛されているのも私。そのような馬鹿な話があってたまるものか。許さぬ……私を下に見るもの、私を軽んじるもの、なにもかもが呪わしい……!」


 かつてイルトゥトゥミシュ王が存命のうちは、下々の民にまで情けと愛嬌を振り撒き、信心深く神殿に通い、慈善事業にも積極的に取り組む、非のつけどころのない側妃とされていた、トゥルカーン――その内実を知っていた男は王城内でも私くらいのものだろう。


「お前、なにを見ているの。穢らわしい」

「……いえ」

「誰が口を開いてよいと言った? 奴隷ハブシーごときが耳障りな鳴き声を聞かせないでちょうだい」


 間違っても信頼されていたわけではない。あの女にとっての私が、言動に気をつかう必要さえない道具以下の存在であったためだ。


 コンプレックスとプライドの塊のような妃は、下賤の者と蔑みながらも私を側に置いていた。あらゆる肩書きや後ろ盾を差し引いてさえも絶対的な上位者として振る舞うことのできる最下層の存在をみて安心したかったのか。単純に良いように扱える駒が欲しかったのか。


「私の希望を、あのような気違いじみた小娘に奪われてなるものか。なんとしてでも我が子を王にしなければ……そうでなければ、私は」


 聖母のように微笑む陰で、苛烈に毒を吐く。そうした一面すらも男の情欲を煽る女のことを、後宮という場を体現するかのように咲き誇る、美しくも哀れな存在だと思っていた。


 主人に対する敬意など欠片もなかったが、従うことに疑問はなく、自分が仕える相手を選ぶことのできる立場だと考えたこともなかった。


 私は奴隷であり、あの女は主人であった。

 それ以上でも以下でもなく、しかし絶対的な関係に縛られていた。


 どこまでも忠実な僕として、置物のように身辺を守り、命ぜられるまま、貴人の耳に入れることが憚られるような所業を重ねてきたことを、いずれ悔いる日がこようとは思ってもみなかった。



  ◇


「伝令――! 離宮にてトゥルカーン妃の身柄を抑えたとのこと」


 耳に飛び込んできた敵方の急報に、剣を握る手からわずかに力が抜けた。その隙をのがさず、切り結んでいた相手は私の剣を払いのけて距離を詰めてくる。


 長い髪が宙を踊った。

 赤い衣を纏った細身の男だとばかり思っていたが、間近でみた顔立ちは随分と見目麗しい。


 この者ひとりを通さなかったとして、結末が変わるはずもない。こうして持ち場に留まり戦い続けることに、大局的な意味などとうに失われていた。


 敵方もなにも、もはや城内に味方と呼べる兵など残ってはいまい。


 あの女はやりすぎた。


 夜半、無数の火を掲げた人の群れ――武器を手に暴徒と化した民が城門に押し寄せる光景を見た瞬間から、こうなることはわかっていた。


 本性を世に曝け出してからは一層、ついぞ人望というものには縁のない主人だった。わざわざ不利な状況に身を置き、あの女を守り抜こうとする者など他にいようはずもない。


 ただ、私には退くべき先も生き残る理由もなかったというだけのこと。

 混乱の最中、己の役目は十分に果たしたと言えよう。


 眼前に迫る剣を見て、ここまでか、と膝をつく。くそったれな人生の最後としては、存外、悪くない戦いだった。貴族らが崇める神とやらに、今だけは感謝してやってもいい。


 しかし、予想に反して突きつけられた刃が肉を貫くことはなかった。


「よくやった。トゥルカーンは牢に繋いでおけ! くれぐれも私が向かうまで死なせるなよ」


 伝令に指示を出した赤い衣の男――いや、女は、戦意をなくした私の様子を見て剣を収める。


「この期に及んで忠節を尽くすとは見上げた心意気だが、ここで死ぬ気か?」

「命を惜しんだことはない」

「私は惜しい。民の血を流し、兄を殺してでも生きたいと望んだ。ゆえに生かされたのであれば、必ずや成すべきことを成す」


 立ち振る舞いからして只者ではないと察してはいたが、やはり。


「そなた、トゥルカーンの奴隷であろう。名は何という?」

「……、ジャマールッディーン・ヤークート」


 まさか知られているとは思わず、言葉につまりながら、半信半疑で答える。


「私はジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤ――これより国を貰い受ける女だ。ヤークート。この騒乱をおさめた暁には、そなたの忠義もいただくとしよう」


 なるほど、永い夜を焼き払う陽光は、彼女によく似合うだろう。

 若く、高潔で、美しいが継母には一切似ていない。


「戯言を」

「あいにくと、戯れを真実にするのが私の趣味でな」


 その言のほとんどを数多の人間に嘲笑われたが、みな黙らせてきたのだと、ラズィーヤは豪快に笑う。


 主人の言うとおり、いかれた女だと思った。これだけのことを成し遂げておきながら、私のようなものの忠義を欲する気がしれない。


「私は……貴女のような人間に、相応しい存在ではない」

「私のものは私が選ぶ。無論そなたにも選ぶ権利は与えよう。口先の約束はいらぬ――私が欲するのは、真実、私だけのものだ」


 ラズィーヤは力強く、嘘偽りを感じさせない口調で断言する。


 刹那、これまでの人生で感じたことのない類の多幸感に包まれた。このような人間が存在すること、このような人間に必要とされること、すべてが奇跡のように思えるほどの充足感に満たされていた。


 私だけをまっすぐに見つめる、燃えたぎるような熱を浮かべた瞳は、言葉を失うほど美しかった。


「――姫様。ご無事なようで何よりですが、自ら先陣を切っていくのはいかがなものかと」


 背後から割り込んできた若い男は、私の存在には目もくれず、その実、少しでも不審な動きをみせれば切り捨てると言わんばかりの殺気を飛ばしてきた。


 城内で見た覚えのある顔だった。雪崩れ込んできた民衆の中に、統率の取れた一団が紛れていたことを思い出す。現れた方角からして、トゥルカーンの捕縛を指揮したのはこの男だろうか。


「来たか、アルトゥーニヤ。奴が戻るまでにこちらから打って出るぞ。いい加減、日和見に徹していた貴族どもも腹を決めたであろう。もれなく引きずり出し、急ぎ軍を編成せよ」

「なぜそれを俺に言うんですか」

「私が望み、お前が私を選んだからだ」


 束の間、アルトゥーニヤという男の目の中に、自分と同じ熱が浮かんだように見えた。素知らぬ顔をしてみせているが、ラズィーヤの関心は麻薬のようだ。あんなものを間近で浴びせられて、狂わずにいられる人間がいるものだろうか。


「私は賭けに勝った。ならば務めを果たすまで。私も、お前もだ」

「まったく……手はずは整っていますよ。城が落ちた以上、宰相ワズィールたちも離反するでしょう。あとは貴女次第です」


 整えられた舞台の上に、役者が上がる。

 新しい時代の幕が開く。


「皆のもの! トゥルカーンは倒れ、計画の第一段階は達成された! 我らはこれよりフィールーズ軍の迎撃準備に移る――」



――――――――――――――――――――――

 1236年、民衆を率いて王城に攻め入ったラズィーヤは、トゥルカーンを捕縛した。


 さらに反乱を知り急ぎとって返してきたフィールーズの軍をデリー郊外で迎え撃ち、四十人チャハルガーニーと呼ばれるトルコ系の有力貴族らを味方に引き入れて、これを打ち負かした。


 11月9日、ラズィーヤはフィールーズの処刑を命じ、ついにデリーを中心に北インド一帯を支配領域とするスルタンの地位を手に入れた。

――――――――――――――――――――――


 後の世に、語られて曰く――


『スルタン・ラズィーヤは、優れた君主であった。

 彼女は、聡明、公平、寛大であった。

 彼女は、国を豊かにし、社会正義を行って民を安心させ、軍隊を指揮した。

 しかし、男でなかったため、これらの美点は価値のないものとされた』



  ◇

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