(2)宣誓
がらんと広がる空間を埋め尽くすようにして金曜礼拝に集う民衆が跪き、聖殿の方角を指し示す窪みへ向かって一様に祈りを捧げていた。その集団の上へ、華奢な影を中央に浮かべた一条の陽光が伸びていく。
「敬虔なる信徒たちよ――こうして祈るお前たちの中の誰一人として、変わらぬ明日を願ってなどいるまいな」
礼拝室に足を踏み入れるや否や外套を脱ぎ捨て、覆面を取り払った女は、高らかに声を張り上げた。
「変化を求めるならば、我が声に耳を傾けよ! 私は先王イルトゥトゥミシュの娘、ジャラーラトゥッディーン・ラズィーヤ。かつて父王の留守を預かり、その功績により後の治世を託された、この都の正当なる後継者である」
外套の下から現れた赤い色の衣が、パッと目を引きつける。白い衣が一般的な王都において、色つきの衣は罪を犯した者が身に纏うものだ。鮮やかな赤には、古い慣習に倣い『不当な扱いを受けた者の主張に耳を傾けよ』と視覚的に訴えかける効果があった。
狙いどおり衆目を集めることに成功したラズィーヤは、あっけに取られた群衆に我にかえる隙を与えず、たたみかけるようにして口上を述べていった。
「父の遺志に反して不当にその地位を得た兄フィールーズは政を放棄して享楽に耽り、その母トゥルカーンは権力を傘にきて暴虐の限りを尽くしている。悪政を正すべく各地で勇士が蜂起した。先頭に立って抗った我が弟クトゥブッディーン・ムハンマドを、トゥルカーンは残虐な方法で処刑した。トゥルカーンは私の命をも狙っている。これは恐れの表れである」
朗々と語るラズィーヤの姿をみて、人々は戸惑ったように顔を見合わせる。
構わず、彼女は一切の淀みのない口調で続けた。
「叛徒の鎮圧のためにフィールーズが都をあけた今こそが好機。堕落した支配者を廃し、美しき都を再び蘇らせんがために、父と弟の遺志を継ぎ、私は立ち上がった。誰ぞ、私と共に王城へ向かい、我が物顔で富と権力を占有するトゥルカーンの暴虐を裁く者はいるか」
水を打ったような静寂が落ち、一瞬の後にざわめきが起こる。
「ラズィーヤさま?」
「ほら、ナシルディンさまの妹の」
「戦場まで同行していたとかいう変わり者の姫様」
「今のスルタンは、音楽家を囲い、象に乗って金をばら撒いていたぞ」
「彼の方は下々の暮らしに関心など持っておられないのさ」
「いや許せないのはトゥルカーン妃の方だ。気に食わないものは皆殺して、好き勝手に振る舞っているのだろう」
「イルトゥトゥミシュさまの時代はよかった」
民衆のうちに燻る怒りは大きく、共感を得ること自体はさほど難しい試みではなかったが、問題は……。
「正当な後継者だって? だが、あれは女だろう?」
礼拝堂の中のざわめきが一層膨らみ、誰彼ともなく口々に不平不満を漏らしはじめる。その様子を後方から見守り、アルトゥーニヤはため息を吐いた。
実績ならば十分にある。イルトゥトゥミシュ王が遠征に赴いた二年間、この都を統治していたのは他ならぬラズィーヤだ。
跡継ぎと目されていた長男を亡くして以来、後継問題に悩まされつづけていたイルトゥトゥミシュ王にとって、あらゆる王の資質を備えた長女の存在は最後の希望となった。
教義に乗っ取り、女性は慎ましく控えめであることが何よりの美徳とされるイスラム王朝にありながら、その実、後宮の外で女のしきたりを知らずに育ったラズィーヤは、男児に混ざって武術を嗜み、父の執務を補佐して相談役となり、さまざまな実施訓練を介して鍛え上げられた――まさしく王となるべくして育てられた特異な娘だった。
もしも彼女が男として生まれていたのなら、その才を発揮することに何の障害もなく、このような無益な政争に国が揺れることはなかったであろう。しかし、そうではなかったがゆえに、彼女の手に王権を委ねるという選択肢はないものとして扱われた。
側近の激しい抵抗を受けたイルトゥトゥミシュ王は最終的に折れ、不肖ながらも貴族の支持を得て地方総督についていた息子フィールーズを都へ呼び寄せて後継に指名した上で亡くなった――ということになっている。臨終の場に立ち会うことさえ許されなかったラズィーヤにとって、真相は闇の中という他なく、納得できるものではなかっただろう。それでも一度は引き下がったのだ。
危惧されていたとおりフィールーズには王の器はなかった。クトゥブッディーンもまた年若いながらも民の支持を得た王子であったが、それゆえにトゥルカーンに殺された。
次に命を狙われるのは、という局面で、幸か不幸か、かつてイルトゥトゥミシュ王の愛した『どの息子よりも優れた小さな女の子』の存在は、より扱いやすい君主を求める貴族たちの間でふたたび脚光を浴びることとなった。
傀儡の王座に座る他に、ラズィーヤが生き延びる道は見出せなかった。
もっとも、今ここに集う民衆が、美しくも型破りな支配者を認めるか否かは、貴族らの打算的な政略とはまったく別の話である。
やがて、細い身体のどこから出るのかというような大音声で、ラズィーヤは叫んだ。
「聞け――!」
侮られることにも、軽んじられることにも、その姫は慣れきっていた。
数えきれない無理解に阻まれながら、与えられたものを貪欲に吸収し、声を張り上げ、結果を示し、決して無視できない存在まで己を高めて、望む道を切り開いてきた。
民よ、刮目するがいい。
己が見定めようとしているものの正体を思い知れ。
「王とは国のため、民のために尽くすものである。お前たちには王を選択する力がある。その力を貸し与えてくれるのならば、私は必ずやクトゥブッディーンの無念を晴らし、イルトゥトゥミシュ王の遺志を継ぐ真の王として、身命を賭してこの国の誠実な守護者となろう。私には一人でも戦う覚悟がある――しかしお前たちが許すのであれば、どうか私に父が認めた有能さを証明する機会を与えてほしい」
ラズィーヤは一度言葉を切り、深々と頭を下げてみせた。
ふたたび頭を上げたとき、その瞳にはあの、万象を焼き尽くさんとする、逆らいがたい熱を持った焔が宿っていた。
刹那、堂内は水を打ったように静まり返った。
正面に立つラズィーヤにジッと見据えられた男がヒィっと情けのない声を漏らして後ずさる音が、張り詰めた空気を伝い壁際まで大きく響いた。
それを皮切りに気圧されたものたちがつぎつぎと脇に退いて、彼女の前に道が拓かれていく。後方からは絶えず情けない姿を冷やかすような野次がとび、しかし、いざ間近に迫られた者は、例外なく口をつぐむことになった。
悠々とした足取りで中央まで進み出た彼女が、ゆっくりと堂内を見渡し、一人一人の民と目を合わせるたびに、礼拝堂は静寂を深めていった。
「代わりに私がお前たちに約束するものは、新しい時代の夜明けである。私と共に立ち上がる勇者には、最大限の恩賞をもって報いよう。そして勝利の暁には、弱者が一方的に踏みにじられることのない公正な世を約束する」
もはや聴衆は固唾を呑んで、蠱惑的な支配者の次の言葉を待っていた。
「神は見ておられる。我らの振る舞いを。我らの選択を。これは神の愛を勝ち取るための戦いである。先の時代の活気を懐かしみ、美しき都を欲するならば、我に続け! 今こそ祈りを形にすべく武器をとり、義憤に燃える血潮を捧げよ」
一拍の後。
――獣の咆哮のような歓声が轟いた。
誰からともなく口々に叫び、腕を振り上げ、ラズィーヤを取り囲んで決意を謡う。痺れるほどに鼓膜を震わせ、壁際まで押し寄せる希望と熱気に満ちた空気を全身に感じながら、アルトゥーニヤは予期した通りの結末を見届けた。
そうだ。問うまでもなく、扉を開けさせてしまえば最後、彼女を選ばないことなどありえない。
美しかろう、その王は。輝かしい理想を掲げて、恐れることなく邁進する。才に恵まれ、努力を惜しまず、幾度となく誇りを踏みにじられても尚、折れることを知らぬ。
期待に酔い、熱狂的な興奮に沸き立つ民衆の声を聞きながら、アルトゥーニヤは渦中から目を逸らした。
堰は切られた。
この勢いのまま王城を制圧し、フィールーズの軍勢が戻るまでに迎撃の体制を整えることも不可能ではなかろう。だが――その先はどうだろうか。
遠からず、このような日が来ることはわかっていた。彼女は多くを成すだろう。そして、その果てに。
「もしも私が期待を裏切ったときには、この身を神への供物と捧げるがいい――」
どうか、神よ。
見染めるなとは言わぬ、あまり急いで彼女を欲してくれるな。
◇