(1)不撓
「――道を開けよ!」
まもなく中天に差し掛からんとする極彩の太陽を背負い、この国で最も高貴な血を引く女性は、行手を阻む不届き者を一喝した。
「私を認めるか否か、審判の資格は我が国を成す民衆にこそあろう。この身が統治者たるに相応しいか、まさしくこれより問いにゆくのだ」
邪魔をするなと私を睨みすえる、強固な意志に満ちたまなざし。一世一代の大勝負に出ようという緊張など一欠片も感じさせない毅然とした立ち姿に、心の内では驚嘆していた。
教義に則り目元から下の全身を布地で覆ってなおも、彼女の覇気は隠しきれるものではなく、その美しさは見る者を魅了する。
ならばこそ。
「承服しかねます」
直視しかねるほどの眩しさに目を細め、ひりつくような怒気を真正面から受けてでも、俺は彼女の前に立ち塞がらねばならなかった。
「ここに至って何を言う」
「引き返すならば今が最後だからですよ、姫様」
この背にある扉を開かせてしまえば最後、抑圧されてきた民の怒りは濁流となって溢れ出すだろう。どのような方向に振れ、何が吞み込まれようとも、一度奔り出した流れを完全に御することなどできようはずもない。
彼女は自らを起爆剤として、その堰を切りにいこうとしているのだ。
「ご自分が何を為そうとしているのか、いま一度よくお考えください」
「怖気付いたのならば引き返すがいい。もはや手段を選んでいられる猶予はないと、お前もわかって私についたのであろう」
「俺が同意したのは貴女を生かすという一点のみです」
「同じことだ! 死の影に怯えて逃げ惑う先に、我が生はない」
勇ましくも美しい姫君は、微塵の迷いもなくキッパリと答えてみせた。
みすみす死なせるには惜しい娘だと思った。
いつ処刑台に送られても不思議ではない窮地に置かれた幼馴染の博打に手を貸した動機など、その程度のものだった。個人として、王家の血に利用価値を見出したわけではなく、まして身命を賭して国を救えなどと願った記憶もない。
「だから甘言にのったと? あの古狸どもは貴女のことなど替えのきく駒としか見ていないのだから、わざわざ諌めはしないでしょうが。このような暴挙とても許されるとは――」
「許す? 許すと言ったか」
覆面の隙間から覗く漆黒の瞳にひたと睨み据えられ、その迫力にたじろぐ。
この、目だ。
俺は昔からこの目に逆らえない。
「父上は生前、私が跡を継ぐことをお許しくださった。他に誰の許しが要るというのだ。貴族らや神学者どもとて一度は承服しておきながら、今際の際になって私を遠ざけ、王器のない兄上を選んだ。お前もまたその一人であったこと、忘れたとは言わせぬ」
才気に富み、期待と寵愛を一身に浴びて後継者指名を受けた姫といえど、父王の亡き後、強固な後ろ盾を持たない彼女に選択肢は与えられなかった。
俺自身は決定する立場になかったと主張したところで、聞く耳を持ちはしないだろう。彼女にとっては、先王に大恩のある身でありながら、その意に背く王位継承を受け入れた俺もまた裏切り者にすぎない。忌々しく思いこそすれ、信頼などされてはいまい。
「事を荒立てまいと身を引いた、その結果をみよ――あれほど私を疎んでいた者どもがこぞって手のひらを返す、惨憺たる現状を!」
力強く広げられた腕の先が指し示す街路を、あらためて眺めるまでもない。新王の即位から半年あまりを経た国は、たちまち内外に不安を抱え、この王都でさえかつての活気には遠く及ばない重苦しい空気を漂わせるようになっていた。
悪政を強いているのは、彼女の異母兄にあたる若き王フィールーズではない。その母だ。
権力を握ったトゥルカーン妃は、人が変わったかのように後宮内の旧敵の粛清に乗り出した。いたるところで燻る不満の種が表に出れば、そのたびに無益な血が流された。
先日、いくつかの地方領主とともに反乱を起こした彼女の弟を、盲目にした上で殺すという残虐な方法で処刑したのも、トゥルカーン妃の指示であったという。
王は何もしなかった。
あれは傀儡としても役に立たない暗愚だ。モンゴル帝国やラージプートの脅威に晒され、国境の都市が侵攻を受けている間でさえも、政への意欲を示さず、ただ湯水のように金を使って道楽に耽り、民の生活を圧迫した。
今もまた北部全域で蜂起した貴族たちの反乱を鎮圧するために、王は兵を率いて都を空けている。
奪われた権利を取り戻すため、己の生を勝ち取るため、理由は様々あるだろうが、ここまで彼女を突き動かした原動力は、不条理な現実に対する煮えたぎるような怒りに他ならない。
「どのような思惑があるにしろ、奴らは私に従うと表明した。では、許さぬのは誰だ? お前か? 兄上か? 神か? こうまで国を腐敗させた兄上に許されて私に許されぬ道理を、説けるものならば説いてみよ」
瞳の奥底にたゆたう憤怒の焔は、叢に伏せて獲物に飛びかかる寸前の獅子と見紛うばかりに猛々しい。
「父上の遺志を踏み躙った愚者の暴虐を、たとえ神が許したとて私は許さぬ。なによりも、それを許した己の無力を、決して」
この瞳を前にして、小娘の戯言と侮れる者がいるのであれば会ってみたい。
無力、だって?
笑わせるな。
恐れを知らぬ勇者のごとく戦場を駆り、英知を授ける賢者のごとく王に寄り添い、公明正大な聖者のごとく市井の民を慈しむ、美しい幼馴染のことが、俺は昔から嫌いだった。
ただひとり翼を与えられているかのような背が。
だれひとり追いつけない速度で駆けていく脚が。
気がつけば軽々と手の届かない高みに昇り詰めながら、唯一無二の輝きを放ち、衆人の目を奪って離さない彼女のすべてが、憎らしかった。
もしもこの姫が、言葉通りに無力を嘆くばかりの娘であったのならば。彼女は命を狙われることもなく、俺は澱のような感情を抱えずにいられただろうか――そうではなかったから今この状況があるというのに、まだ無意味な仮定にすがろうとしている自分自身の愚かさが惨めでさえあった。
もはや、決意は揺らぐまい。
はなから翻意を促せると思っていたわけではないが、改めて格の違いを悟らされるばかりの結果で終わった。こうして人の内に醜い澱が溜まっていくことを、美しい姫が知ることはない。
「……いまさら、問う意味など」
「ある」
喉の奥から搾り出した言葉に制止する力などあろうはずもなく、力の抜けた腕を振り切って駆けていく背を、俺はもう引き止めようとはしなかった。
公正な秤にかけてしまえば、世の凡庸な男たちに成せて彼女に成せないことなど、一体なにがあるだろう――惜しむらくはただ一点、そのような秤は未だかつて存在した試しがないということのみだった。
「俺は、貴女をおいて他に王座に相応しい方がいるとは思いません。しかし貴女を支援する者らは、そうした意味で相応しき王を立てようなどとは考えてはいますまい」
本心から言い募る最後の悪あがきじみた忠告を、彼女は覆面の奥で一笑に付した。
「ならばこそ民に問うのだ。ついて参れ、アルトゥーニヤ」
かくして、都最大の礼拝堂の扉は押し開かれた。