第8章~テニスコートに囚われて
「えっ?まさか!あのテニスコートに誰かいるの?」
ぼくは、ただならぬ事態に緊張が走りました。
中谷君に強い霊感があるのは知っていましたが、彼の水準に追い付く事が出来ないぼくには目を凝らしても何も見えませんでした。
「角度を変えても何も見えない…、それにしても奴は食い入るように見つめているな…」
相変わらず独り言を言っては燥いでいる中谷君を見て、ぼくは酷くつまらない気持ちになりました。
そのうち、中谷君には一体全体何が見えているのか気になり始めました。
そこで、ちょっと鎌をかけてみました。
「あー、本当下手だよね~」
「だろだろ!」
「ところでさ、次はどっちがポイントを取ると思う?」
「そうだなあ、向こう側にいるレシーブの子だと思うよ」
「因みにさ、レシーブの子が着ているウェアはどんな感じだか分かる?裸眼だと眩しくてよく分からないんだけどさ…」
「そうだなあ、上下共ぴちっとしたウェアで色はレモンイエローって感じかな」
「そうなんだ、けっこう派手な色なんだね…、ついでにその子の顔も見えたりする?」
「んー、遠いから顔まではよく分からないけど、髪型はポニーテールで可愛らしいよ」
「ふーん、成程ね…」
そこまで聞いてピンときました。
要するに、中谷君はここで女の子が楽しそうにテニスをしているのを、鼻の下を伸ばして見ているのでしょう。
それを、食い入るように見ている事を考えると、きっと若くて美しい女性に違いないでしょう。
それならば、もう一丁鎌をかけてやるしかないな…、と思いました。
「それじゃあ、手前側にいる子はどう思う?」
「そりゃあ、いいに決まっているだろ!あの純白のテニスウェアにひらひらしたプリーツスコートは堪らないぜ」
「その子の髪型はどう思う?」
「うん、あのセミロングは俺好みだよ」
「でも、そんなにデカい声を出してたら不審がられるんじゃない?」
「そんなの気付かれやしないよ!こっちは少し高台なんだからさ」
「それよりも早く頂上に行こうよ」
「いやいや、今いいところだからもう少しだけ見ていこうぜ」
「何だよ、当初の計画から脱線してんじゃないかよ」
中谷君の自己中心的な言動に段々と腹立たしくなったところで、ぼくにも何かが見えるようになりました。
テニスコートの奥側は母屋になっていて、建物の右側だけがテニスコートに直結出来るように張り出していて、末端には茶色い扉が付いていました。
その構造に気が付いたと同時に茶色い扉がのったりと開いたのです。
そして、扉が開くや否や細身の老婆がつっつと出てきました。
「んっ?この老婆は何かおかしい…」
「何なんだ、この違和感は…」
ぼくは血眼になって原因を探していると、程なくしてその異変に気付きました。
「分かった!この老婆は体が透けていて後ろの景色が見える!」
「これはきっと亡霊に違いない!」
「そうなるとテニスをしている女の子は生霊か何かなのか?」
「とにかく、こちら側には気付かれないようにしないといけないな…」
そこで、ここからはあまり音を立てずに息をするようにしました。
しかし、老婆はすぐに自分の存在に気付いて、もの凄い形相で睨んできました。
その余りの迫力に、ぼくは恐怖に駆られて背筋がぞくぞくしました。
この老婆は十中八九亡霊だとは思いましたが、万が一でも通報されるような事があったら大変だと思い、慌てて中谷君の肩をトントンしました。
「ちょっとちょっと!」
「何?何だよ!」
「右側の建物から老婆が出てきて、もの凄くこっちを睨んでいるんだけど…」
「えっ、どこどこ?」
「いいから!早くここから立ち去らないと怒られるぞ!」
「何だよ…、仕方ないなぁ」
中谷君はその場から渋々移動しました。
その時点で10時20分でした。
ただ、中谷君は5m位進むと登山道の脇にある縁石に座り込み、リュックサックを下して水筒を取り出しました。
「あー、何かのどが渇いたな、ちょっと休憩な!」
「何分位休憩する?」
「そうだな、10分したら行こうぜ」
「うん、分かった」
中谷君とテニスコートの前で道草を食ったので、休憩と合わせて帰りの予定が30分遅れて13時30分になりました。
先を急ぎたい気持ちはありましたが、避暑地の軽井沢といえど7月の日中はかなり暑くて汗ばんできました。
中谷君はタオルを取り出し、顔を拭う為にサングラスを外しました。
ぼくはそこで中谷君に言いました。
「ねえねえ、そのサングラスちょっとだけ貸してもらえないかな?」
「え~、でもこれ高いんだよ」
「ちょっとだけでいいから、これで周りの景色を見たらすぐに返すから」
「まあ、それならいいけど」
「サンキュー、恩に着るよ」
ぼくは、ちょっと前から思っている事がありました。
「あのテニスコートで女の子見えたのは、中谷君がサングラスを掛けていたからじゃないだろうか?」
「だったら、ぼくもサングラスを掛けたらその人達が見えるんじゃないか?」
「でも、ぼくに見えていた老婆は中谷君には見えていなかったのかも知れない…」
「これはどういう事だろう?」
とりあえず、中谷君から借りたRay-Banのサングラスを掛けて、周りの景色を見るふりをしてあのテニスコートに目線を向けました。
「んっ?サングラスを掛けたけど、何も変わらない、誰も見えない…」
「くっ…、どうやら当てが外れたか」
ガッカリしながらサングラスを外すと、予想だにしない事が起こっていました。
何と!テニスコートの高尺フェンスには張り付くように老婆が立っていて、金網越しにぼくを威嚇してきたのです。
「うわぁぁあ~」
ぼくは思わず仰け反りました。
「ヤバいヤバい、早くここから逃げないと…」
その後、すぐに中谷君にサングラスを返しました。
「サングラスありがとね」
「別にいいけどさ、何かあったの?」
「ううん、ちょっとね」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そうだね」
中谷君を先頭にして、やっと登山道を進んで行きました。
それから、最初のカーブを曲がった時の事です。
そこで何と!さっきぼくを睨みつけていた老婆が佇んでいたのです。
ぼくは、咄嗟に片手で顔を隠しました。
「とにかく、ここは何としてでもやり過ごさないと…」
そう思っていると、老婆が中谷君だけに向かって話し掛けてきました。
それは10時30分からでした。
「こんにちは!」
「どうもこんにちは!」
「これから山頂に行くんですか?」
「ええ、まあ、それで山頂で昼飯でもと思いまして」
というような、他愛もない会話が続いていました。
ぼくは、気配を殺しながら恐る恐る老婆を見ると、今度は体が透けていませんでした。
「さっきと違って、何で老婆の体がハッキリと見えるんだろう?」
「それに、この老婆は確かにテニスコートにいたよな…」
「だとしたら、金網を乗り越えてきたのか?」
そう思うと、居ても立っても居られなくなりました。
それにしても、ぼくに向けての老婆の睨みは何だったんだろう。
それに対して、あれだけ騒ぎ立てていた中谷君にはとても友好的でした。
ぼくは、2人から5m位離れた所でその様子を見ていました。
「あの老婆は何の為にテニスコートから出てきたのだろうか?」
「こちら側に不信感があってクレームをつけてくるならまだしも、中谷君とはずっと楽しそうに喋っているじゃないか…」
「それにしても、いつまで喋っているのやら…」
5分…、10分…、いくら待てども話が終わる気配すらない…。
それどころか、一段と話が弾んでいました。
さすがにこれ以上は待てないと思い、大声で呼び立てる事にしました。
「おーい、早く来いよ!頂上に行くのが遅くなっちゃうよ」
「ごめん、まだ話の途中だから先に行っててくれる」
「分かったよ!でも早くしてね、お昼前には頂上に着きたいから」
ぼくがそう言うと、中谷君は話を遮るなとばかりに顰めっ面をしました。
「途中で待っているから、遅くてもあと5分以内には来てくれよな」
その時、中谷君はぼくの方を見向きもしないで、軽く片手を挙げただけでした。
それを見てぼくは仕方なく先に進みました。
その時点で10時40分でした。
そして、歩くこと10分位の所に腰掛けるのに丁度いい岩場を見付けました。
一先ず、そこに腰掛けて中谷君が来るのを待つ事にしました。
しかし、10分待っても彼が来る気配すらありませんでした。
そして、20分が過ぎた時、ぼくの我慢はとうとう限界に達しました。
その時点で11時10分でした。
歩いた時間が10分といえど、態々登ってきた道を戻るのに踏み切れないでいましたが、そんな事も言ってられませんでした。
意を決して中谷君を呼びに行くと、驚いた事にまだ老婆と話をしていました。
ぼくはチラッと腕時計を見ると、2人は40分以上も話をしていた事が判明しました。
その時点で11時15分でした。
中谷君が老婆と長々と話したせいで、当初の帰りの予定が合計で1時間15分遅れて14時15分になりました。
決められた予定から逸脱して徒らに時を費やす事が続いた為、ぼくは頗るイライラしていました。