第7章~登山口の少し先で見えた別荘
離山は低い山ではありますが、登山口近くにあった登山者名簿に名前を書いてから出発する事にしました。
登山をする前は、もしもの時に備えて登山者名簿に記入してから入山しますが、観光客や山に慣れていない方が多かったのかけっこうな列になっていました。
離山とは、標高1255mの溶岩ドームで浅間火山の側火山で、外国人客からはテーブルマウンテンの愛称を持ち山麓は別荘地として開発されています。
離山の登山口から山頂までは高低差200m程で、整備された緩やかな登山道を徒歩1時間ほどで登ることが出来るとガイドブックに書かれていましたが、過去に登山をした経験から額面通りに受け取っていいとは思いませんでした。
登山者名簿に記入する列に並んでいる時に、自分なりにタイムテーブルを考えました。
それは、以下の通りになります。
9時55分:登山口から出発
11時15分~11時25分:離山に登頂(登りは時間が掛かるので1時間20~30分と推定)
12時15分迄昼休憩:(昼食込みの休憩時間は50分~1時間程度と推定)
13時05~15分:山頂から下山迄の時間(下山は怪我さえ無ければ早いので1時間以内と推定)
13時20~30分:別荘に着く時間(途中で休まずに帰った場合)
「ん?待てよ…、このペースで動いたならば、もう一か所位何処かに行けるんじゃないか?」
その事を遠回しに伝えようと思い、中谷君に話し掛けました。
「ねえねえ、山頂には何時位に着くと思う?」
「順調にいけば11時30分迄には行けるだろ」
「じゃあ、ここに戻ってくるのはどの位になるかな?」
「まあ、どんなに遅くても13時30分…、いや13時には戻ってこれるだろ」
「思ったよりけっこう早いね、どういう計算?」
「えーと、まあ…、昼飯が30分で休憩が30分で下山が30分だよ」
「随分とざっくりだね、それにしても30分で下れるの?」
「うん、下りはずっと休まずに行けるから早いんだよ」
「じゃあ、別荘には13時30分には帰れるね」
「まあ、そうだね」
「だったら、もう一か所位どっかに行けるんじゃない?」
「まあ、一か所なら行けるんじゃない」
「それなら、昨日ガイドブックを見た時に白糸の滝(長野県)っていうのがあったんだけど、下山してからそこに行く事って出来るの?」
「そりゃあ、バスに乗れば行けるけど、現地の最終便が16時30分位だから15時にはこっちのバス停にいないと無理だと思うよ」
「いやいや余裕で行けるっしょ!それでさぁ、こっちのバス停って軽井沢駅の事?」
「そりゃあ、始発は軽井沢駅からだけど旧軽井沢からでも乗れるよ」
ぼくはそれを聞いて、下山後でも確実に白糸の滝に行けるな…、と思いました。
「いいね~、じゃあ登山はどんなに遅くても14時00分には切り上げよう!」
「でも、離山から帰ってくるだけでもけっこう疲れるよ」
「いいのいいの、気にしない気にしない、今日はぼくが行きたい所に付き合ってもらうんだから」
あれこれ話していると、やっと記帳台の前まで来ました。
殴り書きで名前と住所を記入すると、やっと登山のスタートでした。
その時点で、腕時計を見ると10時1分でした。
思ったよりも記帳に時間が掛かりましたが、誤差の範囲でした。
中谷君にとっては、伯父さんの伝手で何度も軽井沢に来ていたんだろうけど、ぼくにとっては滅多にない旅行だったので、ダラダラと何もしないで過ごす選択肢はありませんでした。
白糸の滝とは、標高1260mに位置し湾曲した地形で、高さは3m余りですが幅70mと連なり湯川の源流になります。
伏流水を源流とする潜流瀑である為、だいたい流量は一定で、透明度の高い絹糸のような水が幾重にも降り注ぎます。
ここでは、春夏秋冬それぞれ四季折々の魅力はありますが、特に夏期の清涼感は格別ですとガイドブックに書いてありました。
ぼくのカバンには、24枚撮りのフィルムがあと一本あったので、今回の旅行ではそれで充分でした。
登山道入り口から15m位先に行くと、中谷君は徐にリュックを下ろしました。
そして、満面の笑みを浮かべながらサングラスを取り出しました。
いくら低い山といえど、登山にはサングラスが欠かせないのかと思い、所持していない事にたじろぎましたが、この日はそれほど強い日差しではありませんでした。
「これだよこれ!忘れるところだったよ」
中谷君はサングラスを掛けると、自慢げにそう言いました
「どう、似合う?」
確かにどこから見てもカッコいいサングラスでした。
サングラスのレンズは真っ黒ではなく、薄いフォレストグリーンでした。
「うん、凄く似合うじゃん、それどうしたの?」
「俺は今月誕生日だから両親からのプレゼントだよ」
「へぇ、そうなんだ、けっこう高いんじゃないの?」
「へへっ、Ray-Banだぜ、これ!」
そう言うと、誇らしげにロゴを見せてきました。
「これを掛けていたらモテるかな?」
「さあね、サングラスはカッコいいけど世の中そんなに甘くないんじゃない」
「いいや、今に見ていろよ!これで見た目だけは見劣りしないんだからさ」
サングラスを掛けた効果なのか、中谷君はいつもより自信有り気に見えました。
その時ぼくは、
「いいなあ、あんな高価なサングラスが貰えて」
と、羨ましく思っていました。
それから、やっと登山道を歩き始めたのですが、十数メートル進んで行くと麓側に何軒かの別荘が見えました。
その中でも、豪勢なテニスコートが一面付いた別荘がありました。
「これはこれは、別荘地の中でもこんなにも広い敷地で、テニスコートまで付いた別荘があるとは…」
そう思って、2人の意識はそちら側に持っていかれ、いつの間にか足が止まっていました。
しかし、そのテニスコートをよく見ると、何年も管理されていないのかコートの隅には枯れ葉が溜まっていました。
中央にあるテニスのネットはだらりと垂れ下がっていて、鉄製のポスト(支柱)もかなり錆び付いていました。
ぼくは、その荒れ果てたテニスコートを見て、
「別荘地だと偶にしか来ないオーナーもいるから、長い事誰も来ていないんだろうな…」
とだけ思いましたが、それ以外は気になりませんでした。
ぼくは前に向き直って20m以上進んで行くと、後ろから足音がしない事に気が付きました。
「あれ?中谷君は何処に行った?」
辺りを見回すと、先程2人で佇んでいたテニスコート付きの別荘(以降、あの別荘と表記)の真ん前に張り付いていたのです。
そこで、ぼくはイライラしながら中谷君を呼んだのです。
「おーい、何してんだよ!早く来いよ!」
そう言うと、今度は中谷君が手招きをしながら、
「ちょっとこっちに来てみろよ!いいもんが見られるから!」
と、興奮気味に言ってきました。
ぼくは一刻も早く離山に登頂したかったのですが、中谷君がその場から離れようとしないので、仕方なく戻ったものの、すぐに彼を連れ戻す気でいました。
「なあ、何やってんだよ!早く山頂に行こうぜ」
「それより見てみろよ、あのテニスコートを!」
そう促されて、長年誰にも管理されていないと思われる殺伐としたテニスコートを、再びこの目で見る事になりました。
「それで…?あのテニスコートがどうかしたの?」
不可思議に思いながら聞いたところ、中谷君が急に大声を出しました。
「ぶははははっ~!」
「何?何なんだよ!」
「お前も見たか?下手クソだよな~」
と、小馬鹿にするように言ってきました。
そこからは、中谷君の独り言が止まりませんでした。
「あっ、何処に打ってるんだよ!」
「取れる取れる!あんな打球は走れば取れる!」
「まーたサーブを引っ掛けたよ…、下手だよなぁ~」
「あっ、今度はデカ過ぎるよ!ありゃ~完全にアウトだよ!」
「あー、その腕前でボレーなんて無理無理!」
さっきから、彼はかなり大きな声でテニスコートに向かって叫んでいましたが、それがぼくには不思議でなりませんでした。
「もしかしたら、何処か他にもテニスコートがあるのかな?」
そう思って中谷君に聞いてみました。
「あのさ、さっきから何処のテニスコートを見ているの?」
「何言ってんだよ、そこに決まってるんだろ!」
「えっ、どこどこ?その場所を指差してみてよ」
「はぁ~、何だよ…、そこだよそこ、そこに決まってんだろ!」
中谷君が迷わず人差し指を向けた先は、長年誰も管理していないであろう古びたネットがだらりと垂れ下がったままになっている、あの荒んだテニスコートでした。