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霊感がある2人が避暑地で見たもの  作者: きつねあるき
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第1章~軽井沢旅行に誘われてから

 このお話は、1989年(平成元年)の7月下旬の事になります。


 当時、ぼくが高校3年生の時の事になります。


 その時に同級生だった親友の中谷雅喜(なかたにまさよし)君に、夏休み前に軽井沢旅行に誘われました。


 現在の夏では軽井沢といえどかなり暑くなるので、避暑地(ひしょち)としてピンとこないかも知れませんが、その当時の夏だと冷房なんて必要ありませんでした。


 中谷君とは高校1年からの付き合いで、よく彼の家にも遊びに行ったものでした。


 他では、定期試験が終わる度にゲームセンターやボーリング、バッティングセンターなんかも行っていました。


 ぼくにとっては、とにかく目先の遊びさえ有り付ければ良かったものの、中谷君にとって一番興味のある事は彼女を作る事でした。


 それでまあ、中谷君はいろいろと努力はしたものの、思うようにはいきませんでした。


 やはり、一から新しい恋を見つけるのは容易な事ではありませんでした。


 中谷君には何人か親友がいて、最初は彼らを軽井沢旅行に誘ったのですが、車の免許を取りに行くという理由で全員から断られていました。


 それで、順々に誘っていった最後がぼくだったのです。


 ぼくはアルバイトをしていなかったので、そんなにはお金を持っていないからと一旦は断ったものの、中谷君の伯父(おじ)さんが軽井沢に別荘を持っているから、交通費・食事代・土産代だけでいいからと言われたので、それならばと承諾(しょうだく)しました。


 それでも、お年玉の(いく)らかを使う事にはなりますが、以前からテレビ番組で取り上げていた軽井沢のサイクリングにはとても興味がありました。


 ぼくは、交通費と食事代の他は8千円しかありませんでしたが、その全部を使っても軽井沢でサイクリングをしてみたいという気持ちがありました。


 ただ、もしもの事を考えて、お金が足りなくなったら中谷君に2千円迄は貸して(もら)えるように交渉すると、あっさりと了承(りょうしょう)してくれました。


 お金の事よりも、ぼくと高校最後の夏の思い出を作りたかったからでした。


 それに、ある目的があってどうしても軽井沢に行きたかったようでした。


 中谷君は、ぼくの存在が(かす)む程強い霊感(れいかん)を持っていました。


 なので、一緒にいると見えなくなったり、彼が見えているのとは違う幽霊(ゆうれい)が見えたりするのです。


 ぼくにはそれが不思議で仕方ありませんでしたが、彼と一緒にいると幽霊がほとんど見えなくなるので、安心していた一面も否定出来ませんでした。


 そんな彼と軽井沢旅行に行った時に何を見たのか?


 というのが今回のお話になります。


 それでは、本文にお進み下さい。

 このお話は、1989年7月下旬の事になります。


 当時、ぼくは高校3年生で17才でした。


 この年の夏休み前に、同じクラスで親友の中谷雅喜(なかたにまさよし)君に軽井沢旅行に誘われました。


 中谷君とは高校1年からの付き合いで、よく遊びに行った仲でした。


 彼は、大柄で筋肉質ではありましたが、日頃から全くモテませんでした。


 それで、二言目には彼女が欲しいとばかり言っていました。


 中谷君はその年の春に、ある雑誌の裏表紙内側に()っていた恋人紹介の広告を目敏(めざと)く見付けて早速入会しました。


 それには何故か年齢制限が無かったので、高校生でも入会する事が出来たのです。


 しかし、期待しただけ無駄で何の出会いもありませんでした。


 恋人紹介センター(仮名)からは、3枚の女性の写真が送られてくるのですが、規定通りに1枚を選んで送り返すと、後日に最初とは全く違う女性の写真が3枚送られてくるのです。


 それで、その内の1枚を只管(ひたすら)送り返しても、延々と以前とは違う女性の写真が3枚送られてくるだけだったのです。


 それは、ただ単に会員の女性から選ばれなかっただけなのか、元々紹介する気がなかったのかは定かではありませんが、一番最初に選んだ女性の写真が再び3枚の中に入っていた時は、さすがにショックを(かく)せなかったようです。


 限りなく(あや)しいシステムですが、会員である以上月会費が発生していたので、3ヵ月を過ぎたところで解約したと(なげ)いていました。


 中谷君は、詐欺(さぎ)まがいと思われる事態に遭遇(そうぐう)したので、そのリベンジで軽井沢にはナンパ目的で旅行を計画したのでした。(実際に詐欺なのかどうかは不明です)


 しかしながら、そう易々(やすやす)といい出会いがあるとは思いませんでしたが、ぼくにとっては中谷君の伯父(おじ)さんの別荘に無料で泊まれるのは悪い話ではありませんでした。


 それに、以前からテレビ番組で取り上げていた軽井沢でのサイクリングには興味(きょうみ)がありました。


 高原の爽快(そうかい)な道のりを、優雅に自転車で走り抜けるのは(あこが)れでした。


 軽井沢までの往復は特急に乗り、3泊4日のフリープランだと言ってきました。


 当時はまだ長野新幹線が開通していなかったので、特急が一番早い列車でした。(長野新幹線が開通するのは1997年10月で、2015年3月から長野~金沢間が開通して北陸新幹線に名称を変更しています)


 確か、特急の名前は「白山」だったと思います。(白山は信越本線特急で唯一食堂車が連結された特急という点で人気でしたが、1997年10月に長野新幹線が上野~長野で開業すると信越本線横川~軽井沢が廃止(はいし)された事もありその役目を終えました)


 始発は上野駅で、15時過ぎの特急で出発してから何時間かかったのかまでは覚えていませんが、軽井沢の手前にある碓氷峠(うすいとうげ)を越えるのに物凄(ものすご)く苦労をしていたような記憶があります。


 かつて、上野から軽井沢に向かう列車は、横川駅の手前にある松井田駅という所で全て停止しなくてはなりませんでした。


 それは、松井田駅から先は補助機関車と連結ないと碓氷峠を越えられなかったからです。


 ぼくは、てっきり軽井沢駅に直結出来るのかと思っていましたが、訳も分からず松井田駅で降ろされました。


 松井田駅のホームで待っている間に、いつの間にか今迄乗ってきた特急の先頭車両が切り離されていました。


 そして、峠を越える為の補助列車が連結される迄、降ろされた乗客は回転式の案内表示機を何度も見上げていました。


 しかし、先程松井田駅に着いたばかりだったので、まだ案内表示機には移動先のホームすら載っていませんでした。


 数分後、ようやく案内表示機に表示されると、今迄立っていた場所とは違うホームだったので、乗客は一斉に移動して行きました。


 列車の運行は30分以上も先なのに、乗客の皆さんは泡を食って移動して行くので、それを不思議に思って中谷君に聞いたところ、数々の列車が通過しない短い時間帯を(ねら)って案内されているからと答えてくれました。


 ぼくは思わず、本当にこの切符で軽井沢駅まで行けるのか?と思い、まじまじと見返したような気がします。


 時刻表の順番通りに補助機関車が連結すると、運行していく列車からは歓声(かんせい)が聞こえ、別のホームで待っている方々はそれを(うらや)ましそうに見ていました。


 この路線には、1963年迄アプト式というのを採用していて、レールとレールの間にラックレール(歯形のレール)があり、ピニオン(歯車)を()み合わせて急勾配(きゅうこうばい)を上り下りしていたという歴史がありました。


 当時の松井田駅には、まだ古いラックレールがそのまま残っていたと思います。


 補助機関車が到着するホームに移動する際、何本かの線路を横断する歩道を渡った時に、このギザギザの線路は何なのかと思っていましたが、調べてみるとそんな経緯(けいい)があったようです。


 回転式の案内表示機に書かれていた通りのホームで待っていると、だいたい時間通りに補助機関車がやってきました。


「ゴゴゴゴゴ、ガッチャァーーン!!」


 連結によりかなり大きな音がしました。


 すると、鉄道員が連結部を入念にチェックしました。


 問題がない事を確認すると、運転士に向かってビシッと片手を上げていました。


 その後、ぼくらを乗せた補助機関車がゆっくりと出発すると、やはり乗客からは大きな歓声が上がりました。


 ある程度坂を上って行くと、なだらかな傾斜(けいしゃ)が続く地点に進んで行き、平地の地点迄到達すると補助機関車は完全に停まりました。


 すると、反対側の坂の上から別の補助機関車が下って来て、今度は列車の後ろ側に連結したのです。


 鉄道員が連結部を確認すると、今度は今迄乗ってきた補助機関車の連結を切り離しました。


 後方部の連結が切り離されたのを確認すると、鉄道員は運転士に白旗で合図を送りました。


「ガガーン、ガガガーーン!」


 新たに連結された補助機関車が、エンジンをガンガンふかして今度は反対側の坂を上ると、さっきまで乗ってきた補助機関車が時間差で来た道を下って行きました。


 ぼくらが乗車している補助機関車がある程度坂を上って行くと、また、なだらかな傾斜の地点に進んで行き平地迄到達すると完全に停止しました。


 すると、また反対側の坂の上から別の補助機関車が下って来て、今度は列車の前側に連結したのです。


 そして、鉄道員が連結を確認してから今迄乗ってきた補助機関車を切り離し、同じ様に坂を上って行く訳なのですが、とにかく連結の度に、


「ガッチャーン、ガッチャァーーン」


 と、大きな音を立てるので、連結部近くの乗客には身体中に(ひび)き渡りました。


 それが、当時のぼくにはかなり不快だったのですが、そういうのが好きな人も数多くいる事なのでしょう。


 補助機関車による連結、切り離しを何回か繰り返すと、その先にあったのは横川駅でした。


 横川駅ではそこそこの停車時間がありました。(駅弁を買って食べ終わる位の時間)


 そこで、駅弁で有名な(とうげ)(かま)めしを売り子から買っている乗客がいましたが、すぐに売り切れてしまうのです。(当時釜めしは1個600円位だったと思います)


 横川駅に着いたら、乗客の皆さんは(もう)ダッシュで釜めしを買いに行きますが、車両によっては売り子から遠くて買えない人が続出しました。


 中谷君も釜めしを買えなかった一人でしたが、仕方が無いので他の駅弁を買って戻ってきました。


 ぼくはそれほどお金を持っていなかったので、最初から釜めしを買うつもりはありませんでしたが、その争奪戦(そうだつせん)はとても見応えがありました。


 客車の窓を全開にして、そこから何個も釜めしを買う人もいれば、売り子からかなり遠い所から苦悶(くもん)の表情をして走り込んでくる人達。


 釜めしが買えて大喜びで列車に戻って行く人達。


 釜めしが完売して売り子が通路にばんじゅうを置くと、売り切れだと思って戻って行く人がいましたが、実は釜めしが満載(まんさい)のばんじゅうがもう一箱通路に置いてあって頃合いを見て売り始める事。(そうするのは他の駅弁を売りたかったからという説もあります)


 釜めしを(あきら)めた人が他の駅弁を買って列車に戻ると、何故か後からホームに行った人が釜めしを買って戻ってくる事。


 それを目を丸くして見ている人達。


 その一部始終を見ていましたが、釜めしを求める様子は壮絶(そうぜつ)なものがありました。


 この当時、何で売り子がこんなに釜めしを少なく売っていたかというは、恐らく列車(ごと)に売る釜めしの数が決まっていたからかも知れません。


 横川駅に着く前に、乗客の方々の目が血走っていたのはこういう事かと思いました。


 横川駅から先については、軽井沢駅まで補助機関車による連結、切り離しがあったとは思いますが、それほど多くはありませんでした。


 乗り慣れた乗客から、


「これで最後だからね」


 と、聞かされると、皆さんホッとしていました。


 それで、やっとこさ軽井沢駅に着いたと思います。


 これまでが、ぼくが初めて軽井沢駅に降り立った経緯になります。(鉄道運行の記述については()っすらとしかない記憶に基づく物なので表現等に間違いがあったらごめんなさい、そこは読み物として当時の鉄道の雰囲気(ふんいき)を表現したものと思って頂ければ幸いです)


 着いた時には薄暗い感じだったと思いますが、当時の軽井沢駅を正面にしてテレビで何度か見た赤い屋根と白い(かべ)の駅舎を(なが)めていたら、感動でしばらく棒立ちになったのを覚えています。

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