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茜(Akane)

作者: すのへ

 父の寝顔を確認し集中治療室から出るとき小さな女の子とすれ違った。ICUの出入り口は自動ドアで退室は素通りで出られるが、入室する際は中の看護師を呼び出して確認のうえ開けてもらうようになっている。その入室手続の手間いらずに女の子はわたしの横をすっと通り抜けていった。

 親かだれかがICU入院患者なんだろうと気に止めなかったが、それが何回か続いた。さすがにおかしいと思ってある日のこと、女の子をやりすごして行方を眼で追った。女の子は迷うことなくするすると歩いていき、え、まさかと思うわたしの眼を父が寝ているベッドに誘導した。彼女は他の患者のエリアには見向きもしなかった。

 医療機器に囲まれた父の枕元に立つと、そっと小さな顔を父のほうへ傾ける。わたしは厭な感じがして父の元へ戻りかけた。と、女の子が顔を上げ正面から目が合った。わたしはハッとして足を止めた。見覚えのある顔だ。母だ。わたしは母の面影をその子に見たのだ。

 その日以来、女の子はわたしと入れ違いに来ることもあれば、わたしが居る時に来ることもあり、わたしが来る前にすでに来ていることさえあった。空いていればイスに、イスが塞がっていればベッドの端にすわる。わたしは病院のスタッフにその子のことを尋ねてみた。しかし、みな首を傾げるばかりで曖昧な態度でお茶を濁すのだった。

「お母さんは。それとも、お父さんかな。どこなの。この病院?」

 女の子に直接問いかけてもみたが、はにかんで眼をそらし、父のほうにまたかがみ込む。そして、笑みを浮かべて父の顔を覗き込み、なにか語りかけている。昏睡中の父は口の端をゆがめ、口をもぐもぐさせて息をもらした。女の子に返事をしているようにも見えた。

「わかった わかった」

 そんなふうに聞き取れたような気がする。うわごとのたぐいだろう。もうその頃には父に意識はなく、かすかな吐息といびきが交互に聞こえるばかりだった。父は肺炎を併発して意識のない状態がつづいていた。

 しかし、諦めていた父の容体は悪いながらも安定し、ICUから一般病棟の六人部屋に移されることになった。そのころになっても女の子は父のところに現れた。ICUとちがって出入りが自由なせいか、より頻度が増してわたしが見舞うときには必ずその姿があった。

 わたしにはその女の子が尋常な者でないことはわかっていた。その姿が見えているということはわたしも尋常ではないのだ。たしかにわたしは尋常な状況ではない。内縁の妻が癇癪を起こして別れ話の最中だったし、仕事はライターからブローカーの片棒担ぎ、取り立て屋に変貌していた。住まいも追い出されて取り立て物件に間借りしている。そんなときに父が暴れていると連絡があったのだ。

 特養施設に駆けつけると、ほんとに父が暴れていた。

「はっちゃ! はっちゃ! はっちゃああああ!」

 母の名を呼び、腕を振り回して暴れている。拳がテーブルに当たって箸やカップが吹っ飛び、はずみで自身も車イスから落っこちた。あわてて助け起こすと、わたしに気づき、「母ちゃん探しに行こ」と言う。母は七年前に亡くなっている。この世にはいない。

「母ちゃん死んでるよ。七回忌も去年済ませただろ」

「行こ! 行こ! 行こおおお!」

 やっぱり父は尋常ではない。母が死んでるのをわかって言ってるのか、それとも忘却したのか。担当の職員によると、数日来こんな調子で、言い出すと止まらず、なだめようとすれば手足を振り回すという。ボケかな。でも暴力はまずい。ここは父の言うとおりにしてやろう。言い聞かせても依怙地になってよけいに暴れるのがオチだ。

「わかった。じゃ、行こか」

 わたしはその場で手続きして薬や着替えをまとめてリュックに押しこんだ。

「明日か明後日には連れて帰りますから」

 そう言い置いてわたしは曇天の空の下、父の車イスを押して施設を出た。

 母の遺骨がわたしの手許にあるので、骨をさわらせれば気がすむかなと安易に考えたのが間違いの元だった。ホテル泊の後、気散じにと落語の寄席に行ったとき父は倒れた。救急車で手近な病院へ運ばれ入院した。脳出血だった。三年前にもやっている。二度めだ。

 父は昏睡から覚めそうな気配はなかった。グースーピーと安らかな呼吸で、すくなくとも苦しそうではない。主治医によると抗生剤を何種類か組み合わせを変えて容量いっぱい処方しているが改善しないという。九十歳を越えているだから無理もない。免疫もろくに機能してないだろう。施設にはこまめに連絡を入れて病状を話してある。

 女の子は相変わらず父に寄り添っている。ある時、わたしが病室に入っていくと、彼女がベッドに上がって父に馬乗りになっていた。遊んでいるようには見えなかった。父の顔を下からちょっとのぞき込んだかと思うと、両手を父の脇あたりに置いてなにかをぐいぐい引いているような仕種を見せる。

「なにしてるの」

 そう問いかけると、困ったような顔をしながらまたぐいと引っぱる。わたしは手伝おうかと、両手を前に出して踏みとどまる。女の子の意図がはっきりしないので、どうしたらいいかわからない。とりあえず、女の子の背から手を回して父から引き剥がそうと思った。

「よいしょ、と。あ。わあ」

 手応えのなさに、あれと思った瞬間わたしは後ろ向きにぶっ倒れた。後頭部をぶつけたのか星が飛んでクラクラした。

「ひどいことするのね」

 口をきいた。腕を組んで頬をふくらませ、わたしを見下ろしている。父は変わらず安らかに寝息をたてている。わたしはつと立ち上がった。女の子がわたしを心配そうに見あげる。

「だいじょうぶ? じゃ、帰りましょ」

 え、帰るって。え? うろたえるわたしを尻目にさっさと病室の外へ出て行ってしまった。わたしは見えない糸に引かれるようにすいと、女の子の後を追う。見なれたはずの駅までの道が妙に心に深く染み込んで来る。横に並んだ女の子は紫外線の強い光をはね返すように、まっすぐ前を向いて歩いて行く。

 切符を買って駅舎に入ると、八角形の大きな木造の屋根が、垂木をむき出しに悠々と古色蒼然たる空間をつくっていた。おや、ここはと懐かしい気分に浸る間もなく、笛の音が響いてわたしと女の子は急いで電車に乗り込んだ。乗降扉にガチャリと鍵をかける。手動扉だって!電車は走り出し、いくつものカーブを曲がる。窓にばさばさと入ってくる枝葉をかき分けてまるで時間の奥底へ降りて行くようだ。

 女の子に促されてある駅で降りると、ひらけた野っ原に小規模な操車場と駅舎があった。駅前にはタクシー乗り場やパチンコ屋、うどん店、出来たばかりのスーパーがぽつんぽつんと並び、県道の交差点を渡るともうすぐそこがわたしたちの家だった。

「ただいま!」

 女の子が明るく大きな声でポーチを駆け、開けたままの玄関の引き戸を入って行く。わたしももちろん遠慮することなく戸口をまたぐ。わたしの家だ。更地にされる前の、わたしたちの家である。ポーチの横には埋められる前の防火用水池が濁った水を湛え、撤去される前の稲荷の祠と朱塗りの鮮やかな小さな鳥居が立っている。

 土間をぬけて井戸の手前で左に折れると庭だ。母がいる。縁側の靴脱ぎ石に足をおろし、日だまりに咲いている紅白の躑躅つつじを楽しげに眺めている。え? 母が居る。

 では、あの女の子は。だれだ。わたしは女の子は母だと思っていた。幼い子どもに還った母なのだと。でも、ちがった。

「わたし、あかねよ」

 女の子が台所で水を飲みながら笑う。母はわたしを見て首をかしげ、真顔になって「良くん?」と怪訝そうに問いかける。

「え? そうだよ。どうして」

 そう言いながら庭に出ようとするわたしを横眼に、母は台所のほうへ声をかけた。

「茜。あなた、まちがえたのね。だめじゃない」

「わかってる。でも、父さん、頑固に寝てるんだもん。起きないもん」

 わたしは庭に出て、ここも昔に戻ってると感動した。縁側には大きな笹の葉がせり出し、手水鉢ちょうずばちの水に南天の赤い実がこぼれる。縁側の先、便所の向こうに無花果いちじくの木が枝を張り、庭の奥の真ん中にはくすのきが堂々たる幹を構え、右手にはかえでが葉を茂らせていた。実家の昔の風景だ。

「あの木、ったんじゃなかったっけ。虫がつくとかで」

 振り返ると、母は花々から眼をあげてきょとんとする。

「いろいろ、たくさんあるのよ。伐採跡の焚き物小屋もあるし、新しいトイレもある。道具部屋も。お風呂や良くんの部屋もある。いまは茜がつかってるけど」

 風呂場やわたしの部屋は祖父がはるばる遠路を通って自力で作ったものだった。風呂場はブロックとセメントで塗り固めて作り、わたしの部屋は道具置き場を改築したものだ。そのどちらもが、まだあるって?

「じゃ、こんどは私が迎えに行ってくるわ。茜、お留守番よ」

 母は日傘を手に、土間から表の明るい光のなかへ出て行った。わたしは母がすわっていた縁側に腰をおろす。石や葉に囲まれた水たまりに陽がきらきらしていた。

「食べる?」

 茜が手にした皿の上で、カットした無花果の実が甘い匂いを立てた。手に取って口に運ぶと独特の触感とともに甘みが広がる。茜はとなりにすわる。彼女がだれか、わたしには思い当たることがあった。

「きみはひょっとしてわたしの」

「母さんのお腹から出なかったけど」

「そうか。妹なんだ」

 わたしが茜くらいのとき、いやもっと小さかったころ、母と路面電車の踏切を渡っているとき、わたしが母の足を引っかけて転ばせてしまったのだ。母は妊娠していて、このときの転倒のせいで流産した。母も父もわたしを責めなかったが、わたしはいまだにあれが故意だったのか単なる不注意だったのかわからない。以来、母が子を授かることはなかった。

「わたしのせいだ。すまない」

「ちがうでしょ。あやまって済むことなの?」

 茜は大人びた口を利く。でも違和感はない。わたしの腹に響いた。

「これは罰なのか」

「そんなはずないじゃない。ばかね」

 無花果の甘い香りがわたしたちのまわりを漂う。ますます光は庭に跳ねてまぶしいくらいだ。顔をあげたままわたしは言った。

「あのさ。父さんがさ、母さんを探すと言って聞かなかったんだ」

「それなのに、ずっと眠ったままなんてね」

 茜は笑った。わたしもつられて笑った。やがて母が父を連れて戻ってくるだろう。その前に茜と町をひと回りしてこようとわたしは思った。

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