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その朝。
目が覚めるまで。
俺はやっぱり半信半疑だった。
実はこれが全部、夢だったりして。
地下鉄のことも、まゆちゃんのことも。
何もかもが、現実じゃなくて。
俺の脳内で起こったことじゃないかって。
でも。
相変わらず空気読めねー携帯のアラーム。
不幸中の幸いは、珍しくマナーモードにしてたことだけど。
その時も。
まゆちゃんはちゃんと、俺の腕ん中にいて。
まだ、ぐっすりと眠ってた。
右腕にかかる彼女の重さと、温もりを抱き締め直して。
もう一度、目を閉じてみる。
初めてのキスのあと。
そのまま、第二段階に雪崩れ込んで。
何とか、オトナの卒検終えてから。
彼女の右手と俺の左手は、しっかりと繋がれて。
おはようのキスまで、離れることはなかった。
ベッド抜け出して、服着てからも。
頭は全然回らねー。
だから。
着替えを済ませたまゆちゃんが、埃だらけのカーテン開けたり。
もの珍しそうに俺の机を探索してるの見てても。
実感なんか、まるで湧いてこねー。
でもとりあえず、おふくろの買い置き引っ張り出して。
目玉焼き作って、トースト焼いて。
彼女がそれをテーブルに並べてくれるのを、ぼんやり眺めたりしてた。
「…何時に出るの?」まゆちゃんが訊く。「もう行く?」
「いや。夕方までに着けばいいかなと…」
「じゃあ、10時くらい?」
「うん」
何てーか。
俺、めっちゃ緊張して。
まゆちゃんがいろいろ話しかけてくれても。
何だかとんちんかんなことばかり言ってる気がするし。
向かい合って飯食ってても、味なんかまるで判んねー。
だって。
ああいうことのあとだし。
俺、初めてだったし。
こういう時、どんなカオしていいのかも。
ふつーにしてるべきなのかも。
何か、気の利いたこと言わなきゃいけないのかも。
全っ然判んねーの。
それでも。
何も話さなくても。
まゆちゃんがそこにいてくれるだけで、何だか満たされて。
ぎこちないながらも、何とか会話して。
そんな俺のこと。
彼女は最後まで、優しく見守っていてくれたような気がする。
「忘れ物とか、ない?」
「ないよ。持ってきたものないし」
「あ、だよね」バカか俺?「じゃ、そろそろ…」
「うん」
玄関先で、彼女が靴履いて。
細い足首んとこで、ベルトをかちんと止めるのを見て。
アパートの玄関に鍵かけて、狭い階段下りて。
それからまたあらためて、手を繋ぐ。
最初は滅茶苦茶緊張したけど。
さすがにちょっとだけ、慣れてきた。
「…まゆちゃん」
「うん?」
「何処か、寄りたいとことかある?」
「特にないけど。ちょっとだけ市内を回って貰えたら」
「りょーかい」
親父のスカイラインを駐車場から出して、彼女を助手席に乗せ。
北一条通を駅方面に向かう。
「運転、慣れてるね」まゆちゃんが言う。「いつも乗ってるの?」
「まさか。高校出てすぐ取ったから。初心者マーク取れたばっか」
まゆちゃん、沈黙。
だよね。
俺だって沈黙するさ。
「…シートベルト、締めておいてね」
「…は〜い」
@ @ @
初めてのドライブ。
彼女の右手は、俺の左手をそっと掴んでくるけど。
運転に目一杯神経注ぎ込んでる俺は、それどころじゃなくて。
でも。
ファクトリーやら、大通やら、すすきのやらを軽く流したあと。
大学前を通って、札幌北ICから高速に乗る。
実家のある旭川までは、結構往復したことあるけど。
その先は正直、未知の世界だった。
で。
走り出してから気が付いた。
CDか何か持ってくれば良かったって。
親父とおふくろは、演歌オンリーで。
入ってたのも、鳥羽一郎だとか氷川きよしとか。
あーあ。
俺ってほんと、気が利かねーわ。
とはいえ。
長い道中、俺とまゆちゃんは、結構いろんな話をした。
大学の話とか、マンガの話とか。
でも。
将来に通じる話は、お互い何となく避けてた。
そりゃそうだ。
認めたくねーけど。
考えたくねーけど。
まゆちゃんはもう、死んでるんだから。
未来の話なんか、聞きたくもないだろーし。
俺も、言うべきじゃないと思ってた。
やってみれば判るけど。
それはめっちゃしんどいことで。
めっちゃ辛いことだった。
だってね。
どんだけ好きでも、まゆちゃんと俺は結婚出来ねーし。
どんだけ一緒にいたくても、彼女は向こうに帰るべき人で。
俺はイヤでも身を引かなくちゃなんねー。
初めて本気で好きになった子でも。
諦めなきゃなんねーの。
予定通り、比布で高速降りて。
それからは、国道をひたすら北上する。
北見市に来るのは、生まれて初めてで。
途中から、まゆちゃんがナビしてくれる。
通ってた高校だとか、生まれた病院だとか。
そんなのを一緒に眺めながら。
俺はじわじわと現実を受け入れる。
覚悟してたことだけど。
やっぱりこうするしかないんだって。
市内の外れにある住宅街。
彼女の家の前に車を停めた時。
俺はつい、溜め息ついちまう。
でも。
繋いだ手を離すのが、何だか辛くて。
どうしても出来なくて。
気付いてか。
シートベルトを外してから、まゆちゃんは俺を抱き寄せて。
何度も、繰り返しキスをする。
ありがとうって。
大好きだよって。
そんな言葉の合間に。
そうこうしてるうちに。
突然、ドアが開いたもんだから。
俺、慌てて体を離したけど。
中から出てきたのは、彼女のお母さんらしき人。
「あら?」
ジョウロ片手に、こっち見てる。
うわ。
やべー。
とりあえず、頭下げてみる。
そしたら。
お母さん、ふつーにこっち来て。
ふつーに助手席覗きこんで。
それから、にっこり笑った。
「お帰り、まゆ」
「ただいま、おかーさん」
「送って戴いたの?」
「うん」彼女、俺を紹介してくれる。「同じ大学のヒロくん」
「あ、どーもです」俺、もういっぱいいっぱい。「まゆちゃんにはいつもお世話に…」
「遠いところすみません。上がってらしたら?」
「いや。俺、バイトあるんで…」
「忙しいみたいだから」彼女は、ふつーにそんなこと言う。「今日はここでいいって」
生きてるヒトと話してるみたいに。
お母さんは、ドア開けて。
まゆちゃんも、ふつーに車から降りて。
玄関へ向かって歩いていく。
俺も一応、外へ出たけれど。
家の中からは、お父さんも出て来て。
それから、ジャージ姿のお兄さんも。
ごくふつーに、彼女を迎え入れる。
「まゆ、お帰り」と、お父さん。「疲れただろう?」
「何だよ、遅かったじゃねーか?」と、お兄さん。「皆、心配してたんだぞ?」
「うん。ごめんね」と、彼女。「いろいろあって」
「お夕飯、支度出来てるから」と、お母さん。「手伝って頂戴ね」
家族に囲まれて、家の中へ入っていくまゆちゃん。
その背中を見詰めてる俺。
ドアが閉まる直前、彼女は一度だけ振り返って。
にっこりして、頭を下げた。
俺は、一瞬躊躇したけど。
それから片手上げて、ちょっとだけ手を振った。
そんな風に。
彼女の姿が、ドアの向こうへ消えたあと。
久し振りに。
ほんと、久し振りに。
俺は、一人ぼっちになった。
これまでと同じように。