つむぎ歌
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あ、つぶらやくん、服の袖ほつれてない? ほら、びよーんと。はさみ持ってるから切っちゃうね。
でも不思議だと思わない? こーんな細い糸も、しっかりつむげば、僕たちの身体を覆い、着飾る衣服となる。仕組みを知らない人からすれば、ほとんど魔法のような技術だろう。にわかには信じられないんじゃないかな。
それを言い出すと、僕たちの身体も同じだ。こいつを行きつくところまで細かく分解していけば、やがては原子にまで姿を変える。
地球数周分の長さを持つ血管も、1000億をゆうにこえるという神経細胞もそうだ。肉眼で見られないから実感わかないけどさ。僕たちも緻密なパーツたちが集まって生まれた、「命の作品」に他ならないんだよね。体調が整っているときには、気にもとめないだろうけど。
このほころびもね。いまの服のほつれと同じ、思わぬ拍子にかいま見られることもある。僕自身がそう感じた不思議な体験、聞いてみないかい?
ことは、だいぶ前。僕が実家で暮らしていた時期になる。
当時、僕は不摂生がたたったのか、さかむけがよくできる体質だった。さかむけが親不孝と呼ばれる根拠のひとつが、親のいいつけを守らない、不健康な生活を送ると発生しやすいところから、きているらしい。
さかむけの経験あるなら分かると思うんだけど、こいつがちょっとした拍子で、じくじく痛む。むけた皮がどこかしらに引っかかったっただけで、つい顔をしかめたくなるくらいにさ。
そのうっとおしさが、僕を踏み切らせた。重力に逆らって空へ向かって立つ皮の一片をつまみ、思い切り引きはがしたんだ。
ほんの指先の皮とは思えない、強い痛み。そして出血。
僕はすぐさまばんそうこうを貼り、血と痛みが収まっていくのを待った。巻いてすぐはばんそうこうのガーゼ部分へ、あっという間に血が広がったものの、いまはすっかり落ち着いている。
「頃合いかな」と僕はばんそうこうの合わせ目をはがす。
強く圧迫され、赤みがさす指の先が少しずつ露わになる。やがて血のにじむさかむけ痕が見えて来る。はがれた部分の皮は、その下の肉に無理やり押し付けられ、赤黒い汚れとくっつきあいながら、固まっていた。
でも、完全にばんそうこうをはがし終える直前。
――ラーラー、ララララ、ラーララー……。
女の人の歌声が聞こえてくる。
ときどきいるんだ。テンションが上がっているのか、鼻歌とか歌いつつ、家の前を横切っていく輩が。しかもこの声の近さからして、二階にある僕の部屋のすぐそばを通っている。
声がした方の窓を開けてのぞき込むと、真下の道路を長い黒髪を揺らしながら、横切っていく女の人がいる。口も開きっぱなしだし、この人の声だろう。
「もの好きな人もいるなあ」と窓を締め直し、僕はまたばんそうこうをはがしにかかった。
間違いだった。
完全にばんそうこうを引きはがしたと思うや、あのさかむけをむいた時の強い痛みが襲ってきたんだ。
見るとばんそうこうの端に、柔らかい皮膚の一部がくっついている。それがピーラーをかけたように長い糸を引いて、痛みとともに僕の身体からはがれたんだ。
いや、「ひもとかれた」といった方がいいかもしれない。
なぜなら剥がれた皮の下には、本来あるべき肉の姿がなかったからだ。
空っぽだったんだ。その部分は完全に消え去ってしまい、本来なら見えることがない指の先にあるべき、床や机の姿をさらしている。
けれども、それより根もとに近い部分はもちろんのこと、「消えている」先にあるわずかな爪先も残っていた。まるきり宙に浮かんだような状態にもかかわらず、僕自身には先ほどまでと同じ、指が一本につながっている感覚がある。
慌ててばんそうこうを巻き直す。自然、一緒に剥がれていた皮も――本当に皮かどうか、怪しいけれど――巻き直す形に。
あれほど細い糸の、どこからこんな太さや弾力が生まれるのか。ばんそうこうが巻かれた部分は、元通りのかっこうに戻っていたんだ。
おそるおそる、ばんそうこう越しにもんでみたけれど、そこにあるのはいつもの指の感覚。とてもばんそうこうをはがしたくらいで、「ほつれてしまう」ような状態とは思えなかった。
それからというもの、僕の指にはさかむけが目立つようになる。
いままでの僕なら、遠慮なく皮を剥いていただろうけど、あの日のことを思うと、無理に力を入れられない。僕の皮もろとも、指の姿まで一緒に引きはがされてしまいそうだからだ。
あっという間に、僕の両手の指はばんそうこうだらけになる。友達の何人かには少しだけ不思議がられたものの、まだまだささいなこと。それより数段やっかいなことがある。
あの歌を歌っている女性だ。彼女は僕が登下校する途上にも姿を見せ、あの歌声を響かせていくんだ。
道行く人は怪訝そうな顔で、彼女を一瞬だけ見やっては、すぐ向き直って先を急ぐ。僕はというと、じっと彼女の動きを見張っていたよ。
彼女が歌うのを聞いていると、さかむけした部分がふるふるとうずくんだ。試しにばんそうこうを巻いたところへ触れると、ふにゃりと指の内側へ沈んでしまう。
間違いなく、家の中で見たのと同じ状態になっている。とてもばんそうこうをはがす気になれなかったよ。
それどころか、さかむけしていない足の先なんかも、同じような感覚に襲われる感覚があってさ。僕は彼女を見つけるたび、できる限り距離を取るよう心掛けたよ。それでも、僕の身体がほつれを感じる場所は、どんどん広がっていったんだ。
数週間も経つと、僕は夏場にもかかわらず長袖長ズボンのいで立ちを、外すことができなくなっていた。
ほつれる箇所を、隠すのが難儀になってくる。手足にとどまらず、首の下のあらゆる箇所へ唐突に現れるほつれは、つい昨晩は腹の中心部に姿を見せた。
大穴が空いているにもかかわらず、やはり痛みを感じない。自分の腕が穴の中を出入りしても、だ。湯船に浸かったりシャワーを浴びたりする勇気は湧かなかったよ。
このまま続いたら、絶対にやばいことになる。
そう感じながらも、彼女を避ける程度しか対策をとれない僕だが、この頃には彼女への疑念が少し薄れだしている。
てっきり僕は、彼女の歌を聞くことで、このほつれが促されると思っていた。だが彼女の歌が聞こえない時でも、身体のほつれが何度か起こったんだ。
特に両足のすねをすっかり消されたときは、完全に感覚が失せて倒れてしまった。家の中だったから良かったものの、外で同じ目にあっていたら大惨事だったろう。
――一度、思い切ってあの女性と接触してみる。
そう考えた僕は、家の留守番を頼まれた休日。あえて家に鍵をかけて、外へ出かけようとしたんだ。
できなかった。玄関に背を向けたとたん、あの足の無感覚が襲い掛かってきたんだ。
支えを失い、うつ伏せに倒れ込む僕。確かに目の前の地面に叩きつけられたのに、その痛みも衝撃もまったくない。
それどころか、紡がれていた身体が、その衝突でいっきにほどけた。地面に触れた先から皮も肉も骨も、その存在を失っていく。大きな水のあぶくに体当たりを仕掛けたかのようだ。触れた端から、僕の着衣のすき間より、何本もの細い糸が飛び出す。
数えきることはできないほどの多さ。そして細かさ。それとともに、普段寝そべるときよりも、更に低くなっていく視点と、沈んでいく身体。
僕の身体は、完全にほどけて、つながりを失おうとしていたんだ。
――ラーラー、ララララ、ラーララー……。
彼女の歌声が聞こえる。
それも遠くから近づいてきたんじゃない。いつの間にか僕のそばに現れ、大声を響かせてきたんだ。
するとどうだ。散り始めていた糸たちがブルブル震えたかと思うと、はい出たはずの服の中へ戻っていく。僕の目線もどんどん高く、元に戻り始めている。
身体がまた紡がれ始めたんだ。歌いながら、彼女はすっと僕の上へかがみ込んでくる。
「ちょっと縛っちゃうね」
そういって彼女は、その手を僕の背中へ差し入れてきた。まだ紡ぎ直されない、穴だらけの背中に。
肺に近い部分が、ぎゅっと締めつけられる。とたん、ゆったり戻っていたはずの糸が、一気に僕の身体へ戻ってくる感触があった。
すっと彼女は手を離し、まだ起き上がれない僕を置いて、悠然と家を離れていく。もうその口からは、あの歌声が漏れることはなかった。
僕の「ほつれる」現象についても、そこからはもう起きることはなかったよ。
ただ僕の背中にはいまでも、こぶし大の大きな傷が残っている。一度穿った穴へ、渦を巻きながら皮と肉が流れ込んで埋めたような、奇妙な形のね。