死は救い
人が生きることが罪あるいは罰ならば死は贖罪あるいは救いなのだ。
何故生きるのが罪なのかそれは生きることはほかの生き物を喰らい他の生物の命を奪い貪るからたとえ食事の前にいただきますと生物に感謝を述べようともそれは死したものには届かない、だからと言ってそれが悪いということではないが。
何故生きることが罰なのか、それは人が人との営みをする時の苦痛、人と接する時の我慢、人と接し人に嘘をつかれ悪意に晒される、その時に人に程度はあれどそれに嫌悪をするだろう、嫌な気持ちになるだろう、それは人として生きる罪に対しての罰であり対価でもある、人として生きるという幸福は罪と罰が重なってこそ享受できるものなのである、生きている時喜びを感じるだろう、だがそれは罪と罰があってこそのものなのである人間としての幸福は罪と罰を対価として出来ているものなのである。
では何故死は贖罪なのか、人は罪と同時に罰を受けるしかしそれは極少量の罰なのである、他の生物の命を奪うことは償おうとも償えない物なのである、だからこそこれ以上命を奪わないように死ぬことこれこそが今まで奪ってきた命に対してのこれから生を謳歌する生き物に対しての償いなのである。
ではなぜ救いなのかそれは人として生きるということは疲れる悪意にさらされ、それに反発する、例え幸せなことがあろうとそれは罪と罰の対価でありどれだけ幸せであろうともそれは罪と罰と同じ量の幸福でありそれ以上には至れない、だが死とはその苦しみから解放されることであり罪と罰と幸福のスパイラルからの解放である、死んだその時此の世のしがらみが全てほどけ崩れていく時なのである。
これらの事から、人は生物とは罪と罰を背負って生きるものなのである、人として生きるとは生物として生きるとは、他とのしがらみを持ち、それに害され、それを害していく、そんな憐れで醜い存在なのである。
もしこれに輪廻転成という考えを組み込み生物は作られたものだと考えれば、生物とは罪と罰それとほんの少しの幸福で作られた存在であり、永遠と罪と罰が課せられし運命にある存在なのだろうどうしてこう作られたかは考えられないが、これだけは分かる人は生物は罪と罰があってこその存在だということだ。
人は全人咎人であり罪人でもあり不完全な生き物である
死は救い.........だが死ぬ事が終わりなのではない。