可能性
庭から猫の鳴き声が聞こえてきた。
「なぁーん」
「ほら、アンコの真似をしてね」
「なん、なーん」
「上手上手」
「なぁん」
「なぁん」
庭に娘の千花と、飼い猫のアンコと、アンコにそっくりな黒猫がいた。
「なにしてるんだ」
「アンコが野良猫さんに鳴き方を教えてあげてるんだよ」
「なぁん」
「なぁん、なぁん」
鳴き方か。猫ってそういうことをするんだったか。しかしずいぶんとアンコに瓜二つな野良猫だ。アンコは野良猫だったし、もしや兄弟姉妹なんだろうか。
「ほら、これが猫が食べるご飯だよ。猫は生きるためにこれを食べるんだよ」
そして千花は野良猫にカリカリと猫用おやつを差し出した。睨み付けてくる顔のアンコにも、おやつを差し出す。
「なぁん」
「それを食べたらおいしそうにするんだよ」
「なぁーん」
「そうだよ。猫ってそういうものなんだよ」
……まるで会話しているみたいだ。娘はいわゆる不思議系だから、見慣れた光景ではある。
「なん」
「そう? じゃあね。さっき教えた通りにしてね」
野良猫はすたっと塀の上にかけあがると、さっさと移動していった。
数日後のことである。
「雨で濡れたこの子が家に入り込んで来ててねえ。野良みたいだし飼っちゃうことにしちゃった。
三島さんとこのアンコちゃんにそっくりよねえ。もしかしたら血が繋がってるのかしら」
あの猫は、近所に住む金持ちが拾ったらしい。珈琲と名付けたそうだ。
その金持ちは税金対策を兼ねた趣味で喫茶店をやっているが、そこの看板猫としたら大人しく美しく賢い猫としてあっという間に人気になったようだ。
それを、千花に伝えた。
「だろうね」
そう、一言だけ言っていた。
*****
あの子は猫じゃない。
"可能性"だ。"可能性"は産まれた頃は不定形な霧であり、知性あるものの思考を読み取ってその通りに成長する。
例えば"可能性"の近くに熊を恐れる人がいたら、"可能性"は熊となり、その人が恐れるような強くて大きくて人を襲う熊となる。
逆に花を愛する人の近くにいたら、その人が理想としている美しい花となるだろう。
お化けの思考を読み取ったら……どうなるんだろうか。
どんな事態にもなり得るし、良くない思考を読み取って成長されたらどうなるかわからないから、さっさとアンコを見本とした"猫"にしたのだ。
そして雨の日に濡れた姿で近所の金持ちの家に行くように言った。あそこのおばさんは人が良いし、一軒家に住んでいるし、動物好きだ。予想通りにそこの"飼い猫"になって、いまやみんなから愛される猫だ。
だからきっと、一生"猫"だろう。みんながあの子を猫と思っている限り猫として生きていくのだ。
「あ……」
庭でアンコと遊んでいると、"可能性"……もとい、珈琲がやってきた。
「なぁん」
猫の声。いや、猫の声の真似。
私とアンコは知っている。この子は猫ではなく、形のない、どうにでもなる可能性を秘めたお化け。
とろ、と珈琲のしっぽの輪郭が溶けたように揺らいだ。
「なぁん!」
アンコが珈琲を猫パンチした。珈琲はびっくりして変形を止める。
「だめだよ……あなたは"猫"だよ」
「なぁーん」
了解の意味であろう猫の鳴き真似をして、珈琲は秋風と共に去っていった。




