戻る道
あくる朝、自分たちはすぐに発つ。決意の朝は早い。昨日の無駄にしかけた味噌の残りをみそ汁にして飲み干したので、皆の舌は外に放りっぱなしである。
早朝の冷たい風が、ピリピリとヒリついたそれを冷ましてくれる。
意気揚々と出たはいいものの、高速道路の道がすっと伸び続けているのを見ると、うわぁとしか声が出ない。本当に、これを一歩ずつ潰して行かなければならないのかと――――。
遠く先のぼやける標識に、月見里が馬を走らせる光景が映った。
あいつのことだから、軽やかに進んでいっていることだろう。
『あれ』も居ず、雲一つなく、車一台もなく、何かの軍用の一両も、何の痕跡もない。つらつらと道が引いてあるだけで、空虚で途方にも思える。
バイクがあればこんなところスイスイ行けてしまうのに。そんな空想さえ垂れ流されるほど、平々凡々としていた。
そんなことを馬に聞かせてしまっては、失礼である。当の馬は黙々と進んでいってくれているというのに。
だから、ただただ、景色が微妙に変わっていく様を見て、進んでいるんだなという実感を自分に持たせるだけだった。決意をしたけれど、劇的に何かが変わるわけではない。
月見里と共にいるときは、景色をぼうっと見て頭を殺していたが、ヤドヴィガは次々と世間的な話を飛ばしていく。結構なおしゃべり好きであったようだ。
自分もそれに応じていた。つまらないというのもあったが、目が覚めてからどうしてか自分の口が軽やかだったからである。
朝も昼も夜も。飯を食っているときも寝ているときも付き合った。決意をしたはいいけれど、なんともまたおかしな日常感が流れている。
それでも、ヤドヴィガと話すのは楽しかった。東台と話しているときを思い出したが、それとは違うような気がした。どうしてだろうかと思ったが――――今はそんなことを考えている暇はない。
しかしながら、ヤドヴィガとのお喋り自体は途切れることはない。喋らなければどうしようもないくらいに喋っていた。
2日、3日、数日。
共に過ごしていると世間話のようなものから、ちょっとしたプライベートな話さえ口にするようになった。
それが最も深い話になったのは、ある低い曇天の時に不機嫌そうにヤドヴィガはぼやいた時だった。
「ああ……本当に。くそ、こんなに空いているんだったら、逃げるときに高速道路を使うべきだったな」
「ヤドヴィガたちはどうやってあそこまで逃げてきたんだ?」
「ん?話すと長いぞ……。そうだな――――派遣先の横浜で『あれ』に壊滅状態になった我々は、トラックだとか軍用車だとか戦車だとかとにかく動かせるものをかき集めて――――。人と物資を乗せるだけ乗せて、街を出たらそのまま、えっと、高速道路以外の……あっ、下道だ。下道をずっと走っていた。下道って行っても大きな通りは使えないから、山の間に挟まっているような細い道しか使えなかった」
本当に長そうな話だ。ヤドヴィガさえ、出だしで詰まりそうになっていたが、だんだんと舌が回ってきたのか一息つく暇もなく話していた。相当溜まっているものがあったのだろう。
「あの時はな、『あれ』がずっと追ってきていた。引き金から指が離れることはなかったし、硝煙の匂いがずっと鼻から消えなかったよ。ようやく周りを見れるようになったのは、街が遠くに浮かび上がってからだった。昨日まで綺麗に発っていたビルが軒並み壊れて燃え盛っていた。それなのに、真っ暗闇になっていたのを今でも覚えている。皆……死んでしまったのをそこで分からされた」
薄く笑うヤドヴィガ。もはや、怒りにも似た笑みだった。
「毎日毎日、無線を飛ばしてたんだ。横須賀の基地とか、本部とか、東京の防衛庁だとか、本国だとか―――挙句の果てには、なんだっけどことも分からないラジオにも飛ばしてたよ。全くつながらない。いまだに掛けてるんだけど、どこにも繋がらない。人類最後の人間なんだろうな。私たちは」
でも、君たち2人増えたからもっとにぎやかになった!とヤドヴィガは軽口を挟む。遊園地の人々のことを口にしようと思ったが、辞めた。死人に口はない。
「……だからかな、皆荒れたんだ。箸が転がるだけで誰かが暴言を吐いてしまう、そのまま乱闘になったこともあった。子供もいるのにな。民間人を殴ろうとするやつが出なかったのが救いだった。その度に、仲裁に入ったりしてな――――。あの時、ザポロージャンは地図ばっか見やがってさ。いや、それも大事な仕事なんだけど。そのおかげで、前に進むことは出来たのも、ザポロージャンだったからこそだったんだけど……」
ヤドヴィガはため息をつく。決して冷たいものではないので、いろいろとあるのだろうなと思う。
「ダメだな、話が逸れてしまった――――。それから、車にも人間にもばんそうこうを貼りつけて、ずっとどことも付かぬ前に進んでいた。そうすると、いつの間にか私たちは霧の中にいたんだ。山道だったから霧なんて珍しいものじゃなかったけど、その日の霧は特に濃くてな。自分の足下さえ見えなかった。食糧も燃料もあまり残っていない。止まれるほどの余裕がなかった私たちは、前に進むしかなかった。異様に静かでな、皆咳さえしない。聞こえるのはせいぜい、軍用車の排気音ぐらいだった。視界も潰されていたから、私たち軍人はずっと銃の引き金から指を離せなかったよ。不幸中の幸せだったのか、『あれ』が現れることはなかったよ」
霧と聞いて、どうしてか既視感を覚えた。どうしてだろうか――――。そんなことを気にする間もなく、ヤドヴィガは話を続ける。
「傍から見たら、私たちはどう見えていたのだろうな。進んでいるのか後退しているのか、はたまた登っているのか降りているのか、地面を踏んでいるのかさえ分からない。それでも、そこに何かあるようにずっと進み続けていた。そしたら、霧が晴れた。まあ、当たり前なんだけどな。でも、目の前は高原あって、牧場があったんだ。何が何だか分からなくてな、牛が鳴くまでずっと正気を取り戻せなかったよ。そこでな、何事かと駆けつけてきた牧場の人が来てな、私たちが軍人であることを知るとそれはすごい喜んでたよ」
「命からがら逃げだした敗残兵と分かったら、すぐにがっかりされたけどな」と笑うヤドヴィガ。自虐っぽいと思ったが、なかなかに楽しそうに笑う。
自虐ネタというのは誰かに聞かされたのが始めてだった自分は、愛想笑いをしてみる。
「それで、私は高原に一緒に住まわせてもらうことなったんだ」
「いろいろと大変だったんだな」
「まあな。いや、でも、あの時は嬉しかったんだぞ。私たちがまだ最後の人類じゃないことが分かったんだから。その後が、一番骨が曲がったな。避難民と地元民だろ?トラブルにならない方がおかしい。いろいろ喧嘩もしたけど、その度にザポロージャンと私が仲裁――――いや、特に私が仲裁に入ってな。ああ、今思い出しても胃がキリキリする……。 まあ、とにかく!しばらく、ギャーギャーお互いに騒いだ後、ザポロージャンと谷澤さん――――すまない、地元のリーダーの人が話し合って、平和な今になったんだ」
自分はすごいなと思った。まさしく、いつかの物語で見た主人公そのものだ。彼女はどんな表情をしているのかと顔をあげたが、夕暮れ時であまり見えなかった。
「え?もう夕方?結構、話してしまったな。あー、もう少し行ったら今日は終わろうか。すまないな、君といると時間があっという間だな」
「あっ、ああ、ありがとう」
変な気分だ。
その日の夜はずうっと続く高速道路の点線の上で眠った。2人で軍用食を食って、慣れた味のゲップをして寝袋に包まる。
それが今までの一日の終わり方だったのだが、最近はテントから顔を出して、星空を見るのが日課になっていた。
ヤドヴィガも一緒になってひょっこりと頭を出していたが、疲れてしまっているのですぐ眠りに落ちる。
なんでいつも見ているのだろう、自分は。今日も相変わらず星がずっとずっと川みたいになって流れて行っている。
そういえば、月見里と一緒に星を見たことがあった。あれがこの星座であれがどの星座だったのかみたいなことを言いあっていた。合っているかどうか全く分からなかったけれど、楽しかったことは心に残っている。
でも、今日もあの星座は見つからなかった。
「ああ、クソ……」
今日もまたぼやいて眠りに落ちる。
星と同じように、日常もあまり変わらない。周りの景色が少し変わるだけで、道はまだ続く。標識に書いている文字は変わるけれどもそれがどこなのかが全く分からない。
ヤドヴィガによると、あの富士山の近くまで来ているそうである。ぼんやりと浮かぶ台形の山。あの縁起の悪いやつである。
あまり実感がわかない。ひときわ大きいせいで、距離感がバグっているせいだろうか。
本当にもどかしい。
それでも、そわそわとしないのはヤドヴィガとずっと喋っているからだ。月見里はヤドヴィガと仲が良かったのだろうか。いや、少し煙たがるかもしれない。
月見里の話も出てくるが、ずっとこちらの傍にいたと何度も変わらず言われると腹正しさよりも複雑な感情が腹をぐるぐる回ってしまう。
早く会いたい。会うまでに少しぐらいの暴言は残っているだろう――――。
※ ※ ※
「ついに富士山の前まで来てしまったか……」
ヤドヴィガが地図を見ながら、重々しく独り言ちる。でも、最近は天候が悪くて、富士山の姿は見えない。
何日か、また過ぎてしまった。
もはや、高速道路を歩いていくことに慣れた自分たちは夕暮れになった後も馬から降りて歩いていたが、月見里の痕跡しか見つからない。
「すっかり暗くなったな。残念だが、このサービスエリアで休もう」
また見つからなかった。
今日、何回目かのサービスエリアを見つけて、そこで休むことになった。
「まあ、また明日早く出よう。今日は天候が悪くて見えなかったけど、富士山の絶景が見れるところだからな。楽しみにしとこう」
がっくりと肩を落とす自分に、ヤドヴィガは気まずく励ましてくれる。気を使ってくれる彼女に、申し訳なさを覚える毎日である。
何の変哲もないサービスエリアより、少しおしゃれな外観で広めな場所である。だからなのか、ここにも撤去されなかった自販機がいくつも並べられていた。
そこに缶詰の山が作られていた。
飛ぶように、サービスエリアの外に出た。
「月見里――――!」
しかし、見えるのはいつもの高速道路。少しの先も真っ黒に潰れた高速道路しかなかった。
そんなこと当たり前だろうに。もし居たら、入る前に気付いているだろうに。
不意に肩を掴まれそうになっていた。背丈が足りなくて、ちょうど背中の下あたりを掴まれていた。ヤドヴィガだった。
「戻ろう。また進められる。明日はもっと距離を稼ごう」
「ああ……そうだな」
自分はヤドヴィガに手を引かれて、ゆっくりと戻った。少なくとも月見里はここまで進んでいることは分かったのだ。日にちを過ぎているせいか、冷静さだけはあった。
サービスエリアに戻り、自分とヤドヴィガは缶詰を貰って食べた。食べ終わった後も、鮭の味噌煮の味が妙に口の中に残っていた。歯を磨いた後も、寝袋に包まった後も、口の中から無くならなかった。
あくる朝。朝にもなり切らぬうちに出発した。
初めは薄暗く何も見えなかったが、朝日が浮かび上がってくると赤く景色が透き通る。まだまだ日常は終わらないことを思い知らされる。
しかし、滲んでいた景色がはっきりとしてくると、あの台形の山が幕を開けるように目の前へありありと映し出された。
「おっ、見ろ。富士山だぞ。やっぱりデカいなあ」
ヤドヴィガが遠い目をしてそう言った。
ああ、これが富士山というのか。どうやら、自分たちは月見里よりも先に富士山を見つけたらしい。もう夏も始まりそうな季節なのに、白雪に半分覆われている。
あの山の壁よりも大きな山を初めて見た。いや、人生で一番大きい山だ。あれぐらい大きければ星座の一つぐらい捕まえているかもしれない。
ぼんやりとしたものが弾けて見たそれは、圧倒されるほどに美しいというのにどこか懐かしさがあった。
「銭湯の絵って、これだったのか」
時折通っていたあの銭湯の絵。あんなに赤々とした山があるわけないだろうと思ったが、朝焼けを浴びるそれはまさしく赤かった。記憶の片隅でしか見れないと思っていたものが目の前にあった。
「どうだ?綺麗だろ」
「ああ、綺麗だ」
月見里もきっとこれを見てしまっているのだろう。それは、まだまだ続く道の先に何もないことが物語っていた。
「きっと、月見里も見たんだろう……」
「あいつは喜んでたろうかな」
ふと、独り言ちると、ヤドヴィガがそう返してきた。どうだろう。
「デカい山だなと一目するだけで、さっさと移動しているような気がする」
きっと、無関心ではないけれど、どかりと座り込んで眺めるような子ではない。コスパの良い子である。
「あー、そりゃ、追いつかないわけだ。ああ……もうちょっと早く出ていれば――――」
ヤドヴィガが複雑そうな表情を浮かべて笑う。
「ここを越えれば、ヨコハマになるのか?」
「そうだ。まだ距離はあるがな」
ヤドヴィガはそういうけれど、重々しい声色にこれはきっとヨコハマまで行ってしまうのだろうなと思った。
期待はしていなかったけれど、現実味を帯びてくると身が強張ってくる。だから、自分はヨコハマの様子をあまり聞きたくなかったのだろう。
どうしようもない人間である。ヤドヴィガもあまりヨコハマについて話そうとはしなかった。ただただ、駐屯していた場所というだけらしい。
沈黙のまま、朝焼けが終わり。青々しい空が始まる。
ずうっと奥には、慣れ親しんだ山はない。ありありとずっと続く空。
ヤドヴィガが口を開いた。
「民間人」
「なんだ?」
「――――冗談じゃなく横浜に入ることになったら、必ず指示には従ってくれ」
ヤドヴィガはそう言って、軍服を厳かに正す。いつにも増して真剣な声色だった。
「わかった」
自分だって何度も街に入り物資を調達してきたベテランである。ただ、それを口にしようとして止めた。
僅かばかりに震えるヤドヴィガの背中。隠そうとピンと背を伸ばしているけれど、目の前にいるこちらには隠せてはいなかった。結構な時間、一緒に過ごしてしまったせいで。
「よしっ!さっさと月見里を捕まえに行こう!」
しかし、こちらを振り向いたヤドヴィガはいつもの自信満々な彼女に戻っていた。