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世紀末でも屑はクズ  作者: パクス・ハシビローナ
じぱんぐおぶあす
84/93

黄金の国

 ――。


 長い、長い夢を見ていたような気がする。思い出そうとすればパッと忘れているのに、頭の底にそれが堆積しているような感覚に目が覚めた。

 

 「なんだ、あの天井……?」


 直前に見たはずのダムはなく、ぼやけたクリーム色の天井が目の前にあった。どうしてか保健室を思い出してしまう。

 薄っすらとしたアルコールの匂い、ピコピコと小気味いい電子音が頭上から聞こえてきていた。ここは病院なのだろうか。


 「あっ――っ!」


 鈍く重い頭の痛みを抱え、周りを見てみると、こじんまりとした個室。年季の入ったベッドに、花瓶で所せましとなった小さな机に、2人分のパイプ椅子。


 どちらかというと療養所みたいなところなのだろうか、テレビの代わりに窓がある。どこまでも果てしなく続く草原と丘陵。ダムを思いつけるような景色はそこにない。


 「一体、どこなんだ?ここ?」


 目が全く見当もつかず、まだ夢を見ているような気分だ。ベッドから降りると、水の底を歩いているかのように体がだるくて重い。一体、どれくらい寝ていたというのだろう。

 辺りを見回すと、出口らしきドアがあった。


 部屋を出る。


「えっ?」


「あっ?」


 ドアを開けると、あんぐりと口を開けた医者がいた。自分も口が開いていた。


 少しの間が空いて、気まずくなった自分はただただ会釈して、彼もずれた眼鏡をクイッとさせて会釈。

 お化けでも見たように、口を震わせ彼は言う。


「お、い、生きてらしたんですね……」


 そう言われても自分は訳も分からず、また会釈した。


 ※ ※ ※


 そうして、どうしてか、彼はこちらを診察してきた。触診されたり、聴診器をあてられたり、目に光を浴びせられたり、少なくとも医者らしい何かをされている。

 極めつけに、素人目には何だこれはというしかない機械を体に取り付けられ、医者は医者で素人目には何ともいえない顔をして何かのクネクネした線を見ていた。


 自分は彼に何か言うべきだろうかと思ったが、久々に見た若そうな医者がツヤツヤした白衣を着て何かしている様に自分も困惑じみた興奮があってただただ彼の言うことに従っていた。そもそも、この人誰だろう。


 訳も分からずぼうっとしていると握手をされた。おめでとうございます一日で目覚めたかのような健康ぶりですねと言われているので、どうやら診察が終わったらしい。ひとまず、会釈をしておいた。


 それから、彼は何かを思い出したかのように受話器らしきものを片手に部屋から出ていって、どこかに電話をかけているようだった。


 それで戻ってくると、開口一番。

 

「いやあ、申し訳ない患者さん。小さい子の急患が入っちゃいましてね。後のことはヤドヴィガさんっていう司令官の子に引き継ぐんで待っていてください」


 そして、かなり焦ったような様子で外に出て、走馬燈の足音が聞こえて遠くに行った。


 気になってしまい自分も外に出ると。だだっ広い草原。そして、とんがった木の森。ダムどころか湖一つない。山だけが茫々とずっと先で伸びている。彼の姿はもうない。


 それがどうしてか落ち着いた。いや、頭が空っぽになったと言った方がいいだろう。困惑しすぎて、一体何を考えたらいいのだろう。まだ夢を見ているんじゃないだろう。

 


「ああ――月見里……」


 あやふやになった口から、ふいに言葉がこぼれた。月見里、月見里は無事なのか。


 すぐにでも飛び出したい気分になったが、医者の待っててくれという言葉を思い出し自分は待つことにした。

 頭がぐちゃぐちゃで何をしたらいいのか分からなかったのもあるが、どうしてか彼が信用が出来るような気がした。あんな若々しい人を見たのは久しぶりだったから、興奮でそう思わされているのかもしれない。


確か、司令官の人が来ると言っていたはずだ。一体何の司令官なのだろうか。分からないが、それぐらいの身分なら月見里のことも分かるはずだ。分かっていてほしい。


 一ぐるぐるとした頭を抱えながら病室に戻りベッドに腰かけると、手作りのカレンダーがあった。20××年の8月。一体どれくらいたっているのだろうか。



 しばらくすると、また走馬灯の音が外から聞こえてきた。ただ、囃すような音で、それが終わればバンと玄関を開ける音があって、自分も玄関へと向かった。


「あっ――」


 そこには小さく愛らしい洋人形のような軍人がいた。彼女は驚いたように目を見開いたと思ったら、すぐに軍服然とした顔に戻り、二本指の敬礼を行った。


「すまない、驚かせてしまったな。私は、ポーランド=ポーランド=ハンガリー連合王国新大陸波陸軍日本方面軍臨時最高司令官ヤドヴィガ・クフィアトコフスキだ。よろしく」


 琥珀を湛えた鮮やかで大きな瞳。稲穂色の透き通るような髪。そんなものが自分よりもはるかに小さい顔に収められている。納められている


なんだ、小鳥のような愛らしい声で何か言っていた。外国語だろうか。


「ああ、申し訳ない。寝起きの人にこれはきついな。コホン、私はヤドヴィガ・クフィアトコフスキ、皆からはヴィーって呼ばれてる。よろしく頼む!」


 そう言って、小さな彼女はこちらの目を見据え、何の躊躇もなくシルクのような手を差し出してきた。おっかなびっくりと手を渡すと、しっかりと握り込まれブンブンと力強く振られる。


「よろしくな。月見里から君のことはよく聞いているよ。でも、名前はまだ聞けてないから、教えてくれないか?」


「あっ――、俺の名前は……っ!月見里、月見里はどうなっている!?」


 月見里という言葉が彼女から零れたことで我が戻り、彼女の両肩をガッツリと掴んだ。


 それでまた彼女が目を見開いてしまったのを見て、我に返り、急いで彼女から離れた。いつもこうだ。衝動で何かやってしまうのは悪い癖だと、悲痛な顔をした月見里に怒られたことがある。


「――っ。すまない。月見里という名前が出てきたから、つい衝動的に……申し訳ありませんでした」


「いや、い、いいんだ。月見里は今も元気だぞ」


 彼女の力強い笑みに、自分はどっと力が抜けた。


「そ、そうか……ありがとうございます」


「ああ、でも、申し訳ないことに、馬上訓練でここから離れてるのと、申請諸々があってな――明後日、いや、明日以降じゃないと会わせてやれないことはどうか許してほしい」


 そう言われて頭を下げられた。申請だとか明日じゃないと会えないだとか不穏にも思える言葉が次々と紡ぎあげられたものの、彼女の申し訳なさそうな表情を見ていると何故だか信じられると思わされる。


 自分と同じくらいの年代の人だからかもしれないが、綺麗な礼と後頭部に咲く三つ編みの花輪を見て信頼できそうだなと思ったからだった。


「……疑いはしないんだね」


 むしろ、そちらの方が怪しまれるらしい。そういえば、月見里に自分は何でもはいはい信じすぎと言われたことがある。


「悪い人には見えない」


「……」


 初対面の、しかも、(身長自体小学生並みだが)自分と同じぐらいの歳なのにこちらに臆さず話してくる。それが不思議だったからなのも理由なのかもしれないが。


「それに、同い年ぐらいの人に会うのは久しぶりで……信じたい」


「え?私、大人に見える!?――コホン、お褒めの言葉ありがとう」


 ヤドヴィガの興奮した様子にしまったと思ってしまった。女性に年齢に関する話をするのはいけないことらしい。


「ああ、いや、すまない。出で立ちとか、雰囲気が大人のようだったからな――いや、なんでもない。忘れてくれ」


「ううぇ!?そんなに褒められても何も出てこないからな。嬉しいけど!」


 ますます顔を赤らめられた。かなり怒っているようで、月見里にもたまに一言多いことがあると指摘されたことがあった。


 だから、黙ってみるけれど、今度は目の前の彼女が居心地悪そうにしていて空気が重い。


「一度、外に出てみるか?」


 そのせいか、自分はまた何の意味もなく窓の外の景色を見ていた。また無駄な気遣いをさせてしまったらしい。


「いや、あっ、ああ、お願いします」


 でも、自分はそれに乗っかって頷く。月見里がどういうところで暮らしているか、知っておきたい。

 

 先ほどの若い医者と言い、ヤドヴィガという若々しい軍人に興味があるのもまた事実だろう。気持ちの悪いことだが。


「分かった。許可は下りてないから重要なところには行けないけど、まあ、観光だって思って楽しんでくれ」


「ああ、ありがとう」


「どういたしまして。馬には乗ったことあるか?」


「いや、全く」


「そうか――。まあ、荷車も着いているから大丈夫か」


 ヤドヴィガがぶつぶつ言うのを聞きながら、建物の外へと出る。確かに、馬がいた。

 写真で見るようなタイプではなく、太い脚に小柄な体躯。ずんぐりむっくりという言葉が出そうになったが、それは馬に失礼だろう。


 申し訳ないので会釈したら、馬も会釈してきた。これがサラブレッドというやつなのか。


 ヤドヴィガに促されて、馬車に乗せてもらい。彼女が手綱をもつと、馬がタイミングを見計らったように歩き出す。

 四足を二足のようにして前と後ろに交互に出しているので、本当に歩いているように見える。流石、サラブレッドといったところなのか。


 奇妙な動きに釘付けになっていると、ヤドヴィガが咳ばらいをして気まずそうに声をあげた。 



「それで、一応医者の方の加藤さんから聞いてはいるが、体の方は大丈夫そうなのか?」


「あ、ああ、大丈夫とは思う……いつも通りです」


医者に言われたような健康そのものという感じはしないが、いつもの通りである。


「そ、そうか、ならいいんだ。痛みがあるなら遠慮無く言ってくれ。や、野犬に食い散らかされたような有り様って聞いてるから……」


彼女の声が少しうわずっているのを聞いて相当気を使われているのが分からされる。これだけ包帯グルグル巻きの人間はそうそう見れないだろう。

 

 野犬に噛まれたのではなく、『あれ』に噛まれているわけなのだが――。


「ヤドヴィガさん。実は、野犬に噛まれたんじゃなくて――」


「――野犬に噛まれたんだよ。月見里がそう言ってたぞ」


「……ああ」


 いろいろ月見里にも気を使われていたらしい。


「あっ、そうだ、それとな――」


「はい?」


「タメ言語でいいからな」


 それだけ、にこやかに言って、それ以上ヤドヴィガは何も言わず、小さな背中で馬を進めていた。敬語じゃなくていいと言いたかったのだろうか。



 

 遠いところにある森だと思っていたところを抜けて、自分が先ほどいた病院は丘の上にぽつんと立ってあったのだと分かったぐらいに、ポツリポツリと建物が合って、いびつながらもくねくねとした道となったところに活発に動く黒い点P。それを囲うように水に浮かぶ草原


 それが水田だと分かって、それが人だと分かるのにはそう時間はかからなかった。


「あれだけ人がいるのか……!」


「え?……ああ、そっか、このあたりはまだ人が少ない方だけど、中央に行くともっとすごいぞ。なんたって、400人はいるからな!あっ、違った、最近子供も生まれたからねむ――君!も合わせて408人かな!」


 400という数字に自分は驚きを隠せなかった。矢小間遊園地には、たった40人程度しかいなくて、それも年を追うごとに少なくなっていったというのに。


「――っ!子供もいるのか!?」


 子供さえいる。月見里ぐらいしかいないと思っていたので、その場で立ち上がってしまった。ヤドヴィガの驚いた表情を見るのはこれで何度目だろう。これだと、まるで変質者みたいではないか。いや、自分は変質者である。


「プフッ、月見里と同じ反応をしたな」


 しかし、ヤドヴィガは我を取り戻したかのように笑いだした。月見里も月見里でこちらの悪い癖を真似するのはいたたまれない。見るべき背中があまりなかったので、どうしようもないのだが……。


「そうか、月見里は寂しくなくなったんだな」 


 自分でぼやいた一言に、ゆるりと荷馬車へと尻を戻した。あてのない旅がこれで終わったのだと。いつの間にか、終わってくれたのだと。


「……相当寂しがってたぞ。あの子。毎日、隙を見ては君の傍にずっといたんだ」


「……」


 なんてバカなことをしたんだ、あのクソガキは。それでも、少しだけ胸が高鳴った自分が嫌だ。




「おっ、ヴィー司令じゃん!」


 そんなに二律背反した重い胸を抱えて家にあったところに降りてくると、活発だった黒い点のいくつかがこちらへと手を振って向かってきていた。どうやら、本当に正真正銘なる子供たちに見えた。


「あっ、まずい。ちょっと隠れといてくれ!」


「だ、大丈夫なのか?」


「いいから、今見つかると、ザポロー――私の上司に怒られるから!」


 そう言われて、自分は馬車に備え付けられていた謎のシーツをかけられた。


「おう、お前たち、もう学校は終わりか?」


「うん!先生とヤンがあいびきして、午前授業になった!」


「あいつめ……!子供立ちの貴重な授業時間を……!」


「あれ?ヴィー司令なに運んでるの?」


「あっ、ああ、これは牛だ。そう!牛さん!病気の子牛を運んでるんだ。かわいそうだろ?あまり触るんじゃないぞ!ぞ!」


「それにしては図体でかくない?」


「図体がデカい方の子牛だからな!」


「人の形してない?」


「人の形をしている方の子牛だからな!な!」


 ヤドヴィガという軍人は、どうやら嘘が下手らしい。ここは何かフォローを入れた方がいいのだろうか。



「も、もぉー……」


 牛の鳴き声を真似てみた。なんとも空しく響く自分の裏声。一瞬静まり返ったところに、ヤドヴィガが上ずった声で畳み込む。


「ほらな、牛だったろ?」


「あっ、ああ、そういうことね。ほら、男子ども、早く行こ。多分、ヴィー司令もあいびきしてるんだよ」


「ええー?まじで?うわっ、ヒューヒュー!」


「うるさい!うるさいなあ!子牛とあいびきなんかしないって!しかも、病気だし!」


「うん、うん、ヴィー司令分かってるから。子牛さんだよね。頑張ってね」


 なんだか諭されるように言われているような気がする。いや、実際そうなんだろう。ヤドヴィガはアハハと上ずった声で必死に笑っているように聞こえた。

 

 心なしか、馬車のスピードが速くなっていっているような気がする。




 しばらくして、ヤドヴィガの声が調子が戻ったころに、溌溂なため息を吐いて、


「もぉー!たくっ!耳だけ年増になるなあ。イマドキの子供ってのは」


「元気な子供達だな」


「フフン、それだけはここの取り柄だな。自慢の子たちだよ」


 そう満足そうに笑うヤドヴィガ。ああ、これは永遠に夢から醒めないなと思った。こんな夢ならもう醒めないでほしい。


「あっ、ヤバい、ミハウ――私の同僚的なやつが来たから、また隠れてくれ」


 何かまた馬に乗った黒い点が近づいてくると思ったら、また白いベールに包まれる。



「あれ?ヴィー司令?今日、休み取ったんじゃないんですか?」


「あっ!いや、ちょっと手持ちがぶたさんになってな。ちょっとうろうろしてるんだ。ミハウもどうしてこんなところにいるんだ?担当地域違うだろ?」


「あっ、ああ、いえ。ちょっと翔子の様子を見に行こうかと思いまして……。今日すごい悪阻があって心配でたまらないんです」


「本当か!?それなら、こんなところでぐずぐずしてないで早く帰ってやれ!」


「いえ、仕事中なので、ザポロージャン少尉に怒られますって」


「じゃあ、いい!はい、これ私の休み券!今日の残りの休みあげるから、行ってこい。早く仕事もよこして行ってこい!」


「すいみません、ヴィー司令。この借りは必『いいから、行け!最高司令官なら当たり前のことだ』」


 いろいろと問答があったみたいだが、ひひんと馬のいななきと共に遠くなっていって、ヤドヴィガのため息が聞こえた。


「あーあ、またザポロージャンに怒られるな……」


 そう言って垂れる小さな背中が布越しに見えた。どうやら、最高司令官というのはいろいろ苦労があるみたいだ。


「あっ!まずい、これ中央部にも行かなきゃいけないやつだ。無断で連れ込んだら、不味いことに……!」


 声をかけたくなったけれど、起き上がろうとした瞬間に、


「すまない、またしばらく牛になっててくれ!」


 と言われて、押し倒されて自分は物言わぬ牛になった。ドナドナと揺られ、登ったり下がったり。慌てているのか、大分速度をあげて走っているようだった。


 そうして、自分は荷物になり果てたのだが、あまり苦にはならなかった。速度が落ちてきたと思えば、徐々に徐々に、たくさんの人の声が濃くなってきて懐かしさを覚えた。まるで商店街の中のような、かなり密集して声が聞こえる。


 小さい子供のような――。若い男女のような――。年老いた男女のような――。そんな声が絶えることがない。

 たくさんあるというのに、そのどれもが明るく活気に満ちた声に思えた。


 そんな中に、ヤドヴィガがいて、楽しそうに話しているようだった。やはり彼女は慕われているんだろうか。


「あら?ヴィーちゃん。珍しい。良かったら寄ってて」


「ああ、すみません、斎藤さん。今日は急ぎの仕事もあるから、また今度寄らせて!」


 家に招かれることもあるようで、かなり信頼されているんだろう。邪魔をしてしまった自分に申し訳なくなる。

 ただ、聞こえてくる声を拾うに、彼女はどうやら上機嫌らしいのでそれだけは不幸中の幸いである。


 それからもずっと彼女を慕う声が聞こえてきていた。それがどうしてか心地よくて、昔机に突っ伏していた時に聞こえたクラスメイト達のあの楽しそうな声にどこか似ているような気がする。


 だから、自分はその時と同じように、ずっと暗闇に突っ伏して眠りに落ちてしまうのだろう。



 「おい。起きてるかー……ああ、ダメだ。すまない、かなりほったらかしにしてしまった」


 布切れを布団代わりにして眠ってしまった後、ヤドヴィガに起こされた。今日は目が覚めてしまうことが多い。


 「申し訳ない。心地が良かったから、眠ってしまった」


 「いいんだ。私も私で放置してたし……。お詫びにここに連れて言ってやろうと思ってな」


 起き上がり、ヤドヴィガが顎をしゃくった方を向くと、こじんまりとしたホテルらしきものが目の前にあった。

 

「温泉だ。入ったことはあるか?」


「いや、体中に水をぶっかけるだけだったな」


 後はアルコールを吹くだけ。月見里と自分二人でずっとそれだけでやってきて、たまのご褒美に月見里をお風呂に入れさせたぐらい。自分はカラスの行水である――。


「今、温泉と言ったか?」


「ああ、まあ、ちょっと時間的に早いけど。一番風呂の貸し切り状態だからな。思う存分楽しんでくれ」


「本当に、あの温泉だと?」


「ああ、本当の温泉。源泉かけ流しだってさ。さ、入ってこい。入ったらすぐに男湯の暖簾があるからそっちに入ってね」


 そう言われて、文字通り背中を押された。なんだかキツネに脳みそのシワシワをつままれたような感覚のまま、自分はその中へと入った。


白々とした外面とは裏腹にグレイのカーペットに、高い天井。受付もあるので本当にホテルのようだと思ったけれど、自分しかいない無人。それなのに、不思議なほどの清潔感。奥に青と赤の暖簾があるので入浴施設なのだろう。


 暖簾の中へと入り脱衣ロッカーに服を脱ぎ捨て、自分はいつの間にか湯船に浸かっていた。洗い立ての体に湯が染みる。

 

 目の前にはひときわ大きな山が並べたてられて、見下ろす形にある苔むした街が酷く小さく思えるほどだった。今まで一番夢を見ているような気がした。


 台形のような形をしたあの一番大きな山は何だろうか。ずっと前に聞いたことがある気がする。確か、リニアモーターカーの車窓から見える山だったか。


「いや、新幹線だったような――」


 そんなボヤキも湯気の中に消える。身体が溶けてなくなりそうだ。足を広げても全く届かぬ広々とした湯船に、それ以上に一杯な景色。ああ、これが世に聞く高級温泉なのか、素っ裸で入っている自分が恥ずかしい。いろいろと食い散らかされた跡だらけで獣みたいなグロテスクさだ。


 だから、顔だけはずっと包帯を巻きつけたままだ。グロは何を掛けてもグロテスクなのである。ただ、顔に巻き付いたものは記憶のものよりも白く輝いていた。湯気のせいだろうか――。


 そういえば、月見里もこの温泉に入っているのだろうか。きっと、自分と同じようにヌボーとした顔になっているに違いない。いや、普通に真顔になっているかもしれない。


 ここは極楽浄土か。いや、もしそうだったら、俺はこんなところにいない。絶対に。


 だから、自分は山がぼやけてしまうまで、ずっと温泉に浸かるのだ。絶対に――。




 

「おーい、大丈夫か?」


「……ああ、すまない」


 そのせいで、自分は馬車の上で浜辺に打ち上げられたトドみたいになってしまった。頭の中が文字通り全部ふやけたような気分だ。気持ち悪い。


「温泉にのぼせて、長風呂してのぼせるとはな」


 湯気の詰まる鼓膜越しに、ヤドヴィガの笑い声が聞こえる。楽しそうな声で、身構えるはずの自分は心穏やかに聞いてしまっている。自分もガキみたいなことをした自分を笑いたい。


 のぼせた視界の中に、朝に見た田園風景がありありと現れる。夕陽を沈めて黄金色に輝く田園風景。それが果てしなく馬車よりもずっと下に続ていて、老若男女の点々があちこちに動いていた。顔は一切見えないが、笑っているのは分かるほど。


「見たことないほど、綺麗だ」


「え?――ああ、そうだろ、自慢の景色なんだ。ここは」


 ヤドヴィガの黄金色の髪がサラサラと揺れて、自分の中によぎるものがあった。


 黄金でできた国。ああ、そうか、ここは黄金の国、ジパングだったのか。


「……月見里はここで幸せになる」


「……ああ、そうだな。そうであってほしいな――。だから、早く会わせてやるからな。会ったらギュッと抱きしめてあげたらいい」


 そんなことあってたまるか。クソッタレ。


「……」


 でも、自分は今日一番の真面目なヤドヴィガの声色に納得してしまった。ここはまともな人たちの国だ。

 

 頭の中でかつてのクラスメイトたちの姿が映った。それがずっと諭すように、繰り返された。だから、自分はずっと布切れ一枚で隔てられていたのだ。


 

 湯気も冷め、夕方か夜かに煮え切らないうちに病院へとたどり着いた。


 明日、月見里に会ったら、自分はもうここから離れよう。 


 そんな決意も知らず、ヤドヴィガはなるべく早く申請を通すだとか、申請後自分がどういう風になるのかとか、また一緒にどこかへ行こうだとか、いろんなことを話してくれる。月見里もとてもいい子でやってくれてるぞとうその苦手な口が言って、最後にまた明日来るからなと締めくくり。


 そんなこれからの話に聞き入っている自分がいる。ヤドヴィガに出ていくなんて話も、もちろん出来なかった。


「またな」


「……ああ」


 挙句の果てに、晩御飯代わりのおにぎりを渡されたのを両手に放ったまま、ヤドヴィガの輝く顔がドアに消え切ってしまうまで、ずっと目で追ってしまっていた自分が取り残される。


 自分はそのまま貰ったおにぎりを口にしないまま、病室のベッドに落ちた。暗い黒い天井が、かつて自分が着ていた学生服の色と重なった。他のクラスメイトと比べて、自分の制服姿は浮いていた。


 ――やっぱり、明日月見里に会わずにここを発とう。それが自分の正義なのだ。


 最後の決意を決めて、眠りについた。一年間も寝ていたというのは嘘だと思うくらい、すぐに眠れた。


 ※ ※ ※


 あくる朝。希望の朝が来た。山々がすっと伸びて言って、ずっとゆったりとしているように思うのに、どこかハラハラして、どこか爽快に思えるような朝だった。


 飛び切りの朝に体操でもしてやろうかと、外に出ると、パカラパカラとせわしない馬の足音があって、ヤドヴィガがこちらに向かってきているのが見えた。


 あいさつ代わりに手をあげるが、そんなことをする余裕もなく、ヤドヴィガが目の先にいて、転げ落ちるように馬から降りた。


 ヤドヴィガは汚くなった軍服も気にも留めず、酷く深刻そうな表情で、


 「大変だ!月見里が馬を盗んで、脱走した!」

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