当てのない旅も終わり
バイクが止まった時、自分は正気を取り戻した。
アクセルを力の限り回しても、うんともすんとも言わない。最後のガソリン缶を揺すっても、既にうんともすんとも言わなくなっていた。
「終わったな」
「まだリザーブタンクが残ってる」
「そうか。まだあったか」
自分は嬉しいのか。よくわからない。もう気づいたら大きな湖のほとりにいるのだから。
「ここ諏訪湖っていうみたい」
看板に書いてあったと月見里が指を指す。あの漢字ですわこと読むのか、一文字違いの名前になんだか頭がこんがらがる。
でも、過去に戻ったのだと思わせないのは、やはり全く景色が違うからだろう。湖の向こう側もこちら側も四方八方に古錆びた街並みがあった。お城みたいなものがあったが、もう落城しているようだ。ここもどうやら夢のあとのようだ.。
それを表すかのように、夕陽と夜闇を混ぜた黄昏時が湖を照らしている。青色のようなオレンジのような煮え切らないのに美しい。朝を迎えた記憶がないのは何度目だろう。
「いい匂いだ」
じんわりと冷えるような恐怖がどうでもよくなるような匂いが目の前で発されている。月見里が丹念にかき混ぜている鍋から発されているようで、どこか懐かしい匂いだった。
「カレー作ってる」
「俺も何か手伝えることはあるか?」
「うん、ある。これ乾パンをちょっとだけつぶしておいて」
そういって手渡されたのは、いつか見たすり鉢とすり棒と乾パンの姿。
「乾パンがゆでも作るのか?」
「カレールーだけじゃ、物足りないと思って」
「そうか、いいな」
カレールー自体魅力的だが、それだけだと物足りない。米代わりにするのかなと思って、軽めに乾パンを擦ってみる。懐かしいと思うほど、自分たちは遠くに来てしまったらしい。
「それにしても、カレールーなんて、どこで見つけたんだ?」
「あの琵琶湖の家。キッチンの戸棚のずっと奥にあった」
最後の取って置きだったみたいだと 、月見里が言う。言いながら、コーンを入れた。傍にあった食糧袋はもう抜け殻になってる。文字通り、最後の晩餐になるのかと考えて居たら、いつの間にかご飯粒みたいな乾パンが出来ていた。
「月見里、出来たぞ」
「うん、私の方ももうすぐ出来る」
そういって、料理人のような顔つきで味見をする月見里。顔を見る限り、満点のようである。
「頼む」
「ん」
自分は月見里と自分のお椀に盛り付けて月見里のところへ持って行ってやって、カレールーを入れてもらいカレーライスの完成。この場合、カレー粥と言えばいいのだろうか。
「いただきます」
「いただきます」
味は分からないけれど、どうでもいい。スパイシーな匂いに抗えない。カレーはどう作ってもうまいのだという名言さえあるのだ。
月見里と同時に口に放り込んだ。久しぶりのカレーの味が舌をうならせ、、乾パンのサクサクした食感に脳が躍る。乾パンってパサパサして若干甘いからあまり合わないかと思っていたが、カレーのスパイシーな辛味と合わさって、複雑な美味しさに変貌をとげていて、自分は驚くばかりでだった。
だから、味を噛みしめるために景色を見た。夕闇の冷めたターコイズブルーに染まる街並みや山がこんなにも綺麗だったのだと気づかされる。
月見里もほくほく顔で景色を眺めて居た。でも、冷めたら不味くなってしまうよなと二人気付いて、美味しさが溶けてしまう前に手をつけた。でも、すぐ食べてしまうには惜しいと、ゆっくり噛みしめて食べた。
「うまかったな」
「うん」
それでも、カレーはあっという間に終わってしまう。山みたいに盛り付けられていてカレーも、今は皿にこびりついたシミにしかなかった。
感無量とはこのことを言うのだろう。まったく自分は用意をしていなかったのに、月見里がこんな素敵なものを用意してくれた。自分なんて、ただ食べるだけで、最後の晩餐という締め括りさえできず、どうしよもない終わり方しか出来なかっただろう。
本当に月見里は勿体ないほどに賢かった。だから――。
「なあ、月見里」
「なに?」
「……ありがとう」
本当に言おうといたのを止めて、ただ今日のことにお礼を言った。ぼうっとするしかなかった自分に、これほどまでに美味しいものを出してくれた。懐かしいものを食べさせてくれた。
感謝しか伝えられない、それ以外のことを今更言って何になるというのだ。
「どういたしまして」
月見里は少しだけ真顔になって、得意な笑みを浮かべる。でも、まだ残っていると言って、カラカラになった金平糖の袋に手を突っ込み、
「はい、金平糖」
「ありがとう」
金平糖をこちらにくれた。やっぱり、すごく美味しかった。
「……ああ」
でも、こんなに豪勢な最後の晩餐だったのに、薄っすらとした後悔があった。今まで食べてきた缶詰たちを料理にしてやれば、どれほどよかったのだろう。
どうして、自分はもっと早く料理を作ろうとしなかったのだろう。どうしようもない後悔だけれど、皿にこびりつくカレーの匂いにぼんやりとした既視感が合った。
「ああ、そうだった」
ああ、そうだ、昔、林間学校の時のカレーライスもこんな匂いだった。班と一緒になって料理を作ることになったのだが、皆はこちらが食材を触るのを嫌がって料理を手伝うわけにもいかず、食器を触れるのも物凄く嫌がられたから配膳も出来なかった。ただ自分はキョロキョロ辺りを見回したり、なんとなしに手を動かしたりして、何かしようとしていたのである。
それでも、まともな人たちであったから、少しばかりのカレーライスを恵んでもらった。それが酷く恥ずかしくて、申し訳なかった。
きっと、ぞんざいな扱いをする彼らに怒るのがきっとまともな人間の反応だったのだけれど、器用でもない自分は居心地の悪さにさっさと食べてきてしまって、せめて食器の後始末ぐらいはしようと使用済みの食器をひっ捕まえて洗っていったのである。
でも、洗い方を知らない自分は、食べ残しもそっちのけで洗い流してしまったために、シンクを汚してしまい他のクラスメイトたちが洗っていたものを汚してしまった。そのうえ、洗っていたものが使い捨ての紙皿で、ただただ迷惑をかけただけだったのだ。
あの時のウンザリしたようなクラスメイトの顔に、乱暴な手つきで後始末をする先生のイラついた顔が今でも忘れられない。
あの時は、本当に消えたかった。恥ずかしい気持ちと疎外感に、自分がどれほどいらない人間だったのかを思い知らされた。
ああ、だから、自分は料理を作ろうとしたなかったのか。もうこれ以上誰にも迷惑をかけたくなかったから。
「それって本当……?」
月見里の声。別にそんな悲しい声をあげなくてもいいだろうに。彼女の表情を見て、自分がまた漏らしてしまったことに気づいた。
「いや、冗談だ。質の悪い……冗談なんだ」
「……」
月見里は何も言わない。いつの間にか、キャンプファイヤーが消えて、テントの天井を見ていた。
そして、朝になった。最後の晩餐だったので、今日から飯はない。もう約束の時間が来たのである。
「じゃあ、景色の綺麗なところ、行こう」
「ああ、そうだな」
近場に山はあった。飛び切り高い山があるので、そこを登れば湖すべてを望めるぐらいの景色を見れることだろう。
善は急げ、バイクにまたがり最後の当てのない旅を始める。でも、燃料のあまりないバイクは肩透かしを食らうほどに軽快だった。
リザーブタンクにしか燃料が残っていないバイクは、山を登る一歩手前で止まってしまった。残されたのは、二人だけでおそらく頂上に行く階段。近くに看板はあったけど、聞き覚えの無い名前だった。
空になったリュックサックを背負い、階段近くに湧き水があったので、それを汲んで階段を上る。水があれば頂上に登るぐらいまではもつだろう。
カレーライスを食べた体はまだ動いた。夏を帯びた太陽に照り付けられて、登るたび空気が薄くなっていくのを感じながら二人登る。矢小間遊園地でかつて見たような杉と僅か程度の知らない木を並び立てられた同じ景色を登る。
最後になってもこれかとうんざりするものはあるものの、今が何合目かという看板をつけてくれているので進んでいる感はある。
でも、体がやけに軽いと言うのに、かつて行けたぐらいの半分もいけず、階段の途中に広い場所があったので今日はそこでテントを立てて終えた。
今日も吐いたが、背中を擦られる時間もなく、量も少なかった。
明くる朝、必死な顔をした月見里にゆすられて目が覚めた。いくら、起こそうとしても目覚めなかったらしい。外へ出ると明くる朝でもなく、明くる昼前になっていた。お腹が空いた。
残念ながら、まだ道半ばである。約束は果たせ、自分。
少しばかりの活を入れて、遠慮してくる月見里に遠慮してテントを片して、再び登る。出来れば、昨日よりは登りたい。
そう思っていたけれど、4合目ぐらいで止まった。足に力が入らない。たくさん水を飲んだはずなのに、どうして生まれたてのように足が震える。月見里に止められるのも構わず、代わりに手を繋いで一緒に登った。
歩幅も背丈も違うのというのに、不整地な山を登るにはあまりにも馬鹿げた行動だった。それでも、手の境目が分からなくなるほど馴染んでしまっている。
汗ばんだ手だと言うのにしっかりと握られている。
それで、登っていくと、見慣れたものがそこに現れた。
「矢小間神社か……?」
独り言ちた。月見里からの返事はなかった。
真正面に向かってみると、苔むした石造りの鳥居に、緑に包まった本殿があった。矢小間神社とは雰囲気は似ているけれど、鳥居に掲げられた名前は全く似ても似つかない名前だった。
「なあ、月見里。お参りしてもいいか?」
「うん」
でも、懐かしさがそこにあった。いつもの、期待を膨らませ矢小間遊園地から出掛けた時と、胸をいっぱいにして矢小間遊園地に帰るときにお参りしたあの光景を思い返すには十分だった。
だから、いつもと同じようにお賽銭を入れて祈る。でも、もうお金は無いから、ただ祈ることしか出来ない。だが、お賽銭に何かを置く鈍い音が聞こえた。
「金平糖――まだ、残っていたのか」
「うん、最後の一粒」
「月見里が食べておけ。それぐらい許してくれるだろ」
「いい、一粒しかないから。神様にあげたい」
「……そうだな」
そして、チリンチリンとやけになる鈴を揺らし、二礼二拍手一礼。
後は願いごとだろうか。何を願えばいいのだろう。頭の中は矢小間遊園地の思い出と在りし日の学生服に身を隠していたあの学校生活。まともな人たちが笑いあうあの学び舎。
あそこに月見里がいれば、きっと人気者だっただろう。俺のことなんて知らずに、幸福な生活を送れたのに。
「ああ……」
ああ――どうかどうか、お願いします。神様。月見里を一人にしないでやってください。このまま終わらせないでやってください。俺が屑な人間だったと思い知らされるほどの、まともな良い人たちにめぐり合わせてやってください。それ以上に望むことはありません。
「ねえ」
「なんだ?」
「何を願ったの?」
「……今日はここで寝泊まりさせてもらうから許してくれって願った。月見里はどうなんだ?」
「――私も似たようなの願った」
「ああ、なら、ダブったな。勿体ないことをさせた」
「ううん、願いが2乗になったから、むしろ得した」
「……そうか、ありがとう」
有言実行、祈りが終わった後は、すぐに神社の中で眠らせてもらうことにした。せっかくだから本殿で眠らせてもらおう。久しぶりの畳の柔らかさに体が悶えた。外側とは反して内側は状態がよかったらしい。月見里の願いが叶ってよかった。
俺の願いも叶えてくれるだろうか――。
「なあ、月見里起きてるか?」
「起きてる。なに?」
「ああ……いや」
お前が大人になったらと言いかけてやめた。俺は馬鹿だ。そんなメルヘンなことを期待してどうする。
「月見里、もしかしたら、明日か明後日か、いつか分からぬうちに……股から血が出るかもしれない」
「え?なにそれ、怖っ」
でも、勝手に口は動いていた。それも最悪に歪められて出ていた。月見里に届かないでほしかったが、バッチリと聞こえていて若干引かれている。何しているんだ、俺。
「ああ、いや、違う。いや、違うも違う……その――。そういうことになっても、心配するな。それは大人になった証拠だ」
本当に、何言っているんだ俺。昔、保健体育で習ったことをそのままなぞっているのは分かる。いや、成人向けの雑誌だったような気もするが、どちらでも気持ちの悪い発言であることは変わらない。世が世ならド直球のセクハラ行為である。
「変な大人のなり方」
月見里に若干呆れられた。それは当然だ。俺もそんなこと知らないのだから。知らないくせになんてことを言ったのだ俺。
「……悪い。やっぱり、忘れてくれ」
「忘れない」
「……そうか」
「嘘ついた。やっぱり――」
「やっぱり?」
「やっぱり、忘れてあげない」
「クソガキめ――」
フフと笑う月見里。月見里にはやっぱり適わない。こんなに安からな気分になったのは、久しぶりじゃないだろうか。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
その日は、吐かなかった。もう体の中がすっからかんになってしまったらしい。
でも、まだ約束を忘れていない体は起き上がれたようで、ちょうど朝ぐらいに起きた。
いや、朝か分からないが、その時によく見る霧が立ち込めていたのだ。やる事もない身支度を終えて、外へと出ると
「霧がまだ濃いな。何か見えるか?」
「何も……くたばれー!」
月見里が暴言を吐くと、文字通り霧から返ってきて、あちこちに跳ね返る。
「おお、すごいな……」
でも、きっと誰にも届かないんだろう。そう思えるほど、濃い霧だった。まるで綿毛のような温かいような冷たいようなどう感じたらいいか分からない霧。
足下程度しか見えないが、進めないことはない。どうせ、止まるほどの余裕はない。離れ離れにならないように、ひっそりと手を繋いだ。
お互い喋ることはなかった。でも、どうしてか、あまり不安を覚えなかった。むしろ、自分は懐かしさを感じてしまう。
夕陽を浴びた時の感じというよりは、知っている街並みだったのに迷子になったような、不安に喉奥を撫でられるようなそんな感覚。
時間がたつほど霧が濃くなっていく。綿毛というよりミルクのような色つきになっていて、ますます方向感覚がつかめなくなっていく。今は前に歩いているのか後ろに歩いているのか上にあがっているのか下にあがっているのか。ただ、進んでいることは分かる。
浮遊感にも似たような感覚に襲われているのに、あまり危機感は覚えなかった。段々と頭がぼうっといつもと違う酩酊感を帯びていっているのが原因かもしれないが、あまり恐怖を感じなかった。
――月見里、大丈夫か
横にいる月見里に声をかけようとしたが言葉が出てこない。
姿形ももはや見えないほど霧は粘っこくなっている。ただ、月見里の手のぬくもりだけは今も感じ取れていた。だから、それだけは落とさぬように固く繋いだ。
月見里の方からも握り返された。もはや、鎖のようである。ちょっとやそっとの出来事では、千切れることは無いだろう。
だから、どうか、今だけは自我を落とさずにいてくれ。
やがて、霧が晴れた。
何の前触れもなく急に消えた先に広がるのは、山頂の景色ではなく、滝だった。
いや、滝じゃない。
「ダムか?これ」
「……そうみたい」
要塞のようなダムがそこにあった。
巨大な湖の端にある分厚いコンクリートの壁から水が飛び出していて、轟々とけたたましい音を立てて下へと流れていく。
全てを押しつぶせるような巨大な滝になっているというのに、コンクリートの壁は全くビクともせず、意にも返さぬように流れていく様は、人の文明の息吹を感じている様に思えた。
いや、違う。そこではない。コンクリートの壁の上に綺麗な旗が隊列を組んではためいていた。白鷲だろうか。全く見た事もない旗だが、どうして酷い安堵感と哀愁を覚えてしまう。
「あれは人だよな?」
人の跡。いや、違う。
「嘘だろ、そんなまさか」
旗の下に人の形をしているのがあった。まさしく、人形でもない、生気をもった人の姿。
まさか、ありえない。ただでさえ山の中だというのに。
でも、そんな理性とは裏腹に、自分は手を振っていた。ぎこちない手の振りようだったけど、向こう側にいる人も手を振り返していた。旗と同じ綺麗な布をまとって手を振っている。
あれは幻じゃない。
「―――――ぃ!」
一人じゃない、複数人だ。何人もの人が向こう側にいて、何かを言っている。正真正銘の人の声だ。
「月見里、見えるか」
「…………」
月見里からの返事はなかったが、震える彼女の手でその答えが分かった。ああ、俺の願いが叶ったんだな。
でも、どうしてか、神様の嘘つきなんて言葉が聞こえてきたような気がする。
いや、そんなことは無い。もういいのだ。神様ありがとう。願いは叶いました。もう充分です。
「嗚呼……よかった――」
自分の声なのにぼわぼわと反響して聞こえた。頭の中で木霊が鳴っている。
「――っ!ねえ!起きて!」
体が地面とくっついた。頭の中が消えていく。
「ねえ!――!」
揺すられている。何も反応もできない。自分の体さえ消えていって、やがて視界も真っ白闇に溶けていく。
「――――!」
月見里が何かを言っている。聴覚さえどこかへ行ってしまったようである。
――しあわせになれよ
口も動かない。ただただ、意識が霞んでどこかへ――。
――――!
なにか揺れている。まるで揺り籠のような。
パカラパカラと走馬燈の音が湧いてきた。
走馬燈って馬の足音みたいな音を出して迫ってくるのだな。
そんな他人事のように考えながら、最後の意識を手放した。
――。パカラパカラパカラパカラ
これで2章も終わりです。当てのない旅しかしてないですね。行き当たりばったりな旅でしたが、幸か不幸かまだ稼働しているダムと他の人間を見つけましたが、主人公は倒れ――3章はどうなるのか?
ここまで読んでいただいてありがとうございます。気に入っていただけたら、ブックマークや星評価、感想等頂けると嬉しいです。いつもありがとうございます




