かんとりーろーど
静かな朝だった。特に鳥の声が姦しく聞こえることもなく、昨日放ったらかしにしていた薪から漂う煙の残り香が薄っすらと広がっているだけの、本当に静かな朝。
手で塞いだらすぐ無くなってしまう種火のような朝の光があるぐらいで、月見里はこちらに寄り添って寝息を立てている。
その重みで起きたのでもなく、習慣で起きたのでもない。ただ、頭の重みで目が覚めた。まるで頭の中に水が詰まっていて、脳味噌が浮いているような気持ち悪さ。
「そうか……本当にまた来たんだな」
そんな見覚えのある感覚で目が覚めて、つぶやいた。朝特有の自分の中でしか聞こえないような細い声だったのだが。
「おはよう」
「おはよう。起きていたのか、月見里」
「ちょっと地震があったから、起きた」
月見里が目を覚ましてしまった。頭の違和感に気づいた時に、頭を抱えたせいで起こしてしまったかもしれない。
密着していると些細な動きさえ、感じ取られてしまうらしい。
「飯でも食うか?」
「ちょっとだけ寝てからがいい」
月見里が背中を越えてきて、目をこすりながらそう言ってきた。
欠伸交じりの声色に眠たそうなのが分かったが、自分の方はもう眠気よりも頭のグチャグチャに占められていてそれどころではなかった。
「わかった。俺は薪を取ってくる」
「薪?……うん、分かった」
「飯が出来るまで寝ていてくれ」
「…………」
月見里は再び寝息を立てた。
今度は起こさないように、そっと月見里から離れる。
こみ上げてくるものを喉の奥に縛り付け、忍び足で玄関を飛び出し、一目散に家の裏手に向かい吐いた。
鈍く光る黒い水たまり。泥が腐ったようなものが、また自分の体から吐き出された。
「さあ、薪はどこだったろうな……」
ひとしきり、吐いた。
多分、この家には薪があると自分は踏んでいる。なにせあれほどの囲炉裏を備えている場所だ。薪の十や二十あってもおかしくはない。
不確かな根拠のまま裏手に回ってみると、ビンゴとばかりに薪の山がそこにあった。黒ずんではいるが、どうせ燃やしたら黒くなるのだ。一度使ってみてもいいだろう。
2,3本拾い上げて家へと戻り、囲炉裏にくべた。
火をつけてみるとあまり燃えなそうになかったので、適当な紙をくべて燃やす。ある程度は燃えたのでこれで良しとしたい。
鍋に昨日余ったコーンと、腐れ縁のチキンもどきを投入。
昨日と同じスープだとあまり芸はないので、塩コショウをかけといて野菜炒めっぽいものを作ることにする。
そうはいっても、ただ後はシャモジみたいなもので、かき混ぜるぐらいしかできないが。
「……焦がさないように慎重に、だったか?」
東台のレシピで何か炒め物を作るときは焦がさないようにと注意書きがあるので、なるべく鍋の中に踊らせてみる。天井に吊っている鍋なので、かき混ぜる度、鍋も踊っているのはご愛嬌。
じゅうじゅうと音を立てて、香ばしい匂いが立ち込める。すると、月見里が目を覚ましてしまうのもご愛嬌。
「ん……なにそれ?」
音を聞きつけた月見里が、猫のように四つん這いで近づいてくる。残念ながら、もう少し時間はかかりそうである。
「今日の飯だ。もうちょっと我慢してくれ」
「じゃなくて、口元のやつなに?」
口元を拭ってみると、黒いシミが指にひりついた。
「……ああ、しょうゆだ。悪い、少しつまみ食いした」
「……えー、ずるい」
「悪いな。その分、月見里にやるよ」
「なら、いい」
まったく現金なものだ。月見里は満足そうに笑っている。現物だとばかりに、彼女のお椀に出来立てを盛ってやった。
いただきますと合掌して、コーンの甘味とシーチキンの塩味とコショウの香味に小さな舌鼓をうって、小さいが楽しい時間はすぐ終わる、食器と鍋を洗ったら、また楽しい冒険の始まり。
外へと出ると、すっと遠くへと縮んでいく石畳に迎えられる。朝焼けが降り注がれるそれはガラスのように透き通って美しいと思った。今からここを離れるのが、少し惜しいと思うぐらいには。
「今日は、山の向こうに行くの?」
「そうしたい。大丈夫そうか?」
「うん、私は大丈夫。どっちにしても山を迂回するか超えるしかないと思うし」
迂回するにしても山がずっと連なっているのでどこまで行けばいいのか分からない。
山のてっぺんを見るには頭を首の付け根につかないといけないぐらい高いので、それはそれで無謀であるのは確かだが道がある分まだ現実的。
「そういえば、今日の薪ってどうしたの?昨日で使い切ってたじゃん」
「ああ、家の裏手で見つけた」
「それってまだあるの?」
「もう一本もない。一本もだ」
「……そっか、わかった」
そう言うと神妙な顔をして、バイクへと乗り込む月見里。
「進むだけ進んでみよう」
どうせ、行き止まりでも、別に問題じゃないのだ。お互い顔を見合わせてから、バイクを発進させた。
行くところは昨日見た山へと続く道。
歩きだと遠く思えた石畳は、バイクだとすぐに消えて無くなって、アスファルトと砂利の混ざったそれへと乗り上げる。
ガタンガタンとまたあの感触が尻に伝わってくる。嫌なものだ。目の先にあるのは、また森という森で薪には困らないだろうと無理くりのポジティブな考えに縋りつきたくなるような過酷な道が待っている。
「ねえ?」
「なんだ?」
「音楽流してもいい?」
「ああ……あれか、わかった」
ありがとうといって、月見里はひとしきりガサゴソと音を立てると何かを取り出して音楽を流した。
静寂な環境とは程遠い陽気な音楽。ノイズ混じりかと思ったが、年代物らしい。どういった楽器かは見当もつかないが、軽めの音が小粋に跳ねている。
「いい曲だな」
「そう?ちょっと古臭くない?」
「まあ、味があっていいだろう」
「スルメイカみたいな?」
「……そういわれると、そうとしかいえない」
そう言ってはみるものの月見里は微妙そうな表情から変わらない。セピアに褪せたCDという古臭いものを読み込ませるためだけの円盤状の音楽プレイヤー。
何年か前はスマホにイヤホンを指して聞いていたものだが、充電器も電気もなくなった今は電池式のこいつしか残されていない。
「まだ、電池残ってたんだな」
「……うん、大事にとってた」
そういえば、音楽というのを聴くのは久しぶりである。だから。この痩せ気味になった体に酷く伝わってくるのだろうか。
もう電力もなく、使える電池も乏しい。だから、月見里は一粒の音も逃すまいと大音量で音楽を垂れ流しているように思った。
それでも、道の奥深くに行くほど道は砂利に荒れて、ただでさえあった振動がますます深まるばかりで、音楽を聴くのさえ背中越しになる自分からでは一苦労になった。
月見里はいい曲がないかとひとしきり流しては、曲を変えて、ひとしきり流しては曲を変えて、少女型のジュークボックスになっている。
それも、3周ぐらいしたときに諦めて、ひたすら垂れ流しになって少女型のラジオに変わったが。残念ながら、月見里の好きなJPOPは、CDの中には納まらない。
「ひこうきーぐもー」
「ん、ほんとうか!?どこだ?」
月見里から出た久しぶりの言葉に、思わずバイクを止めて空を見上げた。
だが、目を皿にしても文明のかけらもない、不揃いの雲が空を漂っているのみである。
月見里を見やると、どうしてか顔が赤くなっていた。
「どこにもないぞ」
「ちがう。歌を歌っただけ」
「あっ……ああ、そうだったのか、悪い」
一瞬、どこかで聞いたことのある声調と思っていたが、どうやら本当に歌だったらしい。自分の方が赤っ恥をかいていたようである。
「まあ、やっぱり歌うまいな」
「やめて、恥ずかしい」
フォローしようとしたけれど、月見里はますます自分から顔を逸らす。見えないところにきっと不機嫌な顔が隠されているのだ。気分がよかったのに、ぶち壊されてはかなわないだろう。
「カントリー?ロード?このみーちー」
こういう時は自分も恥をかいた方がましな空気になる。歌ったはいいものの、音程外しすぎて壊れたラジオみたいになって赤裸々な赤っ恥。
「なにそれ?」
「いいだろ。えー、ゆけばー、あの?につづいている?ゆめ?みたー。ああ、カントリーロ~ドー」
「フフ、音程外しすぎ」
「味があっていいだろ」
「フフ、味噌もクソも一緒だから?」
「それは否定しないとだめだな」
月見里にひとしきり笑われた。仕方がないだろう。カラオケなんて一度もやったこともないのだ。
そもそもあの街とはどこだろうか、そもそも今通っている道が果たしてどこに続いているのか希望もない夢も見れない国道だ。
恥ずかしさに耐えられなくなって、バイクのアクセルに押し付ける。
何を歌っているのか分からない内に、次の曲に切り替わる。もうやけっぱちだと、大声で歌ってやる。
「いつでーも、おまーえが、おもーだーしておーくれ」
また、ポップコーンみたいに月見里が笑い出した。
「ぷふぅ……!違う。こんな感じ。いつでもお前が、思い出しておくれー」
「鈴みたいな歌声だな、チクショウ!」
「うるさい。きっとそばにいる。思い出しておくれー」
月見里も歌いだした。自分の汚い歌声も混じるのが惜しいほど綺麗な歌声だが、負けじと声を張っている自分がいる。
どうしてか、恥ずかしいよりも楽しいと思っている自分がいるのだ。
それから、曲が終わるまで歌い続け、また新しい曲になったら声調を変えて歌う。
なんと全く汚い歌声しか出なかったが、月見里の歌声とハモるのも抵抗がなくなって、下手くそなアカペラでなんて勿体ないことをしているのだと思ったが、楽しい。
歌は労働の糧となるという。だから、自分は歌いながら倒木を切ったり、ぜえぜえと息を切らしながら月見里と共にバイクを押して小山に埋もれた道を越えているのだとおもった。
音楽を何周をして、声もしわがれたころに坂らしい坂は終わりを迎えて、平面らしいでこぼこ道にたどり着く。
その頃には、汗で濡れに濡れたシャツもカピカピの布になって、あたりは夕闇になっていた。
それでも、目の前から山が消えることはなかった。まだまだ続いていた。
仕方なく、その日は道のど真ん中にテントを立てて眠った。アスファルトはまだ剥がれて居なくて、寝返りをためらうほど寝心地が悪い。
フカフカの地面が恋しい。道を外れるとすぐ深い森に入るから、都会っ子の自分たちでは眠る勇気がない。
だから、眠りに着けない自分たちはテントから顔だけを出して、夜空を見た。どうしてかは分からないが、いつもよりずっと星が鮮明に見えているような気がした。
だから、月見里と流れ星がないかひとしきり探してみたけれど、夜空はすぐに重たくなって真っ暗闇になった。
深夜。深い森の中に血を吐いた。
朝。また冒険の始まり。勇者よ旅に出るのだ。夜と昼とでは景色が様変わりするらしい。
それでも、連なる山々は変わらずずっと続いていて、相も変わらず煽るように自分たちへ行く方向に流れている。一体どこまで続いているのだろうか。途切れる気配さえない。
「ここまで来たら、木霊が飛んできそうだな」
「くそったれー!」
月見里が不意に叫ぶ。
そうすると、山からくそったれーと言い返され、他の山からも囃すように悪口を言われて倍返しを食らう。なんと幸先がいいのだろうか。ようやく、木霊を聞けた。
「懐かしいな」
「そう?クソッタレは前も言ってたな」
「いや、こうやって、山に叫ぶのは久しぶりだと思ってな」
「そうだっけ?」
月見里はきょとんとした顔をする。それも無理もない。
「ああ、そうか……昔。昔、月見里が小さいころに、一緒になって叫んだことがあったんだ。あれは、いつだったか……」
確か、まだ会って間もないころだった。バイクも何もなくて徒歩でずっと街から離れていこうとしたときに、道に迷って山の中に入ってしまったことがあった。
その時は見知らぬ場所で山で遭難したら野垂れ死ぬという恐怖があって、明るかったというのに酷く焦っていたのをまだ覚えている。
だからか、自分は昔山に暴言を吐くと声が返ってくるとかいうどこから拾ってきたか分からない知識で、力の限り叫んだのだ。
思い返してみてもそれにどういった理由があったかどうかわからない。多分、ストレスとをぶつけたかったのだろう。
月見里もびっくりはしていたものの、こちらが仕切りに暴言を吐くのが面白かったのか、こちらに続いて暴言を吐いていたのを覚えている。
それで確か、無事に山彦が返ってきたのだろうか。肝心なところを思い出せないとは、なんとも嫌だ。
その後は、自分たちがいたところはふもとの近くだったらしく、その後勇み足で進んでいった自分たちだったが、すぐにアスファルト道路を踏んでお互い笑っていたのだろうか。
「ねえ、大丈夫?」
「ああ、すまない。じゃあ、出発しないとな」
「え?もうバイク動かしてんじゃん」
「は?」
見ると、自分はバイクのアクセルをひねっていた。一体、自分はいつバイクに乗っていた。
「本当に大丈夫?」
「悪い。ただの冗談だ。よく言うだろ、時差ボケって」
「そういうボケじゃないから」
「悪い」
ずっと進んでいった。ぼーっとバイクを走らせるほど、気持ちよくて危ないことはない。それほどまでに平面でずっと進んでいけるかと思ったが、それもすぐに別の坂道と山道になって潰える。
でも、どうしてか、道はあまりひどい状態になっておらず、倒木も一本か二本程度で坂道もあるものの草の間にアスファルトを見つけられる程度でアクセルを回す程度で登れてしまうものだった。
だからこそ、音楽をかける暇もなく、風が耳のあたりをうねる音をずっと聞きながらうっそうとした森の博覧会のような道を進んでいく。
いくつかあまりの状態の悪くないトンネルを抜けた。
「ねえ、見て」
不意に肩を叩かれ、見ると眼下に小さな街が現れていた。ようやく山から抜けたかと喜びそうになったが、目の前はまだまだ山に遮られていて、喜ぶにはまだ早い。
どうやら、ここは山の中にある街のようで、山の向こうはおろか、まさか山の中に街があるのかと奇妙な感動を覚えてしまう。
奇妙なとつけたのは、その街並みのせい。日本家屋らしきものが並び、その中央のあたりにマンションに瓦屋根をつけたようなものがちらほらと聳え立っている。
まるでここが日本ですよと言わんばかりに、ひときわ大きなビルにも覆いかぶせるように瓦屋根が備え付けられている。
四角く丸坊主の建物を見てきた自分にとっては、自分の目のピントがずれているのかと思うぐらい奇異に映った。
また、バイクを止めた。
奇妙な街だと思ったのは、また酷く綺麗な状態で残っていたからである。それが怖くて、クラックションをひとしきり鳴らした。
『あれ』が出てくるなら、さっさと出てきてほしいものである。だが、山が木霊をするだけで、それが終わったら窓を割る音さえもなく、静かな景色に戻る。
それでも、ずっと目を凝らしてみてみた。そうすると、街の中央を割るように、線路が伸びているのを見つけた。
辿るようにそれを見ていくと、どうやら自分たちがいたところから、自分たちのいく山の方に伸びているらしい。やっぱり、妻籠宿に行く前に見た線路はここまで続いていたのか。
「なんだろうなこれ?」
「旅館だと思う」
「旅館……?」
「多分、京都の温泉街でこういうところ見たことあるから……修学旅行の時に、京都行ったんだよね?」
「あ、ああ、そのはずだ……月見里にそんな話したか?」
「うん、ここに来るまで話してくれてたじゃん」
「……ああ、悪い。そうだった。これも時差ボケだ」
「……頭、一昨日まで持っていかれてそう」
「明日までには連れて戻る」
「そうして」
2人、笑みをこぼした。月見里の毒舌は磨きがかかっている。気まずくなった時は、景色を見るだけじゃなくて、こういった軽口でもよかったらしい。
「温泉、まだ湧いてると思う?」
「どうだろうな……入りたいのか?月見里」
月見里に顔を向けると、カサカサになった髪を若干嫌そうな顔をしていじっていた。
無理もない。この頃、ずっとアルコールで髪や体を洗うことしか出来なかったのだから。
ご褒美の時以外は、シャワーかアルコールで流すことが当たり前だったが、東台と旅をして以来、ちょっとそれだけでは物足りなくなっている自分たちもいる。
「なんか、怖いからいい。汚いだろうし」
「そうか?まだ日没まで時間があるから、掃除ぐらいなら出来ると思うぞ」
「いい。もし温泉に入るなら、超高級温泉にするって決めてるから」
そう言って、どうして胸を張る月見里。
「そうか……確かに、ばい菌もあるからしれないから、それがいいかもな」
「うん。その時は一緒に入ろ」
「嘘だろ?やめてくれ。昔から一人で入れただろ。俺が恥ずかしい」
「大丈夫。高級な温泉だから、水着もある。水着を見て恥ずかしいと思うなら、そっちの方が恥ずかしい」
「ああ、なるほど……まあ、高級だから水着もあるよな」
高級な温泉とは一体どんなものだろうか。黄金色に輝いていたりするのかと想像したが、いろんな意味で嫌だ。
きっと、疲れがしっぽりと取れて、軽やかな気持ちになるのだ。自分はそんな温泉に入りたい。
「きっと、綺麗で――忘れられないところなんだろうな」
「うん」
いつかいってみたいそんなところ。思い描けそうで思い描けないそれを補完するように、名前の分からぬ温泉街をぼんやりと二人眺め続けた。
そんな余裕があるくらい、静かで平和で、自分たちは取り残されている。