関ケ原
賞味期限切れの薬に腹を壊さないかと戦々恐々しながら眠った昨日。しかし、どうやら鎮痛剤に効き目があったらしく、朝にそれを知った。
「ああ、痛い……」
ズキズキとした痛みで目が覚める。最悪な目覚めではあるが、透き通るような太陽な光が窓から差し込んでくる。
散らかれた寝袋とランタン。月見里の痕跡だけがあって、キッチンからカチャカチャとフライパンをかき回すような音。なかなかに食欲のそそる匂いが立ち上っていた。
トリュフを探す豚のようにその匂いを辿っていくと、ジュウジュウと焼ける音を立ててフライパンの中を踊らせる月見里がいた。
昨日のシャモジみたいなものは、そういう使い道があったのかと感心していると、月見里がこちらに温めの微笑みを浮かべてくる。
「おはよう」
「おはよう。もっと寝てるかと思ってた」
「いい匂いがしたからな。眠ってるわけにもいかない」
「ふぅーん……」
「何作ってるんだ?」
「ホウレンソウとチキンもどきを混ぜて焼いたやつ」
そういって、フライパンの中身を皿へと盛り付ける。あまり食欲のそそらない組み合わせだが、美味しそうな匂いは嘘をつかない。
「召し上がれ」
「ありがとう。いただきます」
合掌。用意してくれていた箸をありがたく使わせてもらい、口につけてみる。旨味がガツンときた。ホウレンソウの食感とシーチキンの食感も合わさって、あのパサパサとした食感もなくどちらかというとしっとりとした食感で食べやすい。
疲れ切った体がこれみよがしにフル稼働して温まっているような気がした。
「うまいな」
「よかった」
こちらの言葉を嬉々として、自分の料理に箸をつける月見里。クソ、毒見役にしやがったなと思ったが、彼女の顔が綻ぶと嬉しくなる自分がいる。
「今日はどうするの?」
「とりあえず山の隙間になっているところを探して、そこを通ってみる」
「ふぅーん」
「それまでは琵琶湖を沿って走るが、大丈夫そうか?」
「うん、別に大丈夫。べたつきもしないし」
ご馳走様と合掌。ゆっくり味わって食べたいのに、美味しいものはすぐに無くなるのが玉に瑕である。
月見里は食べ物を頬張って、子リスに戻る。ちょっと悪いことをしてしまったかなと、自分の皿を出来る限りゆっくりと、洗剤に浸したキッチンペーパーで洗う。
「ゆっくり食べろ。そんなに急いでも時間は逃げない」
「フィフゥフゥン、フゥフゥフゥフゥフゥン」
時間は逃げるでしょと月見里。確かに、時間は逃げる。だが、当てもないので逃げる先もないのだ。ざまあみろ、時間。
こちらは椅子に身を預け、ゆらゆらと外の景色を見てみるが身を預けすぎて床に落ちそうになった時に、月見里が完食して皿を洗っていた。
「もうちょっとリスになってても、いいんだぞ」
「早く行きたいし」
ちょっと嫌そうな顔をしたのはリスと言ったせいかなのか。月見里は手もとが見えないぐらいにてきぱきと皿を洗い終え、いつの間にかに合掌。
「食後休憩はいるか?」
「それはバイクの上でやる」
それならば、仕方ない。荷物を背負い、ひとまず小さなラジオ体操をして胃を慣らしてから目的の場所へと向かう。
月見里はどうしてバイクところに行こうとしないのか訝しんでくるが、目的地へ着くとその顔は複雑にぼやける。
その理由は痛いほど分かったが、目の前の『あれ』だった人の死体に黙礼した。
「噛んだ相手じゃん」
「筋は通しておくべきだろ」
「…………埋めるの?」
「いや、噛まれたから、そこまではやらん」
「ならいい」
正直、噛んだ分、家をお借りしたのと調味料をもらったので十分。菜園に放置もやれば、これで彼らの方が被害者に見えることだろう。
黙礼を終わらせ、そのままバイクへと乗り込み。痩せてきた荷物を側車へ放り込んだ。
最初の目的通り、琵琶湖に沿うようにして道を辿ることにした。深い理由もないが、昨日そこへと延びる道が見えたからである。道があるのに使わないとは勿体ない。
大海原に漕ぎ出す気持ちでバイクを走りださせ、琵琶湖の縁を走る。やっぱり、広くてどこまでも広がっているように見えるが、嘘なほど対岸が迫っている。
「本当に無意味なぐらい広い」
「ああ、だな」
「石を投げて、沈めてやりたい」
「なら、でっかい石を持ってくるしかないな」
「それはそれで、もっと大きい湖が出来そう」
「そういえば、隕石で湖が出来たところがあるって聞いたことがあるな」
「ふぅーん、なら、もう端っこのところまで行って、石をぶつけて海にしちゃおう」
「行ってみるか?」
「……やっぱり、いい」
「そうか」
他愛のない話だというのに、酷く耳に入ってくる。海の傍で走っていると身を洗われるようだと思ったけれど、残念ながら水量が少なすぎて綺麗だと思うことしか出来ない。
結構続くのだろうなと思ったけれど、道はまだまだ綺麗だったからか山と山の間に大きな切れ目を見つけて、ちょうど道もそちらに続いていたの、そちらへと切り替えた。
琵琶湖を離れる前に、バカーと月見里が声を張り上げた。だが、昨日と同じく木霊が返ってこない、穏やかな湖。
こちらもクラックションを鳴らしてみたが、やはり返ってこなかった。
本当に静かで、自分たちがいなくなってもここに横たわり続けるのだろうと臭い言葉がうっかり出そうになった。
背中に琵琶湖を背負っていたはずなのに、それもやがて見えなくなってまた鬱蒼とした緑の中に埋もれてしまう。
結構、大きな隙間かと思っていたのに、近づいていくほど狭まっていくように見えた。
そして、また土砂崩れ。
「またなの?」
「トンネル作った方がマシだな」
「私は登る派」
ああ、ここも山になってしまう途中であると、月見里の言葉聞いて思った。当てが外れたと、また迂回。
最もマシな道に逃げつつも、やはりバイクを押して登る運命も変わらず、倒木を斧で割る運命も変わらず、ただ前よりも少しだけスムーズに進んだことのみしか違うところはない。
そうして、道を拡げた先には、どうしてもっと広い草原があるのだろう。
山に囲まれた草原。まるで山のへそのようであるかと思ったが、いくつかの住居が墓石のように残っている。
その頃には墓場参りするくらいにはちょうどいい昼頃。
「街の方へ行ってみるか?」
「当分はいい」
「もしかしたら、貴重な物資があるかもしれないぞ」
「それでお腹壊されたら嫌だし」
死なれても嫌だしと、その後消え入るように呟く月見里。
「……そうだな」
だから、建物の少ない方へとバイクを走らせた。
先へ進んでいくと、またやはり平原の先に森が詰まっている。まだまだ道はあるようだが、あまり行きたいとは思えなかった。
アスファルトが気持ち多めの道にバイクを止めて、一度散策してみる。そうすると、ちらほらと家だったものがあって、壁だったものがあって。
「あれ?なに?」
そして、石碑を見つける。
「関ケ原古戦場?」
ボロボロになった布切れが地面に埋もれ、墓名の代わりにそんな言葉があった。そして、こびりつくように、つわものどもが夢の跡と下手くその文字隅っこにくっついている。
それがくっついたとて、ここがいったいなんであるのかは分からないけれど、隣にいる月見里は妙に興奮していた。
「すごい……!本当にあったんだ」
というより、震えている。感無量っていう感じで、身を震わせている。
「関ケ原って何か知ってるのか?」
「当たり前じゃん!天下分け目の合戦が行われた場所だよ!?」
それほど、食い気味に言われても分からぬ。
「日本の未来が決まった場所だよ!?」
キャラ崩壊するほど、まくし立てられても決して分からぬ。相当なマヌケ顔をしていたのか、月見里の上がった眉はだだ下がって、落ち着いた顔に落ちた。
加えて、ため息。
「悪いな、さっぱり分からん」
「私、よく読んでたじゃん。あの葵将軍っていう漫画のやつ」
それを聞いてもさっぱりわからぬ。すごくしょぼくれた顔をしても、バツの悪さがあるだけで何も思いつかない。
ただ、いつも鼻息を荒くしながら読んでいた漫画があったので、きっとそれのことなのだろうか。
「もしかして、あのよく読んでたやつか……」
「……」
「ああ、いや、悪い」
「……悪いと思うなら、チャンバラごっこして」
チャンバラごっこというのは何かいまいちわかっていないけれど、とりあえず首を縦に振る。こうなったら、首を縦に振るしかないことぐらいは分かっていた。
こちらが首を縦に振るのを分かり切ったように、棒を渡される。
彼女も同じくらいの棒を広い、ついて来いとばかりに草原の方へと歩く。
なし崩し的についていくことになったが、棒切れで何をするというのだろう。バイクが豆粒のように小さくなった頃、ようやく立ち止まってこちらに棒を突きつけた。
「じゃあ、私が東軍で、そっちが西軍ね」
「あっ、ああ……」
そこでようやく突き出した棒は刀の代わりに気付いた。いつの間にか、西軍にされている。差し出されたのは刀、ならば自分は棒を銃にする。
「カイコク――コウフクシナサーイ。パーン、パンパン」
西の人間に早変わり。教科書で見たとおりを演じてみるが、月見里はジト目で見てくる。
「……あー、ジョオウーヘイカバンザーイ!ドドドドド」
ライフルではなく、マシンガンに代えて応酬。撃たれた人間はハチの巣になることだろうが、月見里は白けた目をして、俺が針の筵。
「なにしてんの?」
「いや、西の人間。ほら、あれにも書いてるだろ?」
苦し紛れにここまで進んできたときに見つけた石碑に指した。
「あそこの……なみらん?と日本の戦没者慰霊碑って書いてるだろ」
「ポーランドね。全然歴史が違う。もっと古い方」
「……そうか。それで、どれくらいの古さか聞かせてもらってもいいか?」
「数百年前。侍の時代。銃とかは……火縄は出てくるけど、銃はやめて」
「分かった。刀だな」
気を取り直して、銃から刀に持ち直す。月見里も刀を持ち直し、臨戦態勢。
「それで、西軍って何やっている人なんだ?」
「天下を取ってた人。東軍は、天下を奪う人」
「なるほど、ならば、錦の旗は我にあり」
「錦の旗はこちらにあり。神君家康の字を割った恨みは深い」
「なるほど、神君信長の字を割った恨みは深い」
「その人、もう死んでる」
「ああ、じゃあ、殿の仇!」
またジト目。多分、また間違えたやつだ。信長というビッグネームが負けた瞬間である。
「うん。とりあえず、尋常に勝負」
そして、打ち合い。
真剣ならば一発勝負とは思うが、棒切れなのでこちらは片腕だけで勝負。棒切れを本当に打ち合うだけだが、虚を突かれ肩に打とうとしてきて、防ぎ、こちらも負けじと胴を突こうとしたが弾かれた。
いったん、仕切り直し。場を離れて、剣を構えなおす。両者にらみ合い。目線からして、こちらの腕を狙っていそうだ。
また近づき、打ちあい。
「あ……」
勢い余って、月見里の刀を折ってしまった。折られた本人は素っ頓狂な顔を浮かべていたが、苦しい顔をして膝をついた。
「我が12年一睡の夢。ただ、ゆえに日いずる姿が背中にあるのを惜しむらく……!」
慌てて駆け寄ったが、どうして俳句みたいなのを読んでいる。
「あー……、五月雨を集めて早し、最上川……!」
「違う。これは辞世の句だから。死ぬ前の人が読むやつ」
「そうなのか?」
「それに言ってたの、最上川の流れが速くてすごいねーっていう話じゃん」
「そうなのか!」
小学生の頃に習って、何言っているのだろうと思っていたが、まさかそういうことだったとはと伏線を見つけた瞬間である。
「ん、仕切りなおそ」
「ああ」
地面に刀はたくさんある。月見里が一本拾上げて、仕切り直し。
また打ち合い。自分は月見里の腕を切ってやろうと思ったが、フェイントをかけられて腕を突かれた。
「あ……ああー、5・7・5」
「7676」
思い付かずに、じせーの句を俳句の原文のまま言ってみるが、月見里が冷たい顔で南無南無言ってくる。
しかし、チャンバラなので、いつでも生き返ることが出来るのだ。
「さあ、こい!」
「にっくき、怨敵め」
パチンパチンと刀をはじき、両者のものが割れた枝に戻るまで打ち合いを続け、辞世の句を詠み合った。
月見里は少なからず頬が解けていたので、楽しんだと思いたい。
終わった頃には、服は土まみれでよく見る謎の草木にまとわりついていて、それがどれくらいあるのか分からないぐらいには体が淡い夕焼けに染まっている。
「とりあえず、テントを立てておくか。バイクはどこだ?」
「左手の方にあったはず――ほら、あそこに黒いのあるじゃん」
「ああ、あれか。よし料理器具は用意するから、テントは頼む」
「わかった」
「動けそうにないなら言ってくれ」
「それは大丈夫」
確かに見る限り、後100戦しても問題ないぐらい溌剌に見える。自分はもうクタクタである。いろいろ使ってない筋肉を使ったせいで、背中が痛い。
「そういえば、月見里」
「なに?」
「西軍と東軍どっちが勝ったんだ?」
「東の方」
「じゃあ、史実通りか」
「だね」
つわものどもが夢の跡。87負け13勝。国が作れるぐらい月見里が勝った。
テントを立てて、調理器具を用意したころには、中途半端な夕焼けに染まる。薄暗くて、今が夕方なのか夜なのかどっちつかずで、何の缶詰を食べるかさえ決まっちゃいない。
無性に塩気が欲しくなるが、琵琶湖の家から盗ってきた塩をなめるというのも、味気ない。また、東台のレシピをパラパラめくりながら、参考になるところがないかとにらめっこ。
「コーンポタージュか……コーンの缶詰は腐るほどあるな」
「ポタージュがないけど」
「じゃあ、コーンスープ一択か」
スープといっても、ただ水とコーンを入れるだけである。後、塩胡椒少々。コーン以外は、琵琶湖の家のものである。
無駄に溜めてきた薪に火を点けて、貰ってきた深鍋でぐつぐつと煮てみる。あまりいい匂いはしない。
「コンソメの素あるけど、入れていい?」
「ん?ああ、いいぞ」
ありがとと言われ、ポチョンポチョンとコンソメの素が落ちていく。コンソメって一体なんだろうか、コーンの仲間だろうか。
なにかいいものなんだろうと適当に回してみると、スープの色が茶色に変わって途端に食欲のそそるような匂いに変わった。
「いいな。でも、これぐらいおいしそうならコーンだけというの味気ない」
「チキンもどきも入れてみる?」
「頼む」
ぼちゃりとチキンもどきが鍋に落とされる。そのまま混ぜてみると踊りすぎて身が解けてしまったけれど、香ばしい匂いに脂がのって食欲の底が抜けそうになる。
煮れば煮るほどおいしい匂いが濃くなっていくけれど、焦げた匂いがしてきて慌てて火から鍋をどかして互いの皿に盛り付け。
「今日は黒っぽいのなさそうだね」
「ああ、ちょっとは腕があがったみたいだな」
月見里は育ち盛りなので多めに渡しておいて、自分は並み程度にしておいた。もう自分は老いるしかないのだ。
「いただきます」
「ああ、いただきます」
合掌と共にがっついたスープはとてつもなくうまかった。今回は毒見をやらずに済んだらしい。
チキンもどきさえ、コンソメの味がしみ込んで旨味が増し、コーンの甘さが味にアクセントを与えている。
これがどうしようもないほどズボラな料理であるのは分かったけれど、それでも酷く美味しかった。
だからか、夕陽が完全に落ち切る前には、すっかり皿と鍋が綺麗になってしまった。
後は、夕陽の残りで食器を洗い、それも尽きた頃に、ランタンの光で歯磨き。シャカシャカと相変わらず子気味のいい音を二人で出している。
しばらくそれをして、一緒に吐き出した。
「ねえ……それ」
月見里がこちらの出した泡に、指を指した。白い歯磨き粉のはずなのに、地面に落ちたそれは腐った血のように黒かった。
「……ああ、多分、焦げたのがまだ歯に挟まってたんだな」
「……」
そして、歯磨きが終わった。肌寒くなってきたので、テントの中に入り、寝袋を被った。ランタンの光もなくて、ずっと真っ暗闇な天井が見える。ぼおーぼおーと、聞きなれない鳥の声が遠くから聞こえてきた。
暗い暗い天井、遊園地のあのコンテナを人を入れる缶詰にしたような部屋はまだ蝋燭とかランタンがあって大分明るかったことを、どうしてか思い出した。もう本当に遠くまで来てしまったのだ。
「なあ、月見里」
「うん?」
「ホタル……探してみないか?」
「……どうして?」
「……見たくなった。それだけだ」
「……いいよ、見つけよ」
「ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」
またゆっくりと瞼を閉じた。一体何の鳥が鳴いているかも分からないのに、体の底が抜けたように眠りに落ちた。