東台の故郷
東台は帰ってこなかった。
ブロック塀にあげていた荷物の近くにおらず、もしかしたら、バイクのところに戻っているのかと足早く帰ってもその姿はなく、もしかしたら入れ違いになったのかと書置きを残してから元の場所に戻ったが、いない。
ようやく、自分は東台がいなくなってしまったことに気付いたのだ。
端から端まで視界のすべてに入りきらないぐらいの広さの街。勝手の知らない街で、その上暗くなってしまえば、もう何もかもが分からなくなる。
すでにあたりは夕陽に染まっていて、だんだんと影を伸ばしている。
「とうだい!」
月見里と共に東台をしきりに呼んでみるが一向に返ってくるものはない。
自分の焦燥感に現実味を帯びて、楽観的な空気は冷めた。
「今何時?」
「もうすぐ――17時だ」
ポケットにねじ込んでた時計に狂いがなければ、もうすぐ夜。そうはいっても、夏に差し掛かる季節。18時くらいになってもまだ辺りを見渡せるぐらいの明るさは確保できるだろうが、それでもそこを過ぎればもう真っ暗闇だ。一時間ぐらいしか残っていない。
額に冷汗が流れ落ちた。どうして、俺はもっと早く探しに行かなかったのだろう。そんな後悔が胸をめぐる。
「月見里。ランタン持ってるか?」
「うん、持ってる」
「よし、それなら手分けして探すぞ。お前はバイク側の方面を探してくれ」
「分かった」
月見里の返事を背中に、そのまま二手に分かれた。バイクにすぐに戻れるようなところであれば、とりあえずは安全だろう。
しかし、本命は反対側の方だと思っていた。月見里には悪いが、まだまだ小さい子供である。
「何かあったら、すぐにバイクのところに逃げろ!」
走りながら振り返りそう叫ぶと、遠くの小さな光から揺らめきと共に月見里の声が返ってきた。彼女が手を振る姿がかろうじて見えるが、もはや光の方が目立っている。
「一時間たっても見つからなかったら、バイクのところに戻れ!」
目の前の道もやはり建物が密集していて決して明るいものではない。月見里に向けて声を捨てると、こちらはライトを取り出してその中に潜りこんだ。
そうすれば、また見たこともない街並みに潜り込んでいく。ここもどうせ同じ街並みではあったが、薄暗い中で見るそれはまさしく殺風景といえるようなものに変わっていた。
どこを見ても自分の見知ったものはない。徐々に勝手の知らぬところに沈んでいくのは『あれ』もいないのに不安を覚えた。
いくら新しく見えても昔から人のいなくなった廃墟だ。もしかしたら、どこかで崩落が起こっていて東台がそれに巻き込まれているのかもしれない。もしかしたら、建物の隅で血を垂れ流して死にかけているのかもしれない。
それが不安を助長させて、額から冷汗が止まらなかった。建物の中はもちろん、建物の隙間や、隅や、それこそ猫も入らなさそうな狭い隙間もこぼさず見たが、全てもぬけの殻。
「どこにいるんだ」
虚しくもそんな声が出てきたが、行き場もなく返るものもない。それでも、わずかな手掛かりを求めて、一つの隙間も見逃さずライトを押し当てて探り続けた。
それでも、東台はおろか、猫も杓子も虫一匹も見つからない。自分の叫ぶ声だけが響いていて、一つも音がない。自分の見ている景色はもしかしてすべて夢ではないのかと思えるほど、無味乾燥が赤々と広がっている。
ああ、糞。なんでだ。なんで俺はもっと早く気付かなかったんだ。糞、糞、糞。
「……」
そんなところで言葉を出せる気力もない。ただ黙々と残る建物を虱潰しに探して、とにかく影がありそうなところを手繰るように探しながら進んでいくが何もなし。
もしかしたら、押し入れにいるのではないか、天井裏にいるのではないか、はたまた床下にいるのではないか、そんなことが頭を巡り巡りループして、体だけは動くが見つからず、挙句の果てに石の裏にいるのではないかと疑問を持ち出したときにようやく自分が正気ではないことに気づいた。
「海――?」
そのころには、自分の目の前に先ほどまでいた海があった。
海は相変わらず穏やかななものだが、赤が青かいろいろなものが混ざって金箔のような色に染まっていた。空はもう夕日に塗られたときの様子はなく、海から逃げ出した青い色が混ざり合い透き通るようで薄暗いものが延々と広がっている。
「確か、逢魔が時って東台が言ってたよな……」
空の、いきなり壮大なものを見せられて、そんなことを思い出した。否、ただ途方に暮れただけである。嗚呼、本当にこれは夢じゃないのだろうか。どうすればいい。
そんな海を背にして、広々と広がる街並みを茫然と眺めていた。そんなことをしていてもどうしようもないことは分かっているが茹だった頭ではこれぐらいのことしか出来ない。
だが、それで多少ながら頭は冷えた。そうすると、熱くなって狭くなっていた視界の中に真っ赤な鳥居を捉えた。
「あんなところに……」
街を臨むような高台。あの鳥居からは街の端から海の端まで見ることが出来てしまうのだろう。鳥居の少し逸れたころに、うっすらとジャングルジムみたいなものが見えるが公園なのだろうか。しかし、そもそも鳥居なんてあっただろうか。
最初この海に来た時の景色と違うような気がして違和感を覚えたが、あそこに東台がいるようなそんな気がした。
「行かなければ……!」
そのまま走った。
いまだ夢見心地なのは変わらないが、あの鳥居まで行ける階段は確かにあった。とりあえず、目に入った道に突っ込んだ。
一瞬鳥居の姿が消えるが、建物の切れ目からは確かに鳥居が赤々と燃えていて、安堵する。それに追うようにして行けそうなルートを踏んでみれば、確かに鳥居に近づいていった。当たり前なのに、安堵した。
最後だとばかりに、なけなしの体力を使って道を駆ける。それでも、建物にいちいち阻まれ面倒くさい。
鳥居にあと一歩のところで、また阻まれた。左右と二手に分かれているがどちらに行けばいいのか知るわけもない。だが、建物にできた隙間の先を覗くとパイプと室外機越しに道が見えた。
気づけば、自分の手元が海にいた時よりも朧げになっている。急いで行かなければと道にもならないそれに無理やり体をねじ込んで、道を拓いていく。急がば回れというが、回り方を知らなければどのみちたどり着けないだろう。
壁のザラザラに肌が削り取られていくような痛みがあって顔を歪めた。こんなところ、確かに子供ぐらいしか通れないだろう。
自分のバカさ加減に笑いたくなるが、確かに自分の目の先の距離は向こう側に近づいて行っている。体を芋虫のように捩り、溺れた人のように手をバタバタと振り回して向こう側の壁を掌で掴んだ。そうして、すぐに身体が飛び出た。
「ここか……」
向こう側。平然と並べられたよく見た街並みの中に、ひとつ階段があった。鳥居へと続く階段がかなりの高さを持ってあった。
ここを上がれば彼女が見つかる。実際に目の前にしても、その確信は薄れることはなかった。バチンと緩みきった自分の太ももを叩き、階段を上がる。ただ、それだけでは、駆けあがるぐらいの気力は生まれなかったらしい。
こちらはゆっくりと階段をあがった。疲れ切ったためなのか、その足は重い。上に上がるほど重い。それでも、身体はガスが抜けたように軽くなるという奇妙な感覚を覚えて、頭はどうしてか冷えていた。
後はここを上るだけ。それ以上急ぐ気になれず、東台に何と声をかければいいのかと変な緊張感を覚えてしまって、むしろこれが一生続いてくれないかと思ったけれど、それでも自分の目の前に赤い鳥居が現れた。
それにお辞儀して、中に入っていく。なかなかに立派な鳥居だったが、それからちょっと先にこじんまりとした本殿らしきものがあって、規模は普通で、その面構えも想像内のよく見るような木造のものであった。
いったい自分はこれに何を思って緊張していたのだろうと安堵感を覚えたが、ひとつだけ変わっていると思ったのは、公園の遊具が見えたからだろうか。確かに、視線を少し右にずらすと公園らしいものが見えた。
神社の方に人影はなく、後残っているのはそちらしかない。
足を動かすと、動かした足が震えていることに気付いた。あそこにいなければもう他当てのあるところはない。もしかしたら、自分の確信は当てにもならず、あそこのどこにも東台はいないかもしれない。
近づく度、胸のざわつきが高まったが、それでも中に入るとようやく安堵感を覚えることができた。
東台がいたのだ。
「東台!」
彼女に呼びかけるが反応がなかった。
公園の様子を見ると、ジャングルジムだけではなく、ブランコとか、滑り台とかスタンダードなものが揃っているが、それに気にかける様子もなく彼女は街がよく見えそうなベンチのところに腰かけていた。
眠っているのだろうか、こちらの言葉に体をピクリとも反応せず、ずっと街の景色が見える方へと視界を固定させている。
いきなり起こすのも悪いかと思って、ゆっくりと近づいてみるが土と砂利の混ざったところだと否が応でもジャリジャリと音が鳴る。
なかなかに耳につくが、それでも東台は後頭部以外を見せることはない。
「東台――」
一刻も早く様子を見に行かなければならないような気がして速足で向かったが、彼女の隣にあるものに気付いて俺は足を止めた。
「……ああ、八雲。ここに来ちゃったんだね」
東台がこちらに顔を向けて、どうしてかひどく落ち着いた声音で呟いた。いや、俺が足を止めたのは、彼女の表情を見たせいだからだと思う。
いや、違う。彼女が時折覗かせるあの神妙な表情の正体にようやく気付いて、力が抜けたからだ。
「ここにいって、よくわかったねえ」
「……」
東台は隣にある拳銃を撫でながら、そんなことを言った。俺は声を掛けなかった。
それでも、彼女は態度を崩すこともなく、いつもの笑みを晒してくる。
「どうだった?私の故郷は」
そういう時、なんと答えたらいいのだろう、いや、どうやったら、この状況を日常に戻せるのかと逡巡していると言った方が正しいのかもしれない。
だから、俺はパンフレットにもあるような、ありきたりな言葉を探した。
「よかったと思う。景色、海、街並み、いろいろ――」
しかし、出てきた言葉はしどろもどろで、自分でも何を言っているのかまるで分らなかった。
それとは裏腹に、東台から出た言葉はひどく滑らかだった。
「そうよかった」
朗らかだった。憑き物が取れたような、ひどいものだった。東台のそれはカラ元気と呼べるものなのだと、その後に続く一間の沈黙が証明していた。
「ねえ」
重々しく口を開いて出た一つの言葉で、再び東台が息を吹き返す。
「ここさ、本当は私の故郷じゃないんだよね」
重々しく言われても、あのツアーの黄色い声で薄々とそうなのだと感じ取っていた。否、あれだけ整合性の取れないことを言われたら、嫌でも気づかされるのだ。
でも、俺は東台のイタズラだと思いたかった。
それでも、言い返せるものはなく。ただ、東台のからりと乾かした声色を黙って聞くことしか出来なかった。
「でも、名前だけは本当。海に囲まれているところじゃなくて、山に囲まれたところだけどね。こんなおっきいところじゃなくて、小っちゃくて狭い村だったから、みんな知り合いでさ、もう擦れた袖に名前がついてみたいな感じ。あっ、隅の方で陶芸やってるゲンさんだって」
そういって、東台は酷く柔らかく笑った。しかし、それは相変わらず、こちらに向けたものでもなく、かといって視線を向ける先でもない。
「もともと東京から移り住んだ人たちだったからかもしれないけど、だいたい同い年の子しかいなかったからみんな幼馴染でさ。どこ遊びに行くのも一人になることもなかった。学校も、放課後も、毎日一緒で一人の時間も思い出せないぐらい。すごくすごく小さな世界だなと思ったけど、でも、両手じゃ終わんないぐらいの大きな世界なんて結局なにも知らないことだらけでしょ。だから、私は知ってることばかりの私の世界が大好きだった」
朗らかに笑う東台。確かに、かつて隅っこにいた学校でも海辺でも人の顔と名前を一致させられない空間の中にいるのは肩身が狭いと思ったことは何度もある。
それでも、彼女の言葉にカクンカクンと首を振って肯定する勇気もなかった。
「でもさ、やっぱり街から遠い山の中だったから、出ていきなさいって国の人から言われちゃったみたいでね。みんなで中学にあがったぐらいの時に全員で出ていくことになっちゃって、ずっと一緒に入れると思ったんだけど、みんな違うところ行っちゃうみたいだったから――その時はすごく泣いてさ」
そういって、歯を見せてニッカリと笑う東台。
「でもさ、これじゃあまるで誰か死んだみたいじゃんってケンちゃんにツっこまれてさ、その時すごい笑っちゃって。そうなんだよね。スマホ一つで連絡できるしさ、いつでも連絡しあえばいいじゃんって。ああ、確かにって、そう考えたら全然悲しいことじゃないよねって。だからさ、散り散りになった記念っていって、大人の人たちも集めて写真撮って、それで皆でバイバイって手を振ったり、大人の人たちもブンブンって頭を振ったりして別れたんだよね」
冗談っぽく笑う、東台。最後の辺りはジョークだったのだろうか。また次の言葉を紡ごうとしている彼女は、それを聞くほどの隙間は作らせてくれないようだった。
「最初はねいろいろと連絡がきたんだけど、段々とそれも来なくなっちゃってね。中学3年ぐらいだったかな、それぐらいになるともう一月に一回来たらいいぐらいまで頻度が下がっちゃてさ。ポコンって着信音がうるさいって思えるぐらい。そのころになったら、気が合う友達が一人二人出来ちゃっててさ。私もあんまり気にならなくなったんだよね。むしろ、向こうでみんなも友達出来てよかったねって。でもさ、一生中学生になれるわけないじゃん?中学の卒業式の時にさ、また友達と別れるのが嫌でワンワン泣いたんだけど、高校入ったら、その子たちとも疎遠になっちゃって――なんだか、おかしくなっちゃうよね」
力なく笑う。もうウンザリしたかのような態度にも見えるが、同時に自分を小馬鹿にするようものにも見えた。
「でも、その時はそれが仕方がないことのような気がして、でも、体中を搔きむしりたくなりたいくらい、すごく寂しくてさ。その時に、皆と別れる前写真撮ったことを思い出して、あれどこにあるんだろうってアルバムの底を漁ったらあっさりと見つかっちゃって。まだあったんだって嬉しくなったんだけど、あれってなったんだよね。ただの写真だって……何も感じなくなった自分に気づいちゃたんだよね。もうその時には、一年間来るかどうかの頻度しかなかったからさ。きっと、そうなったら、当たり前だったんだよね。でも、それがすごく嫌になっちゃった」
そういって、また静かになった。それでも、俺は言葉が出なかった。乾かしきれず濡れた声になんと言葉をかければいい。
また、東台が口を開いた。
「ここ、ちょっとだけ似てたんだよね。故郷を離れた時の、あのバスの窓から一瞬だけ目に入っただけなのにどうして覚えてたんだろうぼやけてて何も見えてなかったのに。ああ、だから、ここが似てるって思っちゃったのかもね」
「――――」
「ごめんね。八雲、あの時はうるさかったでしょ?」
それだけ言って、また声が消えた。声の代わりに、背中を丸めていて、頭さえ見えないこちらからはあの中の声にならなかったものを身で抑えているように見えた。だから、俺は何も口にできないのだろう。
「やっと、私のすごくすごく小さい世界は無くなっちゃいました。だから、もうここでお別れ」
「さよなら、八雲。唯ちゃんにもよろしくって言っておいて」
そう一方的に別れの挨拶を告げられて、それでも言葉が出なかった。でも、どうして自分から言葉が出なかった理由だけが、困惑という感情で晒されていた。
いや、困惑は繕った言葉だ。俺は分からないのだ。丁寧に紡がれた言葉だというのに、俺は一体どういったものが籠められているのか声色でしか想像できなかった。ああ、だから、俺は頭がぼんやりとしていて、ただ彼女の隣に拳銃が置かれているという理由だけが、質量を持って自覚させられるのだと思った。
だから、俺は言葉が出ないのかもしれない。出せるほど、彼女のことを知らなかった。むしろ、何か口にしてもいいのか分からなかった。
「わかった」
ただ、そう言った。濁流のように頭から出てくる陳腐な言葉を抑え込んで、それを言った。東台から返事はなかった。
もう終わったのだ。我ながら察しているというのに、諦めきれず何か何か彼女にぶつけようとしたが、俺は座ったまま像のように固定された彼女を見つめて口をパクパクするしかなかった。そんな自分にイラついて地団駄を踏みたくなったけれど、そんな虚しい音を出せるぐらい頭に血は昇ってこない。
こちらは鉄球のように重くなった足を引きずり、その場を後にした。東台の背中が徐々に遠くなっていくのを、鳥居で遮られるまでずっと見ていた。
その後は空に視界を逃がして、不出来なゼンマイ人形のような足取りで階段を降りた。まだ空は海で見た赤かったり青かったりが滞留している。
そういえば、東台がこういう空を逢魔が時とか言っていなかっただろうかと、今更ながらに頭の裏で引っかかていたものを思い出すことが出来た。
なんでどうして、そんなことを今更ながらに思い出しているのだろう。そんなことを思い出すのなら、今からでも階段を這い上がってもう一回東台に会いにいって、何かを言うべきだろう。
しかし、そういう感情は湧き上がってこず。階段に一つ足を落とす度、自分が冷静になっていくような気がした。かき乱された頭の中が一つずつ元の場所へと戻るようなそんな感覚があった。
これが腑に落ちるという感情なのか。ならば、あの神妙な表情は彼女らしい決意の表情だったのだろうか。ならば、もう赤の他人の俺は彼女の決めたことを尊重しようと思う。それ以上の答えを持ち合わせてはいない。
もぬけの殻になった街並み。無駄に走ったせいでどうやったら帰れるのかを覚えていた自分は、地面に目をつけたまま歩いて、元の中鹿村ではない歓迎の看板のところへと戻り、残った階段を壁に手をつけながら足を引きずって昇った。
階段を踏み終えたことに気付くと、月見里がランタンを強めに揺らしてこちらに駆け寄ってきていた。
「おかえり、東台は?」
落ち着いた声色ながらも期待を込めた声。
「見つかった」
不安そうな顔に一つ、喜びを灯した月見里が体を揺らしてこちらの体躯の向こう側を何度ものぞき込んでいたが、もちろんそこに東台の姿があるわけもなく困惑の表情を浮かべている。
それを見て俺はまた後悔をした。いや、その所作ではなく、こちらの目を見据えたときの表情に後悔を覚えた。
月見里はその表情のまま、こちらに答え合わせを求めてくる。
「本当に見つかったの?」
「ああ、本当だ。だが、戻ってこない」
それを聞いたとて、ここに東台がいつもの笑顔をして帰ってくるわけでもなく、また二人だけになった。
月見里はいつもの淡白な態度では隠しきれないほど、眉を曲げて薄っすらと悲痛な表情を浮かべていた。俺と同じ表情をしていた。
しかし、月見里はまた眉を元に戻して、面影さえ見つからないいつもの落ち着いた表情に戻り、
「もう行こ」
何でもないような声色でそういった。
「ああ」
ならば、こちらはいつものどうしようもなく覇気のない表情に戻った。
出発の準備を始める。東台が全部荷物を取っていたらしく形跡一つない側車を手で払い、代わりに自分たちの荷物を置いて準備はそれほどかからずに完了する。そうして、月見里がバイクの後ろに乗り込んだ。景色を見るわけでもなく、シートをぼうっと見つめていた。
二人声を発することもなく。こちらは最後の悪あがきに街並みを見たが、胸にぽっかりとしたものがあるのを自覚するのみだった。
そうして、力なくバイクに乗り込もうとした時、銃声が聞こえてきた。街の方からだった。月見里も俺も気にすることもなく、エンジンを掛けそのまま出発した。
薄暗い赤色が道を照らす中、バイクを走らせた。アクセルも出せる分だけだして、これならばきっと耳に残る銃声は消えるぐらいの速度を出した。けたたましいエンジン音。しかし、取れることはなかった。
ただ、月見里がこちらの服を強く握っているのに気付いて、こちらはアクセルを元に戻しいつもの速度で走らせておいた。
帰りの道はもうわかっている。薄暗くなったそれにハイビームを浴びせかけて、帰路を縫う。それでもエンジンは相変わらずミシン機の音を立てていて、それ以外は珍しく何も聞こえなかった。ああ、そうか、東台がいないのだったとハンドルにかかる重みで思い出して、無性にむしゃくしゃする。それでも、東台に対しては怒りもなかった。
むしろ、どうしてか欠けたピースがはまり込んだような納得感に満たされてさえいる。ただ、遊園地に帰ってきたときにどう説明すればいいのかと、帰った後に起こるだろういざこざに辟易している自分がいる。
まだ拠点に帰るまで距離がある。時間はあるだろうと思いつつも、バイクの速度は心なしか上がっていく。
振り返ったころには東台のいた街が見えなくなっていた。
逢魔が時も消え、拠点のある山へと結局戻ってきた。東台がいなくなった言い訳を得ることもなく、山に戻ってきてからも月見里は黙ったまま、階段を上っていく。ガレージに一緒に入れてくれたりしていたのでいつもの彼女にも見えなくもないが、いつもと違い完全に口を閉ざすのはこれが初めてだった。
「月見里」
「……なに?」
「悪い。何でもない」
「……」
何か声をかけようとしたが、月見里の含みある返事に言うのを止めた。行きよりもだいぶ軽くなったリュックサックに足を引きずる要素もなく、疲労の感覚も麻痺しているようで息切れもなく、無言になる環境は非常に整いすぎている。
だからこそ、微妙な空気感の中、2人口を閉じて階段を上がるのみで、淡白な足音とユラユラと動くランタンの音が聞こえてくるぐらいしか様子は分からない。
そんな雰囲気を早く終わらせたいとばかりに足は速くなるが、それで解決するわけでもない。しかし、いつも行き帰りの際に寄っていた神社がそう時間もかからない内に見えてきた。今の心持ちでは到底行く気も起らず、そのまま素通りする。ここを越せば、後はもう時間もかからずに頂上の遊園地へと行けることだろう。
自分たちの昇っている階段に切れ目がもう見えていた。
とりあえず、今は帰ってただ眠りたい。ふと、空を見上げるとそれをするには最適なぐらい暗い。すでに夕焼けの残ったものは消えていて、すっかり黒く変色している。
星もなく、雲もなく。
しかし、月も見えず残った光がランタンに集まってきているのかと思うぐらいの真っ暗闇。
酷く違和感を覚えた。
「――こんなに暗かったか?」
これほどの手付かずな暗闇はあり得ない。もう遊園地の光が届くぐらいの距離に入っているはずだ。
「まだ電気つけてないのかも」
月見里は何ともないように言ってのける。こちらはどうしてか胸騒ぎを覚えた。
「月見里、ちょっと急ぐぞ」
「え?」
月見里の素っ頓狂な声を背後に残して、残りの階段を駆け上がった。
上がった先にあるはずの人工的な光はどこにもなく、もしかして道を間違えたのかと思ったが目を凝らすとなじみ深い観覧車がカラカラと輪郭を帯びている。
夢から醒めたように真っ暗闇に塗りつぶれていた。