線香花火が綺麗な理由
パチリパチリと火が跳ねる音と共に煙が夜の闇へと昇っていく。七輪の煙しかり、発砲後の銃口から立ち上る黒煙しかり、煙にいい印象を抱いてはいないが、ボイラーを潜って昇ってくる煙の臭いはどうしてか好きだった。
他のとは違って鼻腔に刺すようなものではなく、じんわりと粘膜を撫でつけてくるような穏やかなものだからだと思う。
そんなことを考えてみたけれど、やはり煙を直に被っていると鼻が痛くなってくる。ぽかりと口を開けていたバカ面を引っ込めて、ボイラーの隣に引っ込んだ。
やはり、違うらしい。微妙に違っていたりするけれど煙の臭いは似たり寄ったりな気がする。
壁に背をつけてみると、ふと頭の少し上にある木製の格子から白い靄が出ているのが見えた。石鹸と喧騒に混じった甘い匂いが穏やかな温かさを孕んでこちらの肌を撫でつけ、夜の中に溶けていく。
そんな喧騒に構うも無く、いろいろな虫の音色がおそらく目の先にずっと先にあるところからひっきりなしに聞こえてくる。
そうしてのぼせたような心地になったところに、頭の底を引っ張るような深い煙の臭いと湿った土の臭い。
風呂場から立ち上る湯気に身を洗われ、ポチャリポチャリと風呂場から聞こえてくる水音を耳の奥に留めて、月明かりに慣れた目で遠くの山を眺める。
多分、俺は雰囲気を味わっているのだ。
普段ならいつもは穏やかな気分で景色を満喫しているのだが、今は風呂場から漂う甘い匂いがシャンプーとかリンスの匂いではないことに気付いて心がざわついていた。
水音も聞こえる暇がないぐらいには、風呂場から姦しい声が聞こえてきて内容も猥雑なものに盛り上がっていて、壁一枚挟んで耳をそばだてている自分が情けない。
「うわぁ!」
「だ――」
「今更ながらにデカい」
「――っ」
月見里の叫び声が聞こえてきて脊髄反射のごとく起き上がろうとしたが、想定外な光景が視界に映ってしまったので急いで元の位置に縮んだ。まるで自分が理由を見つけて、覗きに行ったようなものではないか。
「ふふん、そうでしょ。湯船につかると――ほら、風船みたいに浮いちゃいます!」
「……私の入るところ、すっごい狭いんだけど」
「ダイジョブダイジョブ、こうおっぱいをぐって潰してあげると――ほらね」
「ほらねって……そんなに変わってないじゃん」
「そっかあ、じゃあ、背中向けたらマシになるかな」
「お湯が溢れるから、そのままジッとしてていい。でも、浮いてるやつは近づけないで」
「善処します!」
「って、だからもう!それで私の胸潰されると負けた感じがするからやめて!」
「えへへ、ごめんごめん。でも、唯ちゃんも骨格とか綺麗だし、将来、私よりもグラマラスになってるかもよ。いやあ、成長が楽しみですなあ」
「……そうかな?」
「うんうん、だから、今私から受けてる感触はその前借りってことで!」
「意味わかんない!」
湯船から出た湯気を通して、ガールズトークが風下にいるこちらに反響している。まるで耳をなめてくるような感じがして、俺はますます縮んだ。いや、縮んでおかなければならない。絶対に。
しかし、自分の頭の中では風上の湯船に晒されている姿をありとあらゆるシチュエーションを捏造していて、高ぶりがみっともなく増殖している。やめろ、やめろと言い聞かせてみるが、とめどなく過激化してくる彼女たちの会話と、湯気の匂いに抑えつけられない。
「――――っ!」
自分の後頭部を殴った。痛みは何よりにも勝るものである。みっともなく熱くなった頭は、痛みによって冷めていく。どんな経験でも役に立つタイミングはあるのだろう。
頭を殴ったはずなのに、どうしてか肘も痛い。短気は損気という言葉も思い出した。
「八雲大丈夫?今、すっごい音がしたけど」
「ああ、ちょっとボイラーにあっただけだ」
「え?危ないじゃん!やけどとかしてない?」
急に東台の声が大きくなったと思ったら、格子のところにピンクに火照った東台の顔があって驚いた。生理現象の行くまま飛び上がりたいところだが、理性の踏ん張りどころだと視線を夜闇に追いやって体をこれ以上にないほどアンバランスに縮めるしかない。
「もう東台、邪魔!」
「ああ、ごめんごめん。唯ちゃんも大丈夫かって」
「ああ、大丈夫だ。それより、湯加減はどうだ?」
「うん、すごくいいよ。ねえ、ゆいちゃん」
「ちょっと熱いけど、肌がピリついていい感じ」
そういう風に気遣ってくれているが、声色がどこか固かった。
月見里はどちらかというと、カップ麺みたく熱々の風呂で全身を短時間で沸騰させるよりかは、人肌よりも少し熱めの湯に肌がふやけるほど浸かっている方が好きなタチである。
(東台と一緒に入らせたのも不満の一因だと思うが)風呂好きな月見里が不満を言ってくるのは仕方がないことだろう。
「え?ほんとに?じゃあ、もうちょっと温めがいいかな」
「ああ。そうか、ならちょっと火を弱めておこう」
「ありがとー」
「……ありがと」
そうして、こちらは薪の何本かを引き抜いた。引き抜いたものは既に半分以上灰に溶けていて、どうせ後数十分程度の命であった。
まだそれほど時間が経ってないのに、火力を強めすぎた。残ってた薪を全部突っ込みすぎたのがいけなかったのかもしれない。
「あまり慣れたことをするべきじゃなかったな……」
そうぼやいてみたが、頭上からまた柔らかいとかなんだとか少なくとも自分がまだ縮まなければいけないぐらいの生温かい会話に潰される。
仕方なくこちらはまだ綺麗そうな薪を一本抜いた。それでも、次回に回せるぐらいには残っていない。
後は余熱で温まれば十分だろう。口実を見つけた俺はゆっくり入れよと一言声をかけて、縁側へと戻った。
縁側でいつもの空気を吸って、白熱電球の穏やかな光にコクリコクリと頭を預けそうになった頃、東台と月見里が軽やかな足取りで帰ってくる。
そちらの方に視線を向けてみると、目の覚めるような美人という言葉を思い出した。
一皮むけば全裸になるような薄着を張り付けて、白湯に洗われ血色のよくなった肌をこれでもかと晒上げている。
月見里一人であればどうってこともないのだが、そこに東台がいるとなると話は変わってくる。薄着では、豊満な体を支えられるわけも無く歩くたびに揺すぶられていた。
「ただいま、あがったよお」
「……ぁ」
何故俺は目を背けないのだろう。最低なヤツだ。しかし、いつも以上に揺れるそれを目で追ってしまう。最低なヤツだ。最低と言っておきながら、内の高ぶりに気味の悪い心地よさを覚えているのが本当にどうしようもない。最低なヤツだ。
「うわっ、もう布団敷いてくれたの?ありが100匹!」
「――――」
「うわぁ、やっぱり、このぼんやりした光いいなあ。落ち着くわあ」
「東台。おっさんみたい」
「うへへぇ、姉ちゃん。こっちこいやあ」
「キモ」
「ありゃりゃ、まいったなあ。じゃあ、後で枕投げしようね。みんなで!」
「なんのじゃあなの、それ」
「じゃあのじゃあ!」
「キモのキモ」
「――――」
「ねえ」
気持ちよかったあと布団へと飛び込む東台を背中にして、のっぺりとした地面に頭を垂らしていると。月見里が声をかけてきた。
彼女の淡白な声に、さぞ、じっとりとした目を向けているのだろうなと、おそるおそる頭をあげてみると澄ました顔で両手にクシを抱え上げているのを見て的外れだと気づいた。
「髪とかして」
そう言われて、それをこちらにゆっくりと手渡される。やはり、まだ自分の手になじんだ。
「久しぶりに入ったから、やり方おさらいしたい」
「……そうか、分かった。ちょっと待ってろ」
こちらが座れという前に、こちらの隣に座り込んだ。座るや否や、どうして足をぶらつかせる。こちらはクシのザラザラとした感触を確かめながら、布手袋を取ってこようと寝室のタンスへと赴きジップロックに入れたままのお目当てを見つけて外科医のようにはめてみる。実際、髪を触るのだから、精密作業であるのは間違いない。
「痛かったら言え」
「うん」
こちらは彼女の長い髪を踏まないようにゆっくりと後ろへと回りこんで、彼女の髪を梳かす。なるべく、髪を引っ張らないように左手に一房を抱いて、右手でゆっくりとクシを入れる。
久しぶりのことで、手がおっかなびっくりとぎこちないが、彼女に伝わっていないことを祈りたい。
「まだ、その手袋残してたんだ」
「アルコールは吹きかけたぞ」
「それは別に気にしてない」
いろいろと不服そうな声をあげるが、今は黙って作業を進める。そうしていないと、久しぶりすぎて手もとがくるって何本か引きちぎってしまいそうだったからだ。
「本当に痛くないか?」
「うん、全然。前と一緒」
「そうか」
しかし、こうやって彼女の髪を触っていると、段々と手つきがなれてくる。やはり、体は覚えているのだろうか。それもあるかもしれないが、彼女の髪を触っていると落ち着いてしまう。
どこをどう触っても絹のように滑らかな髪質のせいだろうか、確かに身だしなみのミすら覚束ない自分が月見里を振り子人形にさせずに済んでいるのは、クシ一つ入れるだけで最後まで梳くことが出来る髪質のおかげだと思う。
「結構伸びたな」
「うん、後もう少ししたら切る」
一房ずつ丁寧に梳かしていきながら、ちゃんと出来ているかと目を凝らすと彼女の髪が白熱電球の光を吸って艶やかな光沢を湛えていた。
同じものを食べているはずなのにこうも違うのかと、思わず自分の髪の毛を触ってしまう。やはり、月見里との髪質を比べてみると雲泥の差である。
俺の髪は紙やすりみたいにゴワゴワして、クシを入れるのさえ一苦労してしまいそうだ。どちらにしろ、適当に水と石鹸をかけて髪をかき回す我流なので、あまり縁のある話でもない。
そうとなると、東台の髪質はどういう感じなのだろうと、彼女の方に目を向けてみたがもう夢の中にいったらしい。見る限り、彼女の髪質も月見里と似たように見える。
「こういうこと久しぶりだね」
月見里がポツリと言葉を漏らした。淡白だった声が楽しそうに揺れているのを見ると、自分のブラッシングスキルはそれほど酷くなってはないらしい。
「髪を梳かすのは慣れたか?」
「……そんなに」
「そうか」
久しぶりという言葉に頷いてみせたものの、どれくらいの年季のものなのか思い出せない。ただ、あの時、頭身に見合わない長い髪を梳こうと、短い腕で何度も何度も髪を掴もうとしたが体も回ってしまって、結局目を回して床に倒れてしまい、悔しそうに泣いていたのを覚えている。
俺は多分悲しみを覚えるべきかもしれないが、これを思い出すたびにクスリと笑ってしまうのが自分の嫌なところである。
「またやってほしい」
月見里からポツリと零れた言葉に何かが通り過ぎていくような感覚があって、どうしてかこれから髪を梳くはずの手が止まってしまった。
そういえば、どうして俺は月見里の髪を梳くのをやめたのだったろうか。
「あっ!」
「うわっ!」
背後で東台の声が爆発して、2人飛び跳ねる。手を止めておいてよかったと胸を撫でおろすが、先ほどまで考えていたこともすっかり抜けてしまった。
きっと、それほど重要でもないんだろう。
それを示すかのように、こちらは既に東台が叫んだ理由が気になっている。しかし、聞くタイミングも過ぎ去ったような気がして、諦めて再び髪を梳くことにした。
そうしたら、東台は何も言わずとも、興味深げにこちらと月見里へと近づいてくる。
「二人とも何してるの?」
「月見里の髪を梳いてるんだ」
「ええー、いいなあ。私にもしてほしい」
「絶対ダメだから」
呆気に取られてたはずの月見里が落ち着いた口調でピシャリと叩く。とりあえず、落ち着きを取り戻したようで何よりである。このまま東台は発声練習してたことにして、髪をずっと梳いていても問題ないだろうとそのまま続行。
東台もこちらの様子に驚くことも無く、引き続きこちらが髪を梳くところをじっくりじっとりと見てくる。どうして、見てくるのだろう。それが気になって手もとが狂いそうになった。
それでも、髪の毛を引っ張らずに済んでいるのは、経験の功なのか。
「八雲、ちょっと貸して」
しかし、東台はお気に召さなかったようで、隣から彼女の手が伸ばされ、人間よりラッコに近い鳴き声をあげておっかなびっくり渡してしまい。月見里になんでだと睨まれ、目の置き場が無くなった。
俺も不服を申し立てたかったが、彼女の手捌きを見るとぐうの音も出なかった。
「うぃー、唯ちゃんの髪サラサラで柔らかくて気持ちねえ」
「キモイ」
月見里は東台の言動にそっぽを向くようにして、不機嫌な横顔を晒す。自分も同じ理由で月見里の髪を楽しんでいるので、東台の分も肩身が狭くなった。
一方、東台は何食わぬ顔で不思議な髪の梳き方をしていた。何をしているのだろうと興味深くじっと見ていると、東台が手もとを晒してくれてこ解説してくれるらしい。
「髪の毛裏って結構汚れとか溜まりやすくて、手入れしてあげないとすぐガサガサになっちゃうんだよねえ。ほら、石の裏とか脇の裏とかいろんなのが溜まってるでしょ?それとおんなじ」
「は?」
「ふふふ、ごめんごめん、唯ちゃん。唯ちゃんの髪の毛ってサラサラだけど長いから、歩き回ったりヘルメット被ったりするとすぐ絡まっちゃったりして、めんどくさいことになるからお手入れは本当大事だよ」
「ああ、うん」
褒められてたり貶されてたりいろいろとぶれてしまっているので、月見里も顰めた眉をもとに戻せずになんだか微妙な表情で強張っている。これがコミュニケーション能力というのかと一人納得。
それを表すかのように月見里はまた薄く朗らかな表情を取り戻していた。否、コミュニケーションというには口より手の方が動いている。
流れるようにクシが入り、一つ泳ぐたびに髪が透き通っていく。まるで脈打っているように見えた。
「すごい……」
思わず言葉が漏れてしまう。もっと見たいのに、おしゃべり好きな東台に掴まれたらその手を止められてしまう。そんな杞憂がよぎったが、夢中になった東台の耳には入らなかったようで胸を撫でおろす。
到底足下にも及ばない手捌きに、月見里の髪が期待以上に輝いている。
輝いているのだが、当の彼女はどこか眉尻を下げているのを見て、どうしてかホッとした気分になった。
いよいよ終盤に差し掛かる。ここまで来るとただでさえ綺麗な月見里の髪は鮮やかな橙色だというのに、蛍光灯の湾曲した陰影がはっきりと映るほどに透明感を吸ってまるで宝石のようだと思った。
端々で気品を感じさせる彼女だが、こうして身だしなみを整えられるといい所のお嬢さんのように見える。SNSのタイムラインでも見えない深い深い窓の底の底にいるような、きっと彼女はそうだったのだろうとそんな感じに見えた。
そうして、東台画伯は目玉に瞳を入れるように最後の一房にクシを差す。少しでも身にしたい。これは最後まで見なければならないと近づいて目を凝らしていたのだが。
「あっ!!」
耳の中で先ほどの声が爆発する。あまりの奇襲攻撃に、自分の頭から鈍い音が鳴り響いた。そして、直後に上から降ってくる木くずと刺さるような痛みに襲われて、柱に頭をぶつけたことに気付いた。ああ、畜生。今日はどうして後頭部をぶつける。
そして、今回も同じようにぶつけた音が誰の耳に入ることも無く、東台が驚いた顔で固まっていて、それに視線を合わす月見里は不機嫌そのものである。
「ああ……どうしたんだ?」
「花火やるの忘れてた!」
先ほどと同じような声量でそんな声がこちらと月見里に向けられた。花火という言葉にそれほど感情が込められるのかと舌を巻くものだが。
「それぐらいで、そんな大声あげなくていいじゃん」
ぽつりと零れた月見里の言葉に賛同するしかなかったのもまた事実。
東台はそんなことを意に介すこともなく、マイペースにいつもの表情を取りもどして息を吹き返した。
「ああ、ごめんごめん。まだ途中だったよね。はい、最後のひとふり」
そうして、こちらが目を凝らす暇も無く、最後の一房が終わった。やはり、神業である。先ほどの花火という2文字を忘れるぐらい。
しかし、月見里は覚えてくれたらしい。
「ありがとう……それで、さっきの花火ってなんのこと?」
「あっ!そうだった。ちょっと待ってて」
そういって、東台は部屋の中へとすっ飛んで行った。そうして、すぐにあれどこいったんだろうと慌てた声が飛んでくる。
一瞬だけ詫びしい気持ちになったのは縁側に取り残されたせいだろうか。しかし、静寂というわけでもなく、虫の声の中に鳥の鳴き声さえ参加して賑やかな雰囲気になっている。それでわずかながら疎外感を覚えているのもなんだか嫌だ。
「ねえ」
「なんだ?」
「これどう?」
月見里が小さく髪を振り回してみる。このまま夜風に溶けそうなぐらい、儚げで気品のあるものだと思った。
「いいな」
「そっか」
こちらがそういうと月見里に笑みが灯った。足どころか体を小さく揺らしながら、髪の感触を確かめてご満悦のようである。
「――――」
それを見ていると、自分は不安になってきてしまう。東台の手捌きを爪先から見ても、出来そうにないという感想しか作れなかった。高いレベルのものを見せられた後に自分がそれ以下のことをやるのも嫌だ。
「これぐらいのを練習しないとな」
「……こういうのは一回だけで十分。特別だった方が、うれしいし」
月見里が淡白にそう言った。月見里はそう思ってないときほど、感情よりも言葉を先に出す。
困った性格というか、どうして自分はそれを楽に感じてしまう。
「そうか」
そう呟いたこちらの声も、やはり夜闇に吸い込まれる。
しかし、そんな手ごわい夜の雑踏さえすべてを弾き出すような溌溂とした声が背後から飛んできて、びくりと体が反応してしまった。
「お待たせお待たせー!」
「あ、ああ、それのことだったのか」
月見里と共にミーアキャットみたく振り向くと、若干懐かしいものが目に飛びついた。
「うん、ぬいぐるみ屋さんで見つけた花火。余りを取っといたんだよね」
「それ使えるのか?」
「うん、アヒルくんにも使ったのがあるから、多分大丈夫!」
そう言って、ビニール袋に入った花火をブラブラさせているの東台を見て、そういえば彼女は川に飛び込んでなかったことを思い出した。
しかし、それは色とりどりで鮮やかな棒状の花火が膨らむほど入ってはいるもののどれも陽動で扱えるようなものではない。
「すまないが、それは」
「これ使って皆で花火しない?」
「花火?」
月見里がそう言った。言い方にしては、やけに興味を含んだような声色である。
自分は未だに頭の中が薄白かった。花火をするとはなんだろう。
「花火?陽動じゃなくてか?」
「陽動?あー、ゆいちゃんが街中で飛ばしてた感じのやつ?そういうのはないかもしれないけど、点火したら、ビャーって水しぶきみたいに出てくるやつはあるかも」
「やってみたい」
東台の言葉に未だ混乱していると、月見里が声をあげる。
「じゃあ、やろう」
何か取っ掛かれるものはあったが、なんの事かが見当がつかない。しかし、月見里が興奮気味になっているのをみるとそれしか言葉が思い付かなかった。
「いえい。じゃあ、用意しちゃうね。えーと、火をつけるようのろうそくと――あっ、今って井戸つかえる?水使いたいんだけど」
「ああ、それは俺が持ってこよう。小さいバケツでいいか」
「うん、ありがとう」
そうして、流されつつもこちらは月見里のランタンを借りて、水を取りに井戸へと向かい。そうすれば、バケツがあるかと思ったのだが、影も形も無かったので草木にやる用のジョウロに水を入れて急いで戻ってみる。
これで足りるだろうかと戻ってみると、蝋燭一本では足りないぐらい和気藹々と「花火」の準備をしていた。
「戻った」
「おかえりー」
「これで足りるか?」
「うわぁ、ゾウさんのやつだ。かわいい!うん、全然大丈夫」
「そうか、よかった」
「ありがとね。じゃあ、お礼にはいこれ」
そういって手渡されたのは、棒状のやつだ。そういえば、これをアヒルのおもちゃに巻き付けて陽動をしようとしたことを思い出す。結局、あれに効果はあったのだろうか。
「ほら、火をつけて」
「ああ」
近づけられた蠟燭の火にそっと花火の先端をかざすと、光の粒がチリチリ溢れてきたと思ったら、出口を求めんとすぐに噴き出してきたので慌てて2人がいないところへと向けた。
自分の手もとから濁流のように光が流れて、地面で跳ねて踊りだしかと思ったが嘘のように消えて行ってしまう。
そのことに一抹の哀愁を覚えるけれど、一体これを見てどうすればいいのかと戸惑う以外どうすればいい。それでも、こちらの背中の後ろで覗き込む様に見ていた月見里と東台はこちらとは対照的な表情をしていた。
「おお、やっぱりきれい」
落差に不思議な感情を抱いたものの、花火の方も勢いが弱まってきたかと思ったら隙も無いうちに光が消えて、光のカスが弱々しい赤い光を灯して、再び夜の闇に戻った。
すべて終わった後に、訳も分からず哀愁が残るのはなんだか嫌だ。哀愁があるところ、思い出というものがあるもので、いつしか陽動と称してアヒルに花火を巻き付けたことが呼び起こされる。
巻き付けた時の苦労を考えるとあんまり効果がなかったので、いい思い出にはなっていないと言いつつ、懐かしい気分になるのは今生きているせいだからだろうか。
「私これにする!」
月見里は気に入ったらしい。意気揚々と袋から花火を取り出すと、躊躇も無く着火して火の粉を散らす。
飛び散る光の粒は自分のよりも鮮やかで、万華鏡のように色を変える。嗚呼、確かにこれは綺麗だ。
「見てみて、忍法。人間ネズミ花火!」
「お、おい」
間髪入れることもなく、目を輝かせた東台が別の花火に火をつける。ロケットみたいに火を噴き出して飛び上がりそうな勢いだが、あろうことか東台は二本持って踊るように全方位に振り回している。
「や、やま――」
止めようかと思ったが、月見里も月見里でアダブラカタブラと魔法使いのように、花火を振り回している。
ハラハラさせられるような行為とは思うのだが、濃厚な光の粒が彼女の体を纏うようにして脈動しているように見えて麻酔がかかったような不思議な気分になる。
「ねぇ、見てみて、二刀流!」
「ああ、すごいな。月見里」
「ふふん、こっちなんて――どうだ!一本流」
「一本流って普通じゃん――って、三本束ねてる……!?」
「どうだあ。これならへし折れないぐらい、3倍楽しめる!」
「フン、そうくるなら、私はこうする」
「えっ、嘘……逆手――まさか、あの忍者持ち……!」
「月見里。東台。危ないことはやめてくれ」
はーいと二つ分の返事が返ってきた。暴れ狂っていた光も多少落ち着きを取り戻したので、きっと気を付けてくれたのだろう。
どうしてだろう。俺は、目の前の光景を見て遊園地の回転木馬を思い出した。きっと、あの鈍い色の中にはこんな煌びやかなものがあったのだろう。 きっと、これぐらい楽しそうな笑い声があったのだろう。
行ったことも無い遊園地に思いを馳せるという馬鹿げたことをしつつ、こちらも違う花火を手に持って、吹き出る光をブラブラと揺らしてみた。
しかし、やっぱり俺は見る方が好きなようだった。どうやら、俺はあの光の中に入ることは出来ないらしい。
そんなことをぼんやりと考えつつ、彼女たちが最後の一本をめぐる戦いを始めるまで、あちこちに踊る花火の光をぼんやりと眺めていた。
色とりどりの鮮やかな火の粒が咲き誇り、
そうして、勝者となった東台が歯噛みする月見里と一緒に花火を握って、さながら休日の朝に見られるような魔法少女みたく着火してカタカナ英語で火花を発動した頃、残った花火は小さな紐のようなものだけになってしまった。
「花火が脱皮したみたいなやつが残ったが」
「これ、多分線香花火だと思う」
「大当たりー。いやあ、やっぱりこれが定番だよね」
袋に取り残されたそれに月見里が教えてくれたが、こちらの首はまだ捻ったところから持ち直せない。線香と聞くとどうしてもお坊さんのしわがれた念仏とあの鼻の粘膜に引っ付くしつこい匂いが脳裏に浮かんでしまう。
しかし、これはどう見てもそれほど煙が出るようなものには見えないし、ジョウロに突き刺さる何本もの棒より火力はなさそうである。一体何が出てくるのだろうかとワクワクしている自分もいる。
「じゃあ、シメの花火いっちゃいましょうか」
東台は高らかに宣言して、最後に残ったそれをこちらと月見里に手渡した。このまま持ったままにするのもバカみたいなので早速火をつけてみた。
すると先端に小さな火の玉が付いたと思ったが、そこからぱちぱちと手足のように光が伸びていく。
「おおー」
その小さな弾けように思わず感嘆の声が漏れた。むしろ、花火をあれほど見た癖に、遅かった方かもしれない。
「八雲、気に入った?」
「ああ、まあな」
「よかった。八雲はこういうこじんまりとしたやつが好きなんだね」
そう東台から言われて、確かにその通りだとじっと光を見た。手に収められるほどのそれを見ているとどうしてか安心してしまう。滝みたいにドクドクと出てくる花火を見ていると多少の興奮を覚えるのだが、なんだかハラハラしてきて気が気でなくなってくる。
これが職業病というのだろうか。しかし、月見里はどこか物足りなそうな顔をしているので、俺が臆病なだけなのかもしれない
ちょうどいいのか、物足りないのか、三者三様なはずだった光の粒は球体に戻ると、そのまま雫となってポトリと地面に落ちた。
その足取りさえ掴めず、再び自分の足下が黒く塗りつぶされたのを見ると取り残されたような感じがして、寂しい。
「なんか、味気ない」
それは月見里も同じようであった。ランタンの光から僅かながらに彼女の表情が見えた。しかし、もう一人に映る表情はそれほど残念そうには見えなかった。
東台はまた袋から線香花火を取り出して、再びゆっくりと火をつける。また小さな火花が生まれるが、短い命である。
「でも、すごく綺麗でしょ?」
それでも、東台の言葉には頷いた。濁流みたいに流れる光よりも、小さな光がパチリパチリと飛び跳ねている方が目を引いてしまう。
予想通り、火花はすぐに地面へと落ちた。
「ああ、そうだな」
少しだけ間があいて、微妙な空気感から逃げるように袋を見た。まだ線香花火は人数分残っている。
とりあえず、最後まで使い切ってしまおうと、一本取り出して火をつけ、存分に光を見てやろうと縁側にあるランタンの光の縁を触れるぐらいのところでそれを眺めた。
そうすると、月見里も東台も再び参加して、3人で輪を囲むように線香花火の鑑賞会が始まる。やはり、自分の手もとで小さな火花が弾けているのを見るのは面白いとは思うが、その小さな光から覗く月見里の表情はどこか不服そうである。
「やっぱり、なんかいや。そんなに光ってないくせにすぐに消えちゃうの、バカにされてるみたい」
「ふふふ、やっぱりそっか、私も唯ちゃんぐらいの時はそう思ったなあ。すっごく美味しい飴を食べたのに、すぐになくなっちゃうみたいな感じするもんね。すごいヤな感じ」
月見里は不服そうな顔をしているが、首を振らないところを見ると多少ながらも共感するところがあるらしい。
東台は薄っすら笑みを浮かべているのに、線香花火をどこか薄幸そうに見えるところが、月見里の共感を呼んでいるのだろうか。
それを知るには、線香花火の光はいささか小さすぎて、口元が小さく開かれるのがかろうじて見た。
「こういうのはね、きっと終わっちゃうから、綺麗なんだよ」
そんなことを言った。かろうじて見える月見里の顔はまた不服そうなものになった。目の前にいるだろう東台が首を横に振ったのが見えた。
「ううん、終わるからこそ、綺麗なのかもね」
そんな言葉のとおり、最後の線香花火が終わる。
東台はなんとも寂しそうで、でも慈しむような穏やかな声色で言っていたことに、自分はどうしてか、病室で干からびた体に点滴を刺された患者を想起させてしまって妙にその声色が気になってしまった。それでも、線香花火の火は落ちた後に、どんな表情をしているのかもう分からなかった。そして、自分には動く口が無かった。
「――そんなわけないじゃん」
最後の抵抗のように、絞り出しされた月見里のか細い声が一つ。それが、やけに耳についた。彼女の声色に少しばかり怒気が含んでいたからだろうか。
「ああ、終わっちゃった」
東台の耳には彼女の言葉が入らなかったのか、そのまま立ち上がってあっけらかんとした態度で背伸びをしながら家の方へと帰っっていく。
家の明かりに照らされたころには、彼女の顔にいつもの笑みがあった。
「あれ――八雲って風呂入ったの?」
「あっ……ああ、水はちょっと浴びた」
「え?どうして、お風呂嫌いなの?」
「ああ、いや。今日は入る気分じゃなかったんだ」
「ふーん、あっ、もしかして、わたしの出汁が入ったせいとか?別に気にしなくていいのに」
「……別に、そういうわけじゃない」
「えー、ほんとに?」
「ああ、全く違う」
「ひひひ、ごめん、ごめん」
そんな掛け合いと共に家へと戻った。疑問を呈する隙もなかった。いや、きっと俺が考えすぎなのだと思えるぐらい、当たり前のように押し入れに手を突っ込んで俺たちの布団を敷いていく。昨日も敷いてくれたので、昨日と同じ状態になるのも一瞬だった。
「じゃあ、昨日と同じ川の字だね」
そんなことをいって、東台はとうっと特撮物みたいな掛け声をあげて布団へとダイブした。もはや、その姿に線香花火が落ちた時の東台は残っていなかった。
どうせ、あの声の正体を知ったところで、俺がどうこう出来るわけでもない。
月見里も何事もなかったかのように、いつの間にか布団の中に入っている。もう終わったのだ。
「電気消すぞ」
うんと二人から返事が飛んできたので、電気を消した。真っ暗闇に違和感を覚えるのはランタンの光が無いせいだろうか。
布団に寝転がると、2人からおやすみと飛んできた。月見里からすぐに小さな寝息が聞こえてきて、月見里も俺と同じく疲れていたらしい。
しかし、こちらには眠気がなかった。
外では未だに虫が鳴いている、一体いつになったら鳴くのをやめるのだろうと細かいことを気になるぐらいには冴えている。
いや、違う。先ほどの東台の様子が気になって、眠れていないのだ。だが、どうせこれもきっと細かいことだろう。毎日髪の一ミリ二ミリ変わる女の子である。そんなことを服装の一つや二つ変えられない鈍感な俺が果たして分かるものか。時折、あのような表情を見せてくるではないか、どうせ、癖みたいなものだ。鼻筋も喉もグダグダな自分がそんな機微を分かったふりをしてどうする。何もなかったフリをするのが正義なのだ。
「八雲、起きてる?」
月見里を挟んだ横の方から、東台の声が飛んできた。その声色はやはりいつものもので、反応が少し遅れてしまってアシカ声で応答。
そうすると、向こうの方でクスクスと笑う声が帰ってきて、頬の赤みが二重に塗りたくられるのも必然である。
しかし、すぐに東台から真面目な声色で言葉が飛んできた。
「明日はどうするの?」
そして、俺は質問に口ごもった。どうしても、俺は明日であるとか将来であるとか未来のことを聞かれると、どうしても頭がごちゃごちゃしてしまう。まともな人なら明日の予定ぐらい整理できて、すんなりと人に話せるのだろう。 だが、俺は遊園地に帰るありきたりな予定さえも、どうだろうかと躊躇している節があって答えが口から出そうになかった。
しかし、俺は相手がこちらの言葉を待たせているのかと思うなか沈黙を保ち続ける度胸も無く、結局はお決まりの言葉に行きついてしまう。
「わからない」
回答にふぅーんと、どうしてか何か期待が含んだ声色で返ってきた。
「だったらさ、私の故郷に行ってみない?」
「……約束の話か?」
そういうと、東台は気まずそうにうんという声が聞こえてきた。そういえば、約束の場所を聞いていなかったが、どうやら自分の故郷のことを言っていたらしい。今までそのあたりのことを聞こうとしなかったのは、きっと面倒なことを後ろへと後ろへと置こうとする自分の質の悪さがあったからだろう。
少しばかり躊躇いながら言ったことが、東台に伝わったのだろうか。彼女から真剣みのある声が返ってきた。
「うん」
「どこにあるんだ?」
言っていて自分の胸が締め付けるような感覚があった。これを聞いてしまうと引き返せない、今まで薄々と感じていたことをようやく自覚したのである。
もう口に出してしまって収まりはつかない。どうしてか自分の胸は軽くなったような気がした。心なしか、東台から返ってきた声も先ほどよりも軽くなったような気がする。
「……私も行き方をあんまり覚えてなくて……案内しながらじゃないと教えるのは難しいと思う」
「……まさか、東京の方に行くのか?」
「ううん、まさか。もっと近くて、もっともっとこじんまりしてるところかな。こことちょっと似てるかもね」
「ほんとうか?」
彼女の言葉を聞いて、まだこんなところがあったのかと驚愕してしまう。世界は広いという言葉をこんなに狭くなった世界で思いつくとは考えもしなかった。
「うん」
縁側から風が流れ込んでくるのを感じた。それに気付けるほど東台の声がか細くなっているのを聞いて、不味いことを言ってしまったのではと内心ハラハラしてしまう。
そのまま口を閉ざしていたかったが、やはり東台の声が向こうから漏れてくる。
「どうかな?」
東台の伺うようにして聞いてくる口調に、俺はどうしてか戸惑ってしまった。これほどまでにすがりついてくるような声が東台から果たして出てきたのだろうか。
少しぐらいうんでもすんでも声を出せばいいのだが、それさえ口に出すのもためらわれた。
しかし、どうして俺は躊躇しているのだろう。結局は約束のものを渡した後に、東台がいう故郷へと行かなければならない。それが遅いか早いかの違いしかない。
頭の中でいろいろと固まってきたころなのに、唇をガムのように反芻するぐらいでどちらの返答も躊躇してしまう。
そんな自分の優柔不断さに気付いたのか、東台はこちらの言葉を待つわけもなく、ねえと言葉を続ける。
「ああ、うん、ごめんね。なんでもない。粟田さんにあの絵本渡すのすっかり忘れてた。いろいろ急かしちゃってごめんなさい」
粟田という老人の名前を聞いて懐かしいと感じてしまった。まだ2週間も経ってないというのに、自分の人生の半分ぐらいの濃さがあったような気がする。一生、頭の中にへばりついて離れてくれなさそうなぐらい。
そういえば、あの人は特に期限を設けていなかったはずだ。確か、いつでもいいと言われた記憶がある。
正直、それが一番怖いのだが期限を設けなかったのは向こうの落ち度といってもいい話である。そういっても、怒られない話だ。流石に一年とか半年待たせるようなことは出来ないが、一か月程度なら目を瞑ってくれそうだ。これだけ言い訳を思い付くのは、俺が臆病なだけだ。
「ああ、東台?」
「うん?」
「……そういえば、川から引き上げてくれたよな。それで今日は魚の塩焼きとかいうご馳走も食わせてくれたよな。月見里も喜んでた」
「川から引き上げたのはゆいちゃんだよ」
「そうだ。でも、テントをたててくれただろ?」
月見里から荒く息を吐く音が聞こえてきた。まるで不服を言っているような印象を受けたが、あれだけ風呂に浸かって花火で跳ね回れば相当疲れるだろう。
「それも、唯ちゃんがやってくれたりして……」
「ああ……でも、うまい魚を作ってくれたのは東台だろ」
「それはあのお魚さんが元々美味しかったおかげかも」
「ああ……じゃあ、ありがとう」
「どういたしまして」
寝息混じりに笑う東台。それを聞いてようやくからかわれていたのは分かるのだが、狐につままれたような不思議な感覚が残っていた。
ここで自分の言いたいことを忘れて振り出しに戻っていればどんなに楽かと思っていたが、残念ながら覚えてしまっている。
「だから……その約束の場所に行こう」
「本当に?言い出しておいてあれなんだけど、別に先に戻ってからでもいいんだよ」
「いや、ただ単にまだ戻りたくないだけだ」
こちらの言葉を聞いてまた東台は笑ったが、自分にとってこれも本音だった。どうしてと聞かれても理由は思いつかないのだが、あのしわがれた真顔を思い出すと辟易としてしまう。柔らかな笑顔を鑑賞しすぎたせいだ。
「そっか」
東台の声は上機嫌に聞こえた。
「明日は楽しみだな」
そんなことが口が出た。言い聞かせるように言ってみたが、胸のモヤモヤはまだ残っている。しかし、東台から肩の荷が下りたかのようにありがとうと穏やかな声が返ってきた。
虫の音色が息を吹き返していた。自分の体がシーツの中に埋もれるぐらいに重く感じる。今の自分にとっては、眠気を誘うに都合がいい。
耳に残る東台の申し訳なさそうな声を思い出すたび、どれぐらいバイクで距離を費やせばいいのかと胃がキリキリと痛いがそういうのは明日まとめて味わえばいいだろう。
「あっ、そうだ。忘れてた」
先ほどとは裏腹に溌溂な声が東台の方から飛んでくる。
「え?」
「くらえ!トラトラライオンライオン!」
起き上がって様子を見る前に、東台が月見里に近づいたのを捉え、月見里の素っ頓狂な声と共にこちらの腹部に彼女の足がえぐりこまれ胃に物理的な痛みが刺さる。
「ごめん、だいじょうぶ?」
「……あ、ああ」
「あっ、やっぱり唯ちゃん起きてた」
「もお!変なタイミングで枕投げしなくてもいいじゃん」
そうして、月見里が飛び起きて東台に応戦する。しかし、どうして、枕を持っているのかと涙目ながらに思ったが、どうやら東台にぶつけるつもりらしい。
そう気づいたころには、それが東台の胸部に当たっていた。悔しそうにしているところを見るに、頭に当てたかったのだろう。しかし、どうして、東台も枕を持っているのか。
「おっ、やったなー」
東台の方はバッチリ月見里の頭頂部に当たった。身長差はこういう時に歴然としたものを見せる。月見里は勇猛果敢に枕で挑むが、これは止めた方がいいのだろうか。
しかし、どこからどう見ても、ウキウキとした顔をしている。月見里は若干ムキになっているようだが。
とりあえず、ほっておいてもいいだろうと高見の見物をしようとしたが、東台と月見里の流れ弾がぶち込まれる。
あっと驚いた顔をしたのも束の間、開き直ったかのように続々と枕を当ててくる。仕方がないので、こちらも枕を持って応戦。
そうはいっても、彼女たちみたくこん棒のように振り回すのではなく、盾みたく持っているだけなのだが。
当たってくる二つの枕をいなして、しかし、攻撃の仕方も分からず防戦一方である。それでも、負けずに降りかかる攻撃のすべてをいなすが、物量の前になすすべはなかった。とはいっても、ものがものなので当たったかどうかさえいまいちわからない。
とりあえずのとりあえず、自分もやっていて楽しい。とりあえずのとりあえず、この終わらぬ戦いに身を費やすのだ。
そうして、終わったタイミングもいまいちわからなかった。ひとしきり暴れた後、散らかった寝床に三人寝転ぶとそのまま寝息をたてて文字通りの休戦に収まった。
戦争でもなんでも一つ争いが終われば人間は正気に戻るもので、まさしく自分がそうだったが夢でも見ていたのではないかと思うほど何をしていたのか説明が出来ない。
聞こうとしても、最初の一発を放った張本人は既に前衛的な芸術品になって転がっている。
どうしようかと目をそれとなく動かしていると、月見里がこちらを覗きこむように見ていることに気付いて自分だけが取り残されたのではないことに気付いた。
「あれなにやってたんだ?」
「枕投げ。昨日からやるとかどうとか言われた」
そう言われて、なるほどとようやく自分の中から納得の声が出た。そういえば、小学生の時の林間学校か何かでクラスメイトが枕をぶつけ合う光景を見たことがあった。
その時は妙にソワソワした気分になったものの、邪魔をしたら悪いと思って眠ったふりをしたことを覚えているが、まさかあの遊びをしていたのかと今さら気づくとは自分はどうしてこんなに鈍いのだ。
「そうか、貴重な体験が出来たな」
「……んん」
しかし、月見里からは歯切れの悪い返事が返ってくる。
「どうした?」
「確かに、いつかやるって言われたけど、まさかこんな不意打ちでやられると思わなかったからムカつく」
なんとも悔しそうにいう月見里。しかし、どこか名残惜しそうにも聞こえてるので、きっと彼女も楽しんだのだろう。
「次は月見里が奇襲をし返してやれ」
「……ちょっと考えてみる」
そう月見里が言ったが、声色的にあまり乗り気ではないらしい。そうは思ったものの束の間、それほど経たないうちに月見里の欠伸のが聞こえて、どうやらただ眠たいだけらしい。
「なあ」「ねえ」
声がはもった。虫の声も止み、部屋に響く声がやけに胸の奥底に入ってくる。先ほどの寝息は東台のようだ。意外と東台の寝息は大人しい方であったようである。
「明日、東台のふるさとに行くんでしょ?」
「ああ……聞いてたのか」
「まあね」
どうして、月見里は知っているのだとと驚いたが、目線を合わせるとバツの悪そうな顔をしているのを見るにあの時も寝たふりをしていたようだ。
悪いやつめと茶化したいところがあったが、そのバツの悪さは俺のものだと思う。胸の中に嫌な高ぶりは多分俺しか持ってないだろう。
今更ながらに、月見里に意見を聞かずに決断してしまったことに気付いたのだ。どうして、枕をぶつけ合う前に気付かなかったのだろう。今からでも鉄製の枕で殴りつけてくれないだろうか。
しかし、月見里が怒っているようには思えなかった。
「よかったのか?」
「うん、別に」
「悪いな」
また沈黙。心地のいい違和感を覚えるのは、月夜の静かな光しか無いからだろうか。月見里はもう寝たのかと思ったが、まだいろいろとゴソゴソと動いていた。
「――ねえ」
「ん?」
「明日って、早く出るの?」
「いつも通り――では、だめか、朝ぐらいに出ればいいだろ。多分」
「どこに行くかって聞いてないの?」
また今更ながらに思い出した。自分はどうして大事な用事を忘れてしまえるのだろうか。どちらかというと、面倒くさいことを後回しにしてしまう自分のどうしようのなさが発揮されているだけだ。
他人に迷惑をかけることこの上のない厄介な質ではあるものの、月見里は文句を言ってくる様子はなかった。
「……悪い」
「いつものことだし…急ぐなら、起こして」
「悪いな」
「いいよ。別に、明日の心配は明日しよ……」
「ああ……」
月見里は背中しか見せなくなった。しかし、その態度にイラつきもない。こういう態度に救われているような気がする。いや、年季の入った性分なので、慣れたといった方がいいのか。将来、こんなことをマネしないでほしいとは思ってしまう。どの口がそんなことをいうのだ。
「おやすみ」
「……おやすみ」
小さく呟くと木霊のように月見里から返事が返ってくる。まだ起きていたようだ。
しかし、それも欠伸のようなもので、言い終わるとすぐに寝息が聞こえてきた。
子供は寝つきがいいなと思うものの、火照った体に夜風が馴染んでいるのが心地よくて自分も瞼を閉じてしまえばもう抗えそうにない。
こんな感覚が一生続けばいいと思った。




