オレンジ色の天井
ようやくできました。まだGW中だよね?遅くなって、すみません。
長くなりすぎたので続きは近日投稿します。
自分は今、どこにいるのだろう。
もう川底のざらざらした感触も無く、冷たい水が体に沁みこんでいく感触ももう無い。
背中に感じるのはゴツゴツとした岩の感触に、フワフワとした感触――。相反するものにただただ困惑するだけでなのに、どこか安心してしまうのは何故だろう。
まるで風を引いたときに見る夢のように、訳も分からずどこか深くへと入っていくような――。
ぼやけた目から時折、赤茶けたものがユラユラとはためいているのが見えた。
それはどこか懐かしく、しかし、どうしても輪郭がつかめず、靄のようになって遠のいていく。
訳も分からないのに、どうしてか、それが酷く嫌なことだと思った。
だから、何とかしてそれに近づこうとするが、体が磔になったようで上手く動かない。
動け。動け。動け。それでも、必死に手を伸ばし――。
パチリ、パチリ。
「――――っ」
しかし、掴むこともないまま、それが幻であったことに気づかされる。目の先に赤茶けたものが無くなり、見慣れぬ白い天井でもなく、淡いオレンジ色の――凸のように歪んだ天井があった。
「――テントか」
上半身を起こし、独り言ちて、少なくとも自分がどこにいるかに気づかされる。
ここは、自分のテントの中であった。その証拠に、小さい頃の月見里が天井付近に張り付けたウサギのシールをすぐに見つけることが出来た。
周囲を見やると、淡いオレンジ色の正体はやはりランタンであったようだ。それと同じく見覚えのある月見里のリュックサックが口を半開きにしてこちらの近くに置いてあり、隣り合うようにこちらのリュックサックと東台のリュックサックが置かれてあった。
「どうなっている?」
最後の見たのは、冷たい川底だったはずで、少なくともこのような光景が広がるようなところではなかったはずだ。暖かくゆったりとした景色の変わりように頭が理解を通り越している。
俺はまだ眠っているのだろうか。
否、それもどうやら違うらしい。自分の体が重く怠くなっていた。
背中にふんわりとした感触があることに気づき、自分の下を見ると寝袋が敷かれてある。
起きあがった拍子に、ずるりと体から抜け落ちたものがあって、見るとバスタオルが腰の辺りにあった。
ふんわりとした不思議な拘束感はそこから来ていたのかと思ったが、身に纏っている衣服もまだ湿っており、重い。どうやら、あれから時間があまり経っていないようである。
「誰かが、用意してくれたのか」
その正体は既に察しがついたが、巻かれているバスタオルは月見里の趣味ではない。
しかし、既視感はある。おそらく、鹿が好きな方だ。
パチリ。パチリ。
また石を潰したような破裂音が、外から聞こえてきた。おそらく、焚火の音。外には2つの見知った人影があった。
バスタオルを剥がし起き上がろうとすると、体中が痛む。そういえば、川の中でいろいろとぶつかった感覚があったような気がする。
身じろぎするたびに痛むにゆすられるが動けないほどではないので、外の様子を確かめようとランタンを手に持ち、入り口のチャックを開けた。
「あっ――」
予想通り、入り口を開ければ目の前に焚火があって、その傍に驚いた顔をした東台を見つけた。だが、月見里であるはずの人影がなく――。
否、こちらの腕元に抱きついてきた、月見里。
「……月見里」
なんの脈絡も、なんの躊躇もなくこちらに抱き着いた。そんな事を気に留める様子もなく無言で腕を絞めつけてくる。縋るようだった。
そんな彼女の身は、頼りげもなく酷く震えている。それほどまでに川の中が冷たかったのか。
そんな予測を立てたが、目の前で煌々と照る焚火にねじ伏せられる。
こちらが腕を少しゆすったせいか、腕を絞める力が一層強くなって骨が軋む。もう、これでは引きはがせそうにない。
こちらからでは旋毛ぐらいしか見えないが、その表情は何となく察しがついてしまう。一旦腕を預けることにした。
「よかったぁ。目が覚めたんだね」
「ああ、そうみたいだな」
月見里のひと悶着に妥協していると目の前に涙ぐむ東台がいたが、口から出てきたのは淡白な言葉であった。
昇っていた陽がすっかり落ちて、川の中からいつの間にか岩だらけの河川敷にいて、何が何だか分からず、彼女には申し訳ないが感情的なものが生えてこない。
「ひとまず……座ろっか」
「ああ、そうだな」
促されるまま椅子代わりの流木に座り、東台は焚火を挟み向かい合うような形で座る。
月見里はというと、こちらがゆっくりと腰を落としている最中に、我に返ったようにこちらの腕から手を放した。とはいっても、掴む先が腕から袖に変わっただけで、込められた力は先ほどと変わらない。
東台は心配そうな顔というか薄っすらと上品な笑みを浮かべて、こちらと月見里の二人を眺めている。
目を閉じる前とは違う景色に、用意されたテントや寝袋等々。聞きたいことは山ほどあるけれど、静寂に包まれている中、第一声を飛ばせるならばもっとマシな人生を送れている。
それに月見里が俯いて無言のままなので、黙っておいた方がいいのかと言葉が出なかった。
しかし、いつも以上に気分が落ち着かない。心なしか、いつもよりも自分を曝け出されているようなそんな気がする。
いや、文字通りだ。足元に当たる風が妙に肌についてピリつく。妙な違和感に手で探ってみれば――あるはずの感触がない。
視線を下に落とすと、履いていたジーンズは無く――――濃いめの体毛が生えた自分の足があって、夥しい数の赤ミミズがそこに這いまわっていた。
「――っ」
反射的に手で払うが落ちない。むしろ、触るたびに痛みを覚えて、自分の体の中に入ろうとしているのかと思ったがそれは違う。
恐る恐る摘まんでみて、それが傷であることに気付いた。
「大丈夫!?」
こちらの異常な行動に驚いたのか、東台も立ち上がり不安そうに尋ねてくる。
「ああ、いや、悪い……。月見里も。ちょっと見苦しいものを見せてしまったな」
「……別にいい」
そう言って頭を下げる。我に返ると自分の行動が恥ずかしい。ただ、東台から何故だか申し訳なさそうな声が出ていた。
「ああ、ううん。ごめんね。私が見つけた時にはズボンとか流されたみたいで……それで、ほら、意識がない人ってあんまり動かしちゃいけないって聞くし、服そのままにしてバスタオルを巻いておいたんだけど」
そう東台に言われて気づく。慌てて手で隠そうとするが、無駄にでかすぎて隠せるものも隠せず、逆に自分のマヌケさが曝け出されるのみだった。
足じゅう毛だらけで不潔このうえない。パンツは履いているので、そこは不幸中の幸いといったところだろうか。
いや、そもそもこちらをテントに運んだ際にこんな姿いくらでも見られたはずである。ああ、クソ、顔中が熱い。
「あっ、そんなに見てないから気にしないでね。意外とそういうの見るの慣れてるから」
「ああ……」
こちらの態度に察したのか、東台が気遣ってくれる。
そういう類の本を見てれば、否が応でも目にすることだろう。彼女の声に若干ロボットが混じっていたけど、そう思えば若干気が楽になった。
「……いろいろと大変だったみたいだな」
羞恥心に後頭部を掻きながらも、冷静に周りの景色を見るがどうにも場所が分からない。
川の流れる音が聞こえてくるので川辺であることは分かるのだが、焚火を残して後は真っ暗なのでどこかどこだか分からない。
そもそも、焚いた覚えのない焚火に、立てた覚えのないテント。目の前に映る東台の顔はどこか疲れているように見えた。
「……エヘヘ、まぁね。自慢じゃないけど、結構大変だった。2人とも遠くまで流されちゃって……2人を岸に引き揚げたり、テント建てたり、途中で目を覚ましたゆいちゃんが手伝おうとしてくれるのを止めたりね」
「最後のは別にいいじゃん」
「だめだよ、唯ちゃん。あんな気絶してた後に急に動いたら死んじゃうよ。自分の体は大事にしなきゃ!」
そのように諭しながらも、「気持ちは嬉しいけどね」とフォローを入れる東台。不貞腐れる月見里がこちらの裾を引っ張ているのを見て、初めて目が覚めたような感覚があった。
「八雲も、また安静にしてなきゃだめだよ」
「ああ……ありがとう。今日一日は動きたくない」
いや、身じろぎするたびに目は覚めているのだ。そうではなくとも、先ほどから風が当たって、足にある傷口が滲みて散々である。
きっと、川の中で瓦礫か何かで擦れたのだろう。それで薄い切り傷と厚い打撲傷で済んだのだから万々歳である。体毛は肌を守ってくれる役割があるというので、その機能を十分に発揮してくれたのだろう。複雑だが。
そんなことを考えつつ、月見里のまっさらな手を眺めた。
「お前、ケガ――月見里。手を見せてみろ」
「え――あっ」
こちらは月見里の返事を聞く前に、「えっ!どうしたの?」と驚く東台の声も無視して、こちらの裾を掴んでいた彼女の手を捕まえて、じっくりと眺める。
手のひら、手の甲、手首から、服で隠れた肘のところまで隅々。痣一つない綺麗な肌色が流れている。
ああ、よかった。ほっと、ため息がつきかけた――――。ダメだ。いや。まだ早い。
「次は足だ」
無言の月見里から、真っすぐ直立した足を差し出される。だが、ズボンを履いているので足首のところしか分からない。
隠れているところは医者らしい手つきで揉んでみて、分からない。自分は医者じゃなかった。彼女の表情を見るが困惑一色であった。
そして、我に返った。
「あっ、ああ、悪い」
「うん、いいよ。別に」
月見里が気まずそうに足を引っ込めて、こちらも気まずくなる。再び顔が熱くなったが、どうしても心配になってくる。
あれほど汚い川の中で、瓦礫と一緒にもまれて流されたのだ。1つや2つ程度の怪我で、体が腐っても不思議ではない。
「痛みはないのか――あっが!」
次は頭を見ようと立ち上がろうとしたときに、脊髄に稲妻が走り、悶絶の声をあげそのまま地面へと倒れる。まだまだ、隠された痛みがあったようだった。
その場所を上からさすられる。手の主は月見里であった。
「うん。おかげさまで、どこも怪我していない。ありがとう」
こちらを触る手つきとおなじく、優しげな声でそんなことを言われる。
「いや、それはお前の運が良かっただけだろ。俺はお前を川の中に沈めただけだ」
結局は、結果論。だが、こちらの出した言葉は四つん這いの状態で言えるほど様になったものではなかった。
それでも、出した言葉は本音だ。爆弾で逃げ道を確保しつつバイクで脱出するというアクション映画みたいな展開になるはずだったのに、いつの間にか川に投げ出されて、知らぬ間にテントに寝かされている。そのどこに自分が介するところがあるというのか。
こちらの言葉に月見里からの言葉が返ってくるもなく、穏やかに背中を撫でられる。なんとも奇妙な雰囲気だが、東台の声が前から飛んできた。
「コラコラ、安静してなきゃだめだよ」
「ああ、そうだな。悪い――がっ!」
また丸太に座ろうと体を起こそうとするが、今度は背中のあちこちに痛みが走って身動きが取れず再び悶絶の声をあげる。
「もう。だから、言ったのに。はい。体を起こすよ。唯ちゃんも手伝って」
「ん、わかった」
そんな会話が後頭部ごしに聞こえてくると、そのまま2人に両脇を抱えられ、丸太に座らされた。
まるで介護される老人みたいだと思ったが、痛みがあるだけで誰かが死ぬよりマシだろう。
でも、出来れば、明日には治っていてほしい。眠気もアドレナリンも切れ、針のような痛みに覆われた体をさすりつつ、そう願った。
「いろいろと、悪いな」
「さっきまで動けてたのに、火事場の馬鹿力が残ってたのかな?」
「どうだろうな」
「まぁ、体温めてたら楽になるっていうし、しばらく火に当たっといてよ」
「どちらにしろ、動けんからそうする」
「うん、どうぞごゆっくりー」
ちょっとした軽口を言い合って東台は元居た丸太に戻る。彼女の表情と声色からしてこちらを気遣っているように思った。
彼女の服には乾いた泥がこびりつき、ところどころに裂いたような穴を見つけて、いろいろ苦労させてしまったのが伺えてしまう。
隣にいる月見里も張りつめた緊張の糸が切れたのか、こちらの袖を掴む握力がだいぶ弱まって、こちらの会話に混じることもなく、こちらの腕に頭を預けている。
どうやら、誰も彼も動きたくもなくないようで、たたただ生きていることを実感することしか出来なくなって、パチリパチリと跳ねる焚火を眺めた。
しかし、東台は違ったようで、「あー」とだらしない声をひとしきり漏して、わざとらしく背伸びをすると、そのままの勢いで口を開いた。
「良かったあ。2人とも無事で。最初さ、全然見つからなくて、川岸ずっと歩いてて、橋がだいぶ小さくなっても、それでも見つからなくて。もしかしたら、向こう岸にいるのかもって探してみても、全然人影も無かったし――」
「見つけたとしても、向こう岸に行く方法無かったけどね」と冗談を言ってはにかむ東台。
さっきまで疲れ切った表情をしていたというのに、快活に切り替わって驚いてしまった。
でも、彼女の表情はどこか満足げで、自分の腹の中にあったものを全部出し切りたいようなそんな様子に思えて、黙って彼女の言葉を聞こうと見据える。
そんな思惑も気づくはずもなく、東台は話を続ける。そうすると、彼女の表情が今度は曇りだす。
「もしかしたら――ううん、その時の不安なことを言っても仕方ないよね。それでも、ずっと川岸を歩いて、気づいたころには流れてくる瓦礫がなくなって、行き過ぎちゃったのかもって思った頃に、八雲たちを見つけたの。あっ、そうそう、あの時の八雲ね、唯ちゃんを大事そうにギュッと抱きしめてて、私が唯ちゃんを引き離そうとしたら襲い掛かるんじゃないかって不安になるくらいだったよ」
「そこはいい。分かったから」
黙って聞こうとしたが、こちらに被害が来たので咳ばらいをして、先の会話へ進めさせる。頬が熱いのは、きっと焚火のせいだ。袖を強く引っ張られる感触も気のせいだ。
再び東台の目を見やると、優し気な目つきをしていた。
「ふたりとも仲良しだね。兄弟みたい」
「…………」
「ふふふ、ごめんごめん。それでね、ふたりをね。引っ張り上げた後に、唯ちゃんはすぐに起きたんだけど、八雲は全然ダメで、耳元で呼びかけたり、頬を引っ張ったいたりしたんだけど、うんともスンとも言わなくて。どうすればいいのか分かんなくて、ずっとオロオロしてたんだけどね。唯ちゃんが、八雲の胸とか口に耳をあてて、心臓と呼吸してるって私に言って。いやぁ、唯ちゃんは賢いね」
「いいから、早く進めて」
月見里が淡白な口調でヤジを飛ばす。東台の目を見やると、からかうような目つき。
「あちゃ、唯ちゃんもかあ。ごめんね。スキップ、スキップ。それでね、八雲をどうにかしようとしたんだけど、意識がない人をあんまり動かしちゃダメだって授業で習ったことがあったからさ――。でも、ずぶぬれで野ざらしするわけにもいかないし、それにいろんなところから血が出てたりして――とりあえず体が冷えないようにバスタオルを巻いといたの」
彼女の話を聞いて、やっと巻かれていたバスタオルの正体を確信した。俺なんかにバスタオルを使わせてしまったことを謝っておきたいが、東台の喋るペースの中にそんな言葉を挟む余裕がない。
「そしたら、唯ちゃんがそのままじゃダメだって、自分の服を破いて八雲の傷口に巻いたりして、必死に血を止めようとしててね。あんまり深い傷じゃなかったみたいだったから、すぐ止まったんだけど、固い地面の上で寝させるわけにはいかないからって、一緒にテントを立てて、寝袋しいて、2人がかりで八雲を運んだりして――いやぁ、ほんと疲れちゃった」
そういって、余韻とばかりにため息をはく東台。どうやら、全部出し切れたようで、丸太に身を投げ出している今の姿は、まるでしぼんだ風船のように見えた。
このまま寝てしまうのではないのだろうか、バスタオルどうやって返そうかと悩んでいるときに、左の引っ張れる感覚がぶり返す。
否、嘘だ。バスタオルについては、何も悩んでいない。
「月見里。東台」
「うん?」
「なに?」
「その、ありがとうな。2人のおかげで、川底で終わらずに済んだ」
そうして、こちらは立ち上がろう――としたが、脊髄が悲鳴を上げたので中腰でお礼を言った。そうすると、東台は寝転んだまま手を振り、
「うんうん、気にしないで、困ったときはお互い様っていうじゃん?それに、ほとんど唯ちゃんがやってくれてたし、お礼を言うのは唯ちゃんだけでいいよ」
そういって、月見里を指さした。
「ありがとう、月見里。お前のおかげだ」
「ううん、それは違う。ただ、運が良かっただけ。私は勝手にテントを立てただけだから」
デジャブを覚えるセリフを月見里は言って、胸を張る。やり返された格好になって、思わず笑みがこぼれてしまう。月見里も、東台も、笑っていた。
そうして、腹を抱えて空を見上げると、ようやく満月が上っていることに気付いたのだった。
綺麗だ。だが、生理現象というのは得てしてタイミングを考えない。
――ぐうぅうるううぅ
馬鹿みたいにデカい虫の音が腹から鳴った。
当然、彼女たちの笑い声もまた別のものへと変わった。
「そっか、そういえば、何も食べてなかったよね」
「ああ、みたいだな」
「全部終わったということで、晩餐だぁっていきたんだけどね……」
東台はなんとも歯切れの悪い声でそう言った。あまりいい予感はしないが、こちらの荷物に食料が入っているはずなので問題はない。
しかし、意気揚々と背中に手を回して空気の感触を掴むと、ようやく自分の荷物が川底に沈んでいることに気付いた。きっと、今頃は魚の共食いが見れるのだろう。つまるところ、こちらも表情は曇るばかりで。
「これが、今日のご馳走になっちゃいます」
そして、掲げられた彼女の細い手の中に缶詰が一つ。チキンもどきのパッケージが火の光に照っていた。
思わずカエルの鳴き声の出来損ないみたいな声が出たが、隣にいる月見里はもう覚悟を決めている様子。
「嘘だろ」
「うん、もうエイプリルフールは過ぎちゃったしね」
「ああ、そうか……」
まさか嘘だろうと思いつつも、東台がこちらに寄ってきて、見えてきたのは先ほどと同じチキンもどき。チキンの方がうれしいが、ツナはどうやってもチキンになれないのだ。
しかし、お腹は空いている。缶詰は既にフタが開かれた後であった。
そして、今、彩をつけるかのように箸三膳を四方を囲む形で刺されたところである。
なんといえばいいのか、食べ物の盛り付けというより、盛り塩とか儀式な何かにしか見えない。
「あー。それどうするんだ?」
「うん?皆で食べよっかなって」
どうしてと小首を傾ける東台。確かに普通の缶詰よりかは量があるとは思うが、箸三膳ごときで中身が潰れているのでどう見ても一人用だ。
「まぁ、いいじゃん。一応、ファミリー用だし」
「確かに、そう書いてるみたいだが……」
多分、意味が違うと思う。そういいかけたのだが、ほらと東台が言葉を続ける。
「よく言うでしょ?同じ缶詰をつつく仲だって」
「……あ、ああ」
その言葉に何か引っかかるものはあるが、そうだなと首を縦に振る材料しかない。
別に納得したらどうなるのかという話ではないが、歯切れの悪い返答しか出てこない。
不毛な葛藤をしていると、月見里が気まずそうに声をかけてくる。
「その、2人で食べて。私はお腹空いてないから」
「いや、お前が食わないなら。俺も食わないぞ」
「じゃあ、私も食べません」
そうすると、こちらが遠慮して食べないと思われて、3人不毛な譲り合いが繰り広げられてしまうのがオチである。
しかし、東台はそう言いながらも箸をつけているのを見るに、そのルートにはどうやら進めないようだ。
「んー、おいしい」
美味しそうに頬張る東台。どうして、湿ってるくせにパサパサの食感のものをこうも美味しく食べられるのだろうか。
月見里とこちら2人のお腹が鳴る。
そうして、なし崩し的に自分も缶詰を箸でつつく仲になったのだが、一つまみ程度で食事が終了。
月見里が2つ摘まむと缶詰の中は空っぽになって、一分も満たずに晩飯が終わる。口の中に残るツナの食感に何とも言えない空しさ。
「ごちそうさま――になるのかなこれ?」
「全然、食べた気にならない」
彼女たちも同様に物足りなさそうな顔をして、不平の声をあげる。
まあ、仕方がない。あるだけ、マシだ。気分を紛らわせようと体を回すと、周りの景色が様変わりしていることにようやく気付く。
平坦にせせらぐ川に、その向こう側に並び立つ雑居ビル。どうやら、満月の光に目が慣れたようである。
橋に落ちた時の惨状の面影も無く、なじみ深い景色は見慣れない。崩れた落ちているはずの橋は右を向いても左を向いても見つからない。向こう岸に標識らしきものが見えるが、文字が見えるほど明るくない。
こちら側にも遠くの方に民家が見えるが、そこまで行って確かめる気力も無い。
本当に遠いところまで流されたようである。どこか見たことあるのに場所の検討のつかない景色に違和感を覚えつつも、くすみのない青白い光に包まれて、どこか安堵感を覚える自分がいた。
肌にあたるのは、焚火で温められた穏やかな風ぐらいで、緊張の欠片も無い。
「『あれ』はいなくなったのか」
「ん?あっ、確かに。いないよね。そういえば。」
東台の今の今まで忘れていたような態度に、不思議な気分になった。あれほどまでに大量の『あれ』に追いかけられた後では、不穏な影一つ見えない景色の中で恐怖を抱くことの方が難しい。
「全部、流されちゃったのかもね」
「ああ、かもな」
ビルを飲み込むぐらいに溢れていた『あれ』はどこにいったのだろう。
「どこまで行っちゃったんだろう。もしかして、海とかかな」
川を眺め、冗談っぽく言う東台。果たしてどうだろう、彼女の言うとおり海にいるのか、それ以上の遥か遠くにいっているか、川底にへばりついているのか。
もう確かめようが無いのだろう。
きっと喜ぶべきことなのに、あまりにも現実感が無くて、ぼうぼうと聳え立つビル群を見てどうしてか一抹の寂しさが自分の胸に沸いた。
「……」
東台の冗談に反応することもなく、月見里は沈黙のまま。
この子も何か思うところがあるのだろうか。まるで彼女の抱える感情と同じように、肩に懸かる重みが増していた。
「八雲?」
「どうした?」
「ゆいちゃん。寝ちゃったね」
違った寝ていたようだ。月見里は小さな寝息をたてていた。もはや、安全地帯かであるように安心しきった寝顔である。指摘した東台もどこか眠たそうにしている。
ある意味、正解なのだろう。自分もまだ寝足りない。
「起きたばかりだが、こいつに歯磨きさせてテントに引っ込むことにする」
「うん、おっけぃ。私も眠いし……寝とこうかな」
そうして、短い目覚めの時間はあっという間に終わった。月見里を無理やりやじろべえみたいな状態にさせて歯を磨かせ、3人で川に痰を溢す。追い打ちに焚火で煮沸した水で口の中をゆすいで川に吐き出した。
テントの中へと入り、オレンジ色の光の下で寝袋を敷きなおして、川の字になって横になる。
月見里はやじろべえには似つかわしくもなく、寝袋に倒れ伏すとすぐに眠りに落ちてしまった。
そして、ランタンの光が消された、また真っ暗闇になって、隣の彼女の小さな寝息が鮮明に聞こえてくる。
こちらはというと、寝袋の柔らかさを感じるや否や、先ほどの眠気が嘘のように無くなり眠りに眠れなくなってしまった。
ずっと寝袋の感触を味わっていたせいなのか、それともずっと月見里に袖を掴まれているせいなのか。黒い天井を見上げていると、変な胸のざわつきが湧き出してきてしまう。
先のことを考えても仕方が無いのに。物思いにふけると、外から鳥の声が聞こえてくる。
ギャーギャーと煩いわけでもなく、笛を吹いているようなそんな鳴き声。
耳につくわけでもないので気にはならないが、どこかで聞いたことがあるような気がして、今度はそっちが気になって眠れない。
「フクロウ鳴いてるね」
一向に眠気が戻らないこちらに、東台から声が飛んできた。耳をすませてみれば、確かにホーホーと鳴いているような気がする。
「いいよね、こういうの。矢小間って山の上にあるのに全然鳥の声聞こえてこないし」
「いや、街中も似たようなものだ。周りに腐るほど森があるのに、『あれ』がいるようなところに物好きな鳥はあまりいない」
言ってて、街角を彷徨くハトや雀が頭に浮かんだが、彼らを目にしたのは『あれ』が発生するより前のことだ。一体、彼らはどこに行ったのだろう。
「そっか、確かに鳥の鳴き声とか聞こえなかったよね。動物みたのって、あの鹿ぐらい?」
「そうだな。鹿も鹿で見たのは今回初めてだ」
「初めて尽くしだね」
「ああ……いろいろとな」
「フクロウの鳴き声初めて聞いた」
「そうなの?てっきり、いろんなところ行ってるから聞いてるもんだと思ってた」
「いや、まさか、ずっと同じ道を行ったり来たりだ。あまり変わり映えしないもんだぞ」
「ふぅん、知らなかった」
そうして、また沈黙が生まれる。話下手な人間がいざ喋ろうとしても、すぐに終わってしまうのが嫌なところである。
当然、眠気なんて起こるわけも無く、なんだか、あまりスッキリしない。むしろ、不完全燃焼な気持ちを抱えるが、「そういえば」と東台から遅い返事をもらった。
「私の地元ならフクロウの鳴き声とかいっぱい聞こえてくるよ」
「そうなのか」
「うん。私の地元ね。ずっと、山の底の方にあって、見渡す限りの田んぼが広がっててね。夜になるといっぱい動物の声が聞こえてくるの」
「今どき珍しい場所だな」
「……うん、そうでしょ?私の自慢なんだよね。でも、真夏の夜とかは、カエルとかギギギ?みたいな虫の音とか五月蠅いけどね」
そういいながらも、彼女の言葉の中に苛立ちの声はなく、穏やかな声音であった。
うっすらと目に映る彼女はいつの間にか両手を頭の後ろで組み仰向けになっていた。
まるで夜空に浮かぶ夏の大三角形を眺めているようなそんな情景を思い起こさせるものだが、ここはテントの中、夏はまだ先。
そうして、東台はため息をついた。
「ごめんね、八雲」
「なんの事だ」
「約束。私の願い事を聞く代わりに、本があるところの倉庫のカギあげたでしょ?」
そういえば、そんな約束をしていたなと数日前のことを忘れている自分に気付いた。
今こうしてイレギュラーな東台を引き連れて3人旅をした理由だというのに、脳みそも川に浸かってふやけたらしい。
「すまない、それも川に落っことしたみたいだ」
「もう。後で頭の中に新しいの入れといてね」
「ああ、わかった」
忘れ切っていたことに、東台は不満げに口を尖らせている。月見里から培ったノウハウをもとに、こういう時ははいと頷いていたらいいのだ。
そして、今更ながら本が無くなっていることに気付いた。記憶を辿ってみても最後に見たのはモールの中だったような気がする。今頃、缶詰と一緒に流されているのだろう。
依頼失敗。紛れも無いバッドエンド。それなのに、こちらは焦りも悔しさもなかった。むしろ、満足感のようなものを覚えてしまっている。
ビルを飲み込むほどの大量の『あれ』に追われてから、いろいろと感覚がズレたらしい。
「ありがとね。八雲。本は川に流されちゃって、約束がダメになっちゃけど。いろいろ楽しかったよ。時間はかかるかもしれないけど、これぐらいの事出来たんだから、いつかは帰れると思う」
同時に、彼女のやりたかったことにようやく気付いた。ここまで言わなければ理解できないのだから、俺はとことん鈍感である。
しかし、空気を察する能力も一緒に沈殿した俺でも、彼女の方の約束をとっくに果たしてくれたのだと分かる。
それでも、損失しか残ってないこちらに気遣って気づかないふりをしてくれていることも分かっている。
「なぁ、東台」
「ん、どうしたの?」
「……いろいろと助けてくれて、ありがとう」
「ううん、別に大したことはしてないよ」
「いや、お前は命の恩人だ。俺と月見里の――」
東台には借りが出来た。
そんなことを思いつつ、安らかな表情で眠る月見里を見た。利息で暮らせるぐらいには借りがある。
「えへへ、そう言われると照れちゃうな」
「ああ、だから、借りは返す。その分で、東台の約束の分を払わせてくれ」
口にした時、頭の中に踏んだり蹴ったりという言葉が出てきたことは否めないが、でかすぎる借りを無視できるほど心は大きくない。
「……ふふ、ありがとうね。八雲」
柄でもないセリフを吐いて赤くなった顔を隠すが、彼女は優しげな声を後頭部に吹き掛けてきた。むず痒い。
「礼は言うな」
「じゃあ、代わりにおやすみ――」
「ああ――おやすみ……」
そうして、恥ずかしさを孕んだまま、沈黙が置かれる。
目をつぶり一間置くと、東台から寝息が聞こえてきて、どうやら有言実行したご様子である。
天井に青白い色を見つけた。もう深夜だったか。
月見里の寝袋がズレているのを見つけて、起こさないようにゆっくりと寝袋を戻した。それから、少しだけ彼女の手に触れて、再び瞼を閉じた。