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世紀末でも屑はクズ  作者: パクス・ハシビローナ
らすとおぶあす
57/90

さいごの作戦



「もしかして、ガソリンが切れたの?」


 月見里が恐る恐るこちらに聞いてくる。自分はようやく現実に気づき、背中に冷えたものを感じた。


「月見里、東台。バイクから降りてくれ」


「え?どったの?」


「ガソリン切れだ。最低限の荷物だけ持ってきてくれ」


「分かった」


 そういって、こちらはバイクのサイドにかけていたリュックサックを取り、地面へと吐き出しのコツていた缶詰数個と爆薬を詰めなおして前に背負う。


 2人からも、ボトボトバサバサと物を落とす音やリュックサックを探る音が聞こえてきていた。

 

「準備は出来たか?」


「私はOK」


「大丈夫」


「東台の荷物もらうぞ」


東台の返事を聞く前に、彼女から荷物をひったくる。バイクで距離は稼げたが、橋まではまだ半分ぐらいの距離。荷物を持たせては、東台の体力が持たなくなる。


月見里のも持とうかと思ったが、しっかりと荷物を背負っているのを見て止めた。


「走れ!」

 

 そう檄を飛ばすように言って、3人走った。


 アスファルトに吐き出した年季ものの地図が自分たちが起こす風に舞い上がっていく光景に思うところがありながらも、走った。


 荷物を背負っているためか、興奮でアドレナリンが尽きたのか足取りはどこか重い。バイクに乗っているときはあれほど近かった橋が、今では千里という言葉が出てきそうになるほど遠くに離れている。

 

 街にはまだ何の音も息を吹き返していない。どうか、このまま静かに眠っていてほしい。


 アスファルトを靴底で叩く音。荒い呼吸。聞こえてくるのはそれぐらいで、その願いはまだまだ保てている。


 もっともっとペースをあげたいが、後ろにいる東台が死にかけの動物みたいな呼吸を吐き出していて、むしろペースは落ちていく。


「が――」

 

 頑張れと励ましの声を送りたいが、無意味だと思って出た声を荒い呼吸に戻した。だが、見捨てられるほど、自分は心は強くないと声にする。


「呼吸を整えろ――東台」

 

 口から出てくる途切れ途切れの声に、自分も余裕がないのだと気づかされる。


 長距離走のように、小走りで東台とペースを合わせつつ、走る。東台も返事はなかったが、その代わりにヒッヒッフーと呼吸でこちらの言葉に同意した。妊婦さんの呼吸法で息は整うのだろうか。


 しかし、歩調はあってきている。でも、橋はまだ遠くに鎮座している。

 

 ただ、それでも、走るたび橋は近づいていく。止まっていなければ少なくとも目的地にたどり着ける。


 ああ、クソ、足が重い。服にまとわりつく生温い汗が気持ち悪い。体が酷く熱い。額から垂れ流された汗が目に入ってきて沁みる。


 それでも、走れ。バカヤロウ。


 顔をぬぐい、汗を振り切って調子を取り戻す。そうすれば、遠かった橋も半分ぐらいまでに近づいていた。



「――――――!」


 直後、瓦礫を砕く音が湧いた。ずっと後ろに引っ付いてきていたあの轟音だった。


 驚いて振り向くと、先ほどまで辛うじてそびえていたビルが見事に崩れ落ちていた。

 

 崩れたのは、ビルに大きな蛇が巻き付いたからだった。いや、違う。無数の『あれ』が固まって蛇の形になっていたのだ。


 しかし、こちらに襲い掛かってくる様子はない。

 

 ヘビは周りのビルに寄り掛かりながら、ただただ上へ上へと盛り上がっていく。まるでタケノコが成長していく様を倍速で見せられているような早さで伸びる。ついに、この地域一帯を望めるぐらいに聳え立った。


 一体、どれぐらいの物理法則をかけ合わせれば、あんなものが出来てしまうのだろうか。


 その様相の奇妙さにただ逃げるのも忘れて、ただただ茫然とそれを見上げていた。


 それは一時の間を置いて、てっぺんのあたりからゆっくりと動く。重くなった穂が垂れるようにしなり、やがて地面へと傾いた。


 その方向は橋の方で、まさに自分たちのいるところへと向けられて――。


「ああ、クソっ!来るぞ!走れ!」

 

 やっと、我に返り、こちらは出来る限りの大声をあげた。彼女たちも我に返り、ピクリと体を動かすと、そのまま3人走る。


 しかし、その直後に『あれ』はその姿に見合った咆哮をあげた、鼓膜を突き破りそうなほどの音。

 体全身が震える。怯みそうになったがここで止まったら終わりだと、ギリギリになった勇気を振り絞り足を動かす。


 そんな勇気を蹴散らすほどの破砕音が再び起こる。

 

 だが、橋までの距離は、ダッシュで行ける距離。後ろを振り向く暇もなく、ひたすら走る。

 もはや、生きた心地もない。体をめぐる血が氷水に入れ替えられたのではないかと思うぐらいの恐怖心に冷えるが、足だけは反比例するかのように茹だっている。

 

 必死に整えた呼吸ももう息絶え絶えだ。視界がぼやけているのは、拭ったはずの汗か、涙のせいなのか。音もなんだか霞んでいっているような気がする。まるで湖の底にいるような。


 だが、後ろにいる彼女たちの足音はまだはっきりと聞こえてくる。小さな足と地面を踏み慣れていなさそうなバタバタとした足音が。

 前方にある橋は徐々に鮮明になってくる。その鮮やかでふやけた赤色を輝かせる。


 こちらは彼女たちの足音を聞き洩らさないように耳を傾けながら、それ以上は何も考えないように足を進めた。



 そして、足に伝わる地面の揺れがはっきりとしてきたころに、足に違う感触を踏んだ。視界に色づいたものが少しだけ違うものになったことに気づいた。

  

 それは、まさしく薄い地面を踏んだような感覚で、視界に映るのは橋の造形。


 ああ、ようやく、たどり着いたのだ。


 だが、感動もひとしお。ゴールを迎えたマラソン選手に拍手を送る観客はおらず。橋に到達した後も、3人走る。

 

 ――橋の半分のところまで行ったら、この爆薬に火をつけてバァーンと橋を破壊して、『あれ』が溺れちゃってる隙に逃げちゃえばいいんだよ。


 ふやけた頭の中で東台の言葉が反響する。まだゴールではない。ボヤケきった目をぬぐい、荷物から爆薬を取り出した。

 

 今こうして考えても、荒唐無稽な作戦だと思う。だが、こうしていざ始めようとすると、無根拠な自信が沸いてくるのは何故だろう。少なくとも藁よりは頼もしそうに思えた。


 だが、まだ橋の半分に到達していない。まだ橋に足を付けたばかりで、バイクの足元にも及ばない走りに、それ以上の速度で追いかけてくる後ろの『あれ』に距離を縮められていく。

  

 このまま走っていても意味がないだろう――――。


「月見里、東台!先に行ってくれ」


 こちらはそう叫び、足を止めて後ろへと振り返った。


 真っ青な顔をした東台はこちらの横を通り過ぎるが、肝心の月見里は狼狽えた表情を浮かべ、足を止めてしまう。


「いいから、行け!月見里!」


 そんな彼女に吠えるようにそう叫び、服を掴んでそのまま後ろへと放った。出来るだけ、乱暴に放ってやった。

 月見里からは抗議の声はなく、走り去る音が返ってくる。

 

 そして、残る自分の手のひらには握っていた彼女の小さな手のぬくもりが、ガムのように引っ付いていた。


「あとで、俺も追いついてやる。だから、お前はちゃんと逃げてくれ」


 後ろ髪を引かれるような思いに、こちらはそう吐き捨てる。それが彼女の耳に届いているかどうか、分からない。


 これでは、まるで諦めの悪い男ではないかと、独り言ちる。出来れば、届かないでいてほしい。


「だから、もう俺を見るなよ」


 そう、願った。こちらは『あれ』の姿を捉え、睨んだ。先ほどまで大蛇の形をしていた『あれ』は、今では大通りの道をすべて茶色いものに塗りつぶし、放置車両も建物も関係なく染めて、町全体が悲鳴をあげるかのような破砕音を轟かせる。必死で走ってきたその道を、作ってきた距離を瞬時に溶かしていく。

 

 こんな光景二度と見れるもんじゃないだろうな。非現実ともいえる光景。だが、どこか既視感があった。


 そういえば、昔ニュースで似たようなものを見たことがなかっただろうか。変な揺れに目が覚めてテレビをつけたときに現れた、あの黒々と濁る水の塊が田んぼや車や家を洗い流していく映像に。

 

 あんなものと対峙しなければならないのかと、改めて自分の無謀さを突き付けられた。だが、『あれ』は目の前にいて、その対処法は自分の手の中にある。まだ風車に槍を突くよりかは、現実的だろう。


 そんな皮肉を頭の中で口にして恐怖を誤魔化し、手の中で震える爆薬に火をつけようとライターを取り出そうとすると、横から火が差し出された。


「なっ、やま――何してるんだ!クソガキ!」


 その正体を見ると、月見里だった。今は見たくなかったクソガキの姿。

 

 足がすくんだのかと一瞬心配したが、彼女の生意気な表情を見るにきっと違う。バカみたいな自己犠牲を振りかざして、俺を馬鹿にしているのだろうか。


「クソっ!バカ、ガキ!さっさと行け!死ぬぞ!」


 『あれ』が橋目前まで差し掛かろうとしている中、彼女に煮えくり返る腹の底から怒号を飛ばす。 


 だが、月見里はその場から動かない。むしろ、地に根を張って梃子でも動かぬ様子に見えた。


「お前、この――!」


「後から逃げるって言ったじゃん。じゃあ、私もその時に逃げる!」


 彼女はそう叫んだ。


 こちらの怒号と負けず劣らずの声量で。もはや、こちらに対して自信満々に宣告するかのような声音と声色だった。


「なっ……」


 開いた口がふさがらない。こちらは荒唐無稽な理由にただ絶句するしかなかった。


 何か言うべき言葉はあるはずで、早く彼女を安全なところへ行かせなきゃいけないのに時間は待ってくれない。


 『あれ』の波の先端がいよいよ橋に乗りかかろうとしている。


「貸して!」


 月見里が横からこちらの手にあった爆薬を掴み寄せ、止める間もなく火をつけられた。

 

 プラスチックで出来ているはずのそれは紙に火をつけたように燃え上がり、場違いな甘いにおいを漂わせる。


「投げて!」

 

 何故そんな臭いがするのかそれも分からず、月見里の言葉の通りにこちらは思いっ切り宙へと投げる。放物線を描きそのまま橋の根本あたりに着地する。


 しかし、爆発はしない。細い白煙が上るだけであった。場違いなほどにゆるゆると煙が躍っている。

 

 一体何が起こっているのだろう――――。状況が飲み込めず、茫然となった。


 もしかして、遅延式なのだろうかと。そんな疑いは、爆薬が『あれ』の足に潰されて潰える。不発。


 もう万策が尽きた。『あれ』は立ち尽くしているこちらに気をよくしたのか、先ほどよりもペースをあげて迫ってくる。


 広がっていた波は収斂して再びヘビのような形に戻り、巨大さを帯びえてくる。それを構成する一つ一つからギラギラと光る歯が見える。準備万端とでも言いたいのだろうか。


「――っ!走るぞ!」


 咄嗟にそう叫んだ。月見里もこちらの言葉に、共に走る。


「お前は、前を走れ!今度は嫌と言わせないからな」


「――うん」


 こちらの言葉に月見里は頷いて、前へと出た。


 轟音は高まる。もう寸前のところまで来ている。だが、その中から爆発の音が聞こえてくることはなかった。

 

 それなのに、どうしてか恐怖はあまり感じなかった。


 自分たちは人間誰でも死にたくないというが、もはや死が避けられてないと分かると張りつめたものは何もかも緩んでしまう。


 まあ、いいさ、生きるのを望まれていない人生だった。頭だけはいつも以上にスッキリしていて、不思議な気分だ。


 前方を走る月見里が、どうしてかゆっくりと動いているように見えた。結んだ髪を揺らし綺麗なフォームで地を必死に蹴っている。

 そんな彼女を見て、昔のよちよち歩く彼女の姿が重なった。いつの間に、こんな背が伸びたんだろうな――――。なんて、タイミングの悪いときに感慨深さを覚えるのだ。俺は。


 そして、もう少し先の方に一つ走る影があった。東台だろう。


 もし、ここで時間稼ぎをしたら、彼女たちは一体どれだけ生き延びられるだろう。俺が食われたら、どれくらい『あれ』の気が引けるだろう。どれだけ考えても答えは出てこない。

 でも、思いついた結末はどれも良いものではなかった。


 色んなことを考えている自分に気づいて、俺ってまだ考える余裕があったんだなと独り呆れてしまう。


 こういう時、たいてい走馬灯が流れるものだと思っていたが、見えてくるのは干からびた車と鉄骨剥き出しのアスファルト道路。いつもの風景しか見えてこない。

 

 それでも、自分の覚悟は思い出した。


 おもむろに腰の銃を掴んだ。


 もし、本当に逃げられない状態になったときは、苦しむ前に彼女の頭を撃って殺す。そんな覚悟を俺は果たさなければならない。

 

 だが、どうしてもホルスターから抜くことが出来なかった。


 月見里を――――本当に月見里をここで終わらせていいのだろうか。


 そんな考えが頭をかすめる。だが、もっともらしく迷ったふりをして後悔するのはもうウンザリだ。


 引き金を――――。


「あっ――」


 その時、月見里が瓦礫に躓き、転んだ。彼女の間の抜けた声が酷く耳を打つ。

 

 アドレナリンが流れ込んできた頭に、その一部始終が酷くスローモーションに映った。彼女の驚愕の表情が垣間見えるほどに。

 

 そして、ゆっくりとゆっくりと彼女の体が地面へと打ち付けられる。痛みのせいか、ショックのせいか、彼女は立ち上がる様子がなかった。

 

 しかし、『あれ』は無遠慮に近づいてくる。すでに、数歩の距離まで押さえられている。自分の自由が利くのは、後一手というところだろうか。

 

 絶体絶命。ありきたりだが、これ以上に絶望を味わわせる言葉はない。自分が死ぬまでの時間はもはや秒読み。


 だから、俺は――。


「月見里――!」


 転んだ月見里を掬い上げ、走った。


 どうせ助からないくせになんてことをしたのだろう。自分自身の優柔不断さの成れの果てを自覚しながらも、胸がすっとしたような気がした。


 ただ、自己満足だ。その末路が後ろから迫ってきている。


 残った力を振り絞って走るが、そんな付け焼刃が通用するわけもなく距離はジリジリと狭まる。唾の湿気が肌にあたり、背中に背負った荷物に幾度も幾度も無数の指先が掠る。


 しかし、それでも俺は銃を抜くことが出来なかった。もう月見里は殺せない。殺させはしない。

 だが、そんな決断をしても、頭の中には逃げ延びた後に食べ物もなく野たれ死んでいく彼女の姿がよぎった。


 もういい。もういい。彼女は賢い子だ。こんなバカな俺が考えるもずっといい未来を掴む力がある。未確定な未来なんて、こんな俺に分かりもしない。

 

 いよいよ最後の力もなくなった。全身から血液が抜けて行くような脱力感に襲われる。もう自分がどうやって息をしているのかどうかも分からない。維持できていたペースも急速に落ちていた。


 何度、覚悟を繰り返しても、月見里が食われていく姿が映し出される。俺は彼女が『あれ』に食われるのを眺めながら死んでいく覚悟は出来ない。したくもない。 

 

 意識もふやけていく中、ふと昔テレビで見た動物の姿が思い起こされた。


 巨大な爪を備えながらも、ただただ木にぶら下がって何をするでもない暢気でマイペースなナマケモノの姿。

 俺は当時それを見て何かを思っていたはずだが、もう思い出せない。そんなものが俺の走馬灯を飾るとは思わなかったと自嘲気味に笑って見せる。


 だが、それは今の自分にとって無意味なものではなかった。


 ナマケモノは自分が食われそうになった時、自ら全身の力を抜き相手にすべてを委ねるらしい。そうすれば、下手に抵抗するよりずっと楽に終われるからだそうだ。


 俺は残った搾りかすのような力を徐々に徐々に彼女を掴む腕に込めた。

 月見里はこちらの取る行動の理由を知ろうと、こちらに頭を向けようとしていた。だが、今だけは彼女の顔を見たくない。


 顔を逸らし、いよいよ彼女を投げ飛ばす――。


 


「――え?」


 その時、地面が揺れた。


 地震かと思ったが、直後体が宙に浮いたような感覚に襲われて、先ほど踏みつけていた橋が頭上に浮かんでいた。それが物凄い速さで遠ざかっていくのを見て自分が落ちたことに気づく。 

 

 直後、冷たい液体の感触。本能的に手足をバタバタさせて浮き上がった。


 定まらない視界からは濁った光しか見えない。どうなっているのか耳で様子を確かめるが、金属を砕く音や『あれ』の叫び声に埋め尽くされて混迷から醒めない。


 ただただ、自分たちは流されている。情報量が多すぎて、もはや何も分からない。身動きも取れず何も出来なくなったこちらは、ただ一つ腕に抱く月見里を思い出し、縋るように力を込めた。


 そこには確かに彼女の感触があった。こちらの腕を掴む彼女の手のぬくもりを感じる。


 しかし、平穏を取り戻す間もなく、全身が冷たい水の感触に沈む。とても深く、黒い感触が体を奥へ奥へと押し付けてくる。


 こちらは水面へと上がろうと足をジタバタさせるが、あまり進まない。そこでやっと身動きが取れていることに気付いたが、ズボンが重たくなって錘のようになっていて体の動きが上手く取れない。


 それでも、胸に留めた月見里を再び強く抱き、鉄の混じった泥臭い味を口内に押し込まれながら水を必死に蹴って、上へ上へとばたつかせ、やがて水面へと上がった。


 黒かった視界に太陽の白い光が差し解放感を身に浴びるが、すぐに絶望へと変わる。

 視界に飛び込んでくるのは、橋を構成していたはずコンクリート片や車の破片一色。


 流されないために近くの漂流物に手を掴んだが、自分の足掻きがこれで終わりなのだと気づかされる。


 視界の至るところに、『あれ』。『あれ』。『あれ』。夥しい『あれ』。


 こちらを見据え、未だ『あれ』は蠢いている。あのいびつな粘土細工のヘビのような姿で。


 上から次々と破片が降り注ぎ、幾度となくその肢体を赤く染めるが、そんなことに怯む様子もなく、周りに散らばる漂流物を伝いこちらに近づこうとしていた。


「っ!月見里、起きろ!」


 だが、こちらは動けない。代わりに彼女だけは逃がそうと呼びかけたが反応がない。冷えたものを感じて頬を叩くが、温かな感触と僅かな息があって、どうやら生きてはいるようであった。今、それは幸か不幸なのか。


 もうここでお終いなのだろうか。


 何度も反芻した言葉が頭に浮かぶ。そうすると不思議と自分の中から絶望は消え、代わりに覚悟を決めた。否、覚悟といっても死ぬ覚悟なので、結局は諦めなのだろう。


 最後はどうか痛みがないように。


「――――!」


 しかし、その時、悲鳴のような金属の甲高い音が鳴り響く。上を見ると橋の形を留めていたものがへし折れ、こちら側に落ちようとしているのが見えた。


 落ちる先は『あれ』だった。『あれ』の頭上に降り注ぎ、雪崩のようになって押しつぶしていき、『あれ』は声一つ上げることも許されず溶けるように消えていく。


 そして、大蛇のように蠢いていた『あれ』の姿は一片も残ることはなく、ただ代わりに赤い鉄骨の塊が取り残される。しかし、それも他の瓦礫と同じように流されていった。


 助かったのか。危機的な状況が文字通り洗い流されていったことに唖然するばかりだったが、自分たちの状況を思い出して陸地を探した。


「あっ、あそこか……クソ、遠いな」


 瓦礫の隙間から陸地が見えた。ビルのない2階建ての住宅群、疑うまでもなく自分たちの帰り道へと続いている。

 

 意を決してベルトもホルスターも外して、重くなったズボンを脱ぎ、掴まっていた漂流物を蹴り、水中を進む。錘を落とした足は怠さはありながらも軽快に動けるようになった。

 

 そうなれば、後は岸をめがけばたつかせるだけだ。これでも、泳ぐのは走るより得意な方だ。

 

 しかし、プールの水泳とは違い。やはり、水圧に体が押される。小さくて鋭利な破片が肌を引っ搔いていく。


 ただ、こちらは絶え間ない微痛に耐えつつ、月見里だけには当たらせまいと右腕でなるべく小さくさせて抱えこみながら、彼女の呼吸を確保するために横向きになって、もう片方の手で犬かきをして可能な限りスピードをあげる。

 

 やったこともない体勢に筋肉が悲鳴をあげ、慣れない水泳法に水が鼻腔や口腔にひっきりなしに流し込まれていく。


 それでも俺は先ほどの重たい気分がどこかへといって、胸に熱いものを感じていた。きっと、これが希望というものなのだろう。もしくは、月見里の体温というべきものなのか。


 冷たい水に晒され、皮膚を裂く何かの破片に、何度も体を打ち付け意識を鈍らせる瓦礫、そして、抵抗のすべもなく、体を奥へ奥へと押し込んでいく巨大な水流。


 街を破壊し尽くした『あれ』さえいとも簡単に吞み込んでしまった絶望を味わっているというのに、俺は諦める材料を失くしてしまった。見えていた岸は消えてはいない、むしろ近づいてきている。


 恐怖も痛みも全て忘れたふりをして月見里だけは忘れず、無我夢中で水中を蹴った。行け。行け。行け。


 何度も何度も固いものに殴打されて気を失うほどの痛みに蝕まれていくが、岸は徐々に大きくなっていく。行け。行け。行け。


 目はぼやけて、音が遠のいていく――。


 体中が痛い。俺は今も瓦礫か何かにぶつかっているのか。どこかを動かすたびに骨が軋んでいくような気がする。

 自分はちゃんと生きているのだろうか。それさえ、もう分からない。


 それでも、岸の色はまだある。色は濃い。

 

 やがて、その色は目に一杯広がり、その手に掴んだ。


 灰色の正体が砂利であることに気付き、保っていた気力を手放し、意識が闇の中へと沈んだ。 


 

 

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