73話 地獄の底で
此方で最も深い最上級ダンジョンの最深部。
この地における生者の世界は、断崖絶壁の上にあった。
高さ一二メートル、直径三〇メートル程の三つの円柱の上。
その狭い範囲だけが生者の生存圏であり、次郎たち三人、六党首と広瀬大臣の合計一〇名が、天頂から眼下に広がる別世界を見下ろしていた。
眼下に果てしなく広がるのは、魑魅魍魎の跋扈する地獄の底。
汚泥の中を引き摺り回されたかのように、ボロボロに擦り切れた衣服を身に纏い、同様に全身の各所を割かれ、体内の様々な物が露わになった死者の大群。
視界を埋め尽くすそれらは、地獄の底から蜘蛛の糸を掴もうとするかのように、円柱の上に向かって手を伸ばす。
そして蜘蛛の糸の代わりに伸びてきた炎に焼かれながらも、瘴気を浴びて再び動き出し、幾度も焼き直される煉獄を繰り返していた。
それら煉獄と比べれば、視界の奥で串刺しになっているゾンビは、幾分かマシなのだろうか。
地上から剣山のように突き出した一〇〇〇本以上もの太い串のそれぞれに、一〇体余りのゾンビが胴体を貫かれて繋ぎ止められており、頭や手足を動かしながら蠢いている。
彼らは動く度に腹部の傷が開くが、その傷を瘴気が回復させてしまうため、永劫の串刺し地獄を続けている。
剣山を建造した目的は、瘴気を永続的に消費させるためだ。
こうしなければ流入してくる瘴気を減らせず、地上にゾンビで溢れ出しますと説明されれては同行した政治家達も押し黙るしか無かった。
人道を全面的に無視した次郎の瘴気自動消費システムと、美也と綾香による定期的な瘴気払いによって、空間内に溢れていた瘴気だけは、流入と消費のバランスが辛うじて保たれた。
なお、途中退席は許されない。
次郎は四回分のうち三回を消費しており、次に使うと戻って来られない。
綾香は二回分のうち二回とも使い切った。
美也は四回分のうち一回しか使っていないが、彼女がこの場から離れた時点で、人類社会は崩壊が確定する。
剣山の作成作業を終えた次郎は円柱に戻ると、現状の説明を始めた。
「状況が落ち着きましたので、改めて説明します。粗方は花子から聞いたと思いますが、今目の前に広がっている光景が、これから世界で起こる出来事です。全てはケルンの判断次第だと言う事を念頭に、可能な限り日本の被害を軽減させる方向で交渉をお願いします」
「ケルン次第じゃないニャ。なるみんの『最上級ダンジョンで完全魔素体が瘴気消費体を倒して、流入量と消費量のバランスを保たせる計画』が、現状ではタイムリミットまでに実現不可能なのは明らかニャ」
「タイムリミットまでの正確な時間を教えて頂きたい」
広瀬大臣が問い質すと、ケルンは口を僅かに開けて、鋭い牙を見せ付けた。
押し黙った広瀬の代わりに前に出た次郎が、ケルンに向かって問い質す。
「……なんで怒るんだよ」
「此方の存在は、四つに分類されるニャ。調整者、登録体オリジナル、観測近似体、その他。観測近似体風に表現すれば、研究者が実験動物の訴えに耳を貸す道理は無いニャ」
一瞬呆けた次郎は、ケルンの細まった目を見ながら言い返した。
「いやいや、そもそも同行を認めただろ」
「観測近似体に相談するのは認めるニャ。ケルンが相手をするのは、創造者が登録を認めたオリジナル体までニャ」
「山田君。すまないが中継を頼む」
井口総理は、殆ど官を置かずに中継ぎを依頼した。
確かに井口が判断した通り、ケルンが応じなければ話にならない。問題を政府に丸投げしたかった次郎は、当初の目論見を外されて渋々と仲介役を始めた。
「あー、ゾンビの大氾濫が始まる日を教えてくれ」
「調整者の任命から一〇年後の二〇四九年一一月四日が発症日ニャ」
通訳となった次郎が問い直すと、今度はまともな回答が返ってきた。
「発症から、一体どれくらいで世界中に広まるんだ」
「半年くらいで、九割九分を瘴気消費体に変えるニャ。発生源も感染力も潜伏期間も変えられるから、封じ込めは無駄ニャよ」
「確か、アフリカ大陸から始めて、陸路でユーラシア大陸全域。海路と空路は、船と飛行機が行き来する果てまで、消費量が見合うまで感染を広げるんだったか」
「そうニャ。釣り合いが取れたら、感染力を弱めるニャ」
次郎が代行して話を聞き出すと、藤沢総務大臣や青山国土交通大臣が端末機やノートパソコンを床に並べ、自らデータを入力し始めた。
その様子を見ていた次郎は、石柱の上に土魔法で石製の円卓を二つ作り出して並べ、椅子を置いて着席を促した。そして広瀬大臣の隣に座ってノートパソコンを取り出し、ワードとエクセルを開いてデータを入力する。
なし崩し的に通訳になったとはいえ、井口和馬に指示された程度の仕事はやっておこうと考えたのだ。但し広瀬大臣は、自らもメモ帳に手書きで記録を行っていたので、どれだけ役に立つのかは不明であるが。
現在は、二〇四八年九月二〇日。
ゾンビの発生が一年と一ヵ月半ほど未来で、それから半年後には人類の九割九分がゾンビになるらしい。
但し半年間生き延びれば、その後は感染し難くなる。
「山田君、ゾンビが人類全体の九割九分を超えたら、それ以上はゾンビにならないのかを確認してくれ」
「はい。ケルン、瘴気の流入量と消費量が釣り合ったら、それ以降は観測近似体を瘴気消費体に変えないのか」
「対処行動を見たいから、最初からの全滅は予定していないニャ」
「ちなみに、ゾンビを処理し過ぎて人類とゾンビの総数が五〇億体くらいに減った場合は、どうするんだ」
「不足する消費量分、不全魔素体のゾンビをコピーするニャ」
「逆に総数が二〇〇億になったら、どうなるんだ。それと地球外に移動したら、ゾンビ騒動は終わりで良いのか?」
「彼方の参考にならなければ、瘴気流入量を増やすニャ。それと此方の範囲は『この宇宙』ニャから、同位階以上の別宇宙に移動するまで実験範囲ニャよ」
「一体どうやって勝つんだよ、このクソゲーは」
言葉とは裏腹に、次郎は利己主義者的な対策を想像した。
それは、これから一年間で日本の借金を増やしてでも世界中の物資を買い集めて備蓄し、食料の自給自足体制を確立し、その後は海路も空路も全て封鎖して鎖国状態にする事だ。
すなわち日本人一億人を生かして、他国の九九億人を諦める。
ゾンビで滅亡した国にお金を返す必要は無く、エネルギーも魔法と魔石燃料で最低限は代替できる。魔石を燃料に用いた自動車などの普及が進めば、未来への展望もある。従って、食糧自給率の向上が急務だろう。
だがゾンビの詳細を知られれば、日本に核兵器を撃ち込んで総人口を減らされ、撃ち込んだ国が自国民を生き残らせようとするかもしれない。
あるいは安全を確保した島国である日本に軍事侵攻して、占拠する恐れもある。
ロシアや中国の距離と軍事力であれば可能だろうし、切羽詰った場合には、アメリカも様々な理由を付けて強引にやって来る可能性もある。
あるいは民間人が、一〇万隻単位の漁船などで強引に押し寄せてくる可能性もある。そして日本には、それを取り締まるだけの能力は無い。
ケルンの話は、安全保障に支障を来す恐れのある情報として、最低でも特定機密保護法の対象になるだろう。あるいは公文書自体に残さない形となるかもしれない。少なくとも九割九分の部分は、日本が生き残るためには世界に言えない事だ。
国家とは、人間が形成する最も大きな群れである。
群れとして互いに協力し合えば、個々で活動するよりも自己保存や子孫を残せる可能性が高まる。そのために国家という群れを形成しているのに、他の群れを助けるために自分の群れを犠牲にするのはナンセンスだ。
なお群れ同士が合流しないのは、合流すると資源の分配が平等になって、強大国側に属する国民の優位性が失われるからだ。
強大国は弱小国に対し、経済支配による内政干渉などで負担や危険を押し付け、自分たちの安全性や生存機会を高めている。平等にすれば自分の優位性が失われるため、大国は小国の民衆を併呑せずに酷使する方を選択する。
そのような数百の群れが凌ぎを削る国際社会において、他の群れのために自分の群れを犠牲にしようと言い出す者は、実際にゾンビを目の前にした彼らの中には居なかった。
但し、それらは一国民の次郎から見た原則論に過ぎない。
日本人だけが生き残っても、ゾンビによって狭められた生存圏や入手できなくなった資源、生産力の問題などで文明の先細りは必至である。
他に手が無い場合は致し方が無いが、まとめて生き残る方法があるのであれば、そちらを選択すべきだというのが、群れの長たる者達の判断だった。
「山田君、瘴気消費体の撃破で消費する瘴気量をゾンビとの比率で確認してくれ」
「はい。ケルン、瘴気消費体の瘴気消費量をゾンビ換算で教えてくれ」
「魔石を持たない観測近似体の一日消費量を一とすれば、最上級ダンジョンの瘴気消費体は、レベルの一〇〇倍くらいが一日の瘴気消費量ニャ。でも生成量はレベルの三乗くらいニャ」
「そもそも魔物のレベルは、俺たちの認識で合っているか」
「合っているニャ」
話を聞き出した次郎は少し考えてから、収納能力から取り出した新たなノートパソコンを起動させ、最上級ダンジョンの全ての魔物のレベルとデータが入力済みのエクセル表を開いて美也に見せた。
すると美也が無言で頷いたため、次郎はデータを広瀬大臣の方にも見せる。
これまでコツコツと入力していたデータであったが、ゾンビ対策となれば、もはや背に腹は代えられない。
「総理、山田のパソコンに最上級ダンジョンの魔物データが入っています」
「それを使う。データを複製して共有しろ」
・最上級ダンジョン
地下 一階 レベル五六 黒 アルプ
地下 二階 レベル五七 黒 ゴブリン 六種類
地下 三階 レベル五八 黒 オーク 五種類
地下 四階 レベル五九 黒 リザードマン 五種類
地下 五階 レベル六〇 黒 ハーピー 四種類
地下 六階 レベル六一 黒 オーガー 四種類
地下 七階 レベル六二 黒 ホブゴブリン 六種類
地下 八階 レベル六三 黒 スキュラ 三種類
地下 九階 レベル六四 黒 ケンタウロス 四種類
地下一〇階 レベル六五 黒 ヘルハウンド 二種類
地下一一階 レベル六六 黒 スレイプニール
地下一二階 レベル六七 黒 トロール 三種類
地下一三階 レベル六八 黒 ミノタウロス 三種類
地下一四階 レベル六九 黒 バジリスク
地下一五階 レベル七〇 黒 ムシュフシュ
地下一六階 レベル七一 黒 エンプーサ 三種類
地下一七階 レベル七二 黒 マンティコア
地下一八階 レベル七三 黒 火鼠
地下一九階 レベル七四 黒 ラミア 三種類
地下二〇階 レベル七五 黒 ケルベロス
各自が着席して、計算が再開される。
最上級ダンジョンは黒アルプがレベル五六で、黒ケルベロスがレベル七五。
すなわち人間のゾンビが一日に消費する瘴気消費量を一とするならば、黒アルプは一日の瘴気消費量が五六〇〇で、生成量は約十八万。黒ケルベロスは一日の瘴気消費量が七五〇〇で、生成量は約四二万。
一日に二万四〇〇〇体の黒ケルベロスを倒すか、五万七〇〇〇体の黒アルプを倒せば、一〇〇億体のゾンビと釣り合う。
なおケルベロスをいくら倒そうとも、ダンジョン内では増えて元の数に戻るために一日消費量は変わらない。
「山田君、ケルベロスは一日何体倒せるかね」
「どんなに頑張っても二四〇体です。二万四〇〇〇体なんて、物理的に不可能です。念のために言っておきますけど、能力加算Sを持つ熟練者の山田太郎で二四〇体です。特攻隊は半分と見積もって下さい」
なおその数字は、次郎が普通の学生生活を営む場合だ。
魔石の回収が不要であるならば、最上級ダンジョンの地下二〇階を駆け回り、一分間に一体を倒し続ければ四時間ほどでノルマを達成できる。
だが一日一二時間労働のブラックで働いたとしても、七二〇体が精々。一〇〇億人を維持できる二万四〇〇〇万体に到達するのは不可野だ。
一億人分の二四〇体は倒せるので、日本以外が滅亡してから二四〇体倒せば出来るかもしれない。
「では、最上級ダンジョンで大量に倒し易い魔物は何かね」
「ゴブリンですかね。あいつらは物凄く群れるので、範囲攻撃でまとめて薙ぎ払えば、ケルベロスの一〇倍くらい倒せるかもしれません」
「ゴブリンの瘴気消費量はいくつだ」
「推定一八万五〇〇〇ですね」
「一〇〇億人を生かすには一日何体倒せば良い」
「約五万四〇〇〇体でしょうか」
「特攻隊が一人につき一二〇〇体倒せば、四五名で釣り合うか!?」
「計算上は、そうなります。体感的にも、レベル一〇〇なら不可能ではないと思います。続けるのはきついですけど」
「その次に倒し易いのは何だね」
「近接型ならホブゴブリンで、魔法型ならパーピーですかね。近接型なら、とにかく小さくて武器が魔石に届きやすい相手が楽です。魔法型なら、魔法に弱い相手がお勧めです」
その後の大臣・党首たちの話し合いは、特攻隊を効率よく運用して、瘴気消費体を撃破させる方向にシフトしていった。
瘴気流入量と消費量を釣り合わせ、その間に第三次以降の特攻隊も育てて、以降は可能な限り溜まっている瘴気も減らしていく。また最悪も想定して、鎖国と自給自足が可能な体制にする。
特典を取らせない為の作業を第二次特攻隊から第一次特攻隊に移す事や、国民からも気消費体の撃破者を出させる案なども出たが、そちらは保留された。
「瘴気流入を自己解決する体制を整えるから、実現したら地上への放出は一時留保で頼む。観測近似体の一集団である日本政府は、政体が維持できれば、そちらの色々な検証には付き合うつもりだ」
「勝手にやってみれば良いニャ。有意性が認められれば、考慮されるかもしれないニャ」
「分かった」
「それなら異分子はそろそろ出ていくニャ。次からレベル一〇〇未満が同行すれば、即座に瘴気消費体に変えるニャ」
美也が特典を選択してポイントを割り振ると、次郎たちは塔型円柱の外部に一瞬で跳ばされた。
























