70話 瘴気消費体
ゾンビは、全身にヘドロの様な黒い液体を纏わり付かせていた。
それが濃い瘴気に由来する物なのか、汚泥なのか、海底のヘドロなのかは分からない。
本能的に飛び退いた次郎は、いかに完全魔素体として瘴気消費体には変わらないと断言されていようとも、その黒い液体には最大限触りたくないと考えた。
「下がりながら攻撃、中央付近に石柱を造るから、その上から魔法攻撃」
「どうするのっ!?」
「土魔法で高い壁を造って、その中に円柱を造って、上から魔法で一方的に撃つ」
「分かりました」
最初に次郎が駆け出し、美也と綾香は襲い掛かってくるゾンビの群れを魔法で撃退しながら、後を追う様に後退を始めた。
壁面から溢れ出してくるゾンビの群れは、まるで街の住人を丸ごと連れて来たかのような幅広い年齢層だった。
二三万に及ぶ老若男女の由来は、既にケルンの映像と告白で明白だ。
南海トラフ巨大地震によって犠牲となった、和歌山県、高知県、徳島県を中心とした人々であろう。
それが壁面の一角から続々と溢れ出し、次郎たちに向かって迫ってくる。
次郎は空間の中心部に向かって疾走しながら、大いに愚痴った。
「悪趣味だ」
その言葉を聞き捨てならなかったのか、瞳と口だけになって壁に埋まっているケルンが、空間内に声を飛ばして否定して来た。
「ソレは単なるコピー体ニャ。肉体は火葬されるか海に還って、魂は加工して彼方の観測点に送り込んであるニャ」
「だからって、わざわざ使う必要は無いだろ」
次郎の反論も拡大されて、空間内に広がる。
ゾンビとの交戦中にも拘わらず、次郎はケルンと言い合いを始めた。
「オカシイ事を言うニャね」
「どの辺がオカシイんだよ」
「地球人も、リサイクルを推奨しているはずニャ?」
「異文化交流が難しすぎる!」
創造者が行動を起こした理由は、自種族のエネルギー問題解決を模索するためだ。
調整者や補助者が創り出したダンジョン産の魔物も全てコピー体であったし、初級までの魔物も日本産の生物の拡大強化型だった。
相手側の目的と行動は、生存と繁栄で終始一貫している。
それ故に、感情論に訴える事の困難さが容易に想像できた。
「そもそも南海トラフ巨大地震が起こる事は、日本人も皆が知っていたニャ。犠牲を避けられたのに避けなくて、犠牲を出した後に憤る感性は、ケルンにはサッパリ理解不能ニャ」
ケルンが指摘したとおり、南海トラフ巨大地震が起こる事はあらかじめ分かっていた。
日本は四つのプレート上に乗っており、プレートが動いている以上、歪みが大きくなっていつか地震が起こるのは自明の理だ。
また東海・東南海・南海地震には、周期的に発生している記録も残っている。
西暦六八四年、八八七年、一〇九六年と一〇九九年、一三六一年、一四九八年、一六〇五年、一七〇七年、一八五四年、一九四四年と一九四六年。
いずれも連動型あるいは単発の短期集中型で、九〇年から二〇〇年周期で発災している。
従って、一九四四年から九〇年後の二〇三四年以降、いつ南海トラフ巨大地震が発災してもおかしくない事は、義務教育を終えた日本人であれば大抵が理解できたはずだ。
実際に南海トラフ巨大地震が発災したのは二〇三九年で、過去に蓄積された周期データの範囲内だった。
しかも一九四四年と一九四六年の昭和南海地震ではエネルギーの発散が不充分だった事から、次回の発災間隔は長期的に見て短くなり、大型の地震になる事も予想されていた。
二〇一二年八月に行われた中央防災会議の被害想定の第一次報告では、東海地方が大きく被災したケースで死者三二万三〇〇〇人、負傷者六二万三〇〇〇人。
死者の内訳は和歌山県が二万六〇〇〇人、高知県が一万九〇〇〇人、宮城県が一万五五〇〇人、静岡県が一万五〇〇〇人、三重県が一万二〇〇〇人、徳島県八九五〇人などとなっており、具体的にどこの地域で何人死ぬかの地図も、南海トラフ巨大地震対策ワーキンググループによって作られていた。
それから二〇三九年の発災まで、二七年以上もの時間があった。
「でも住所を変えられない人とかも居ただろう」
「なるみんには変えられなくても、なるみんの保護者には変える機会が沢山あったニャ。それに日本という国もおかしいニャ」
「日本のどこがおかしいんだよ」
次郎は議論を交わしながらも、ゾンビを大きく引き離して中心部へと辿り着いた。
そこで瞬時に右手へと魔力を集め、高くて厚い壁を意識しながら左回りに大きく円を描く様に回り始める。
ゾンビの身長は、人間のそれと変わらない。
対する防壁の高さは約四メートルで、壁の厚みも同程度ある。
それだけあれば乗り越えられなくなるだろうし、壁を破壊する事も出来ないだろうが、これは突破される事も想定した第一防壁に過ぎない。
次郎が壁を造る間、美也と綾香はゾンビの群れに炎と風の魔法を浴びせていた。
炎魔法は、ゾンビの全身を燃やし続けている。
だが周囲の黒い空間から溢れ出す黒い物質で回復しており、一向に数が減っていない。
燃えながら淡々と迫ってくるゾンビ達は、生者から見て不気味でおぞましかった。歩行速度が早歩きからジョギング程度に遅いためにパニックにならずに済んでいるが、これが走るゾンビだったら、次郎たちは極端な距離を取っていただろう。
風魔法は、向かい風となってゾンビの前進を阻んでいる。
さらに風の塊がゾンビの全身を抉っているが、高濃度の瘴気に満たされた相手は部位の欠損すらも直ぐに回復してしまった。
身体の一部を損壊させても撃破には至らず、早期の壁作成による安全圏の確保は急務だった。次郎は、防壁の範囲を予定より小さくする事で、作業の速度を上げた。
「そもそも西日本大震災でおかしな犠牲者を出した切っ掛けは、阪神淡路大震災にあるニャ」
「なんで阪神淡路大震災が関係するんだよ」
阪神淡路大震災は、一九九五年一月に兵庫県南部で発生した直下型地震だ。
医療資源の適切な投入や被災者の広域搬送が出来ていれば、六四三三人の犠牲者のうち少なくとも五〇〇人以上が助かっていたと結論付けた日本では、その年を防災元年と位置付けて災害対策の教訓にした。
以降、広域災害救急医療情報システム(EMIS)や、災害時派遣医療チーム(DMAT)を立ち上げ、毎年の広域搬送訓練を行うなど、災害対策を整備・強化してきた。
「日本が災害対策の土台にした阪神淡路大震災は、『大陸プレート内で起こった直下型地震』ニャ。南海トラフ巨大地震は、『海洋プレート内で起こった海溝型地震』ニャ。だから南海トラフ巨大地震では、直下型地震の阪神淡路大震を教訓に広域搬送訓練をするよりも、海溝型地震の東日本大震災を参考に津波避難施設を作って避難先を被害予想地域の住民全員に具体的に周知すべきだったニャ」
「そんなのは結果論だ」
次郎には、ケルンの主張が結果論のように思えた。
しかしケルンは、きっぱりと否定する。
「結果論じゃないニャ。広域搬送は、津波から助かった後の話ニャ。海溝型地震だった東日本大震災の犠牲で、西日本大震災で優先すべき対策が津波だと分かっていたはずニャ。阪神淡路大震災を原則論にして同じ間違いを繰り返した観測近似体は、斜め下過ぎてケルンには理解不能ニャ」
「それでも、広域搬送も必要だっただろう」
「和歌山県の各地に十分な津波避難施設があったニャら、なるみんは助かっていたニャ。阪神淡路大震災の教訓を盲目的に踏襲して、本来必要な対策から目を背けるのは、官僚の前例踏襲主義、予算の無駄遣い、事なかれ主義って呼ぶニャ」
「…………あの時のニュースでは、避難施設が増やされて助かった人も出ていたぞ」
具体的な犠牲者の名前と、なぜ阪神淡路大震災の教訓が災害対策の土台にされていたかを明確に説明された次郎は、一瞬言葉に詰まった。
そして今では行政の広報色が強かったと分かっているニュースを例に挙げて、苦しい反論を試みる。
だが誰に憚る必要も無いケルンは、行政をバッサリと切り捨てる。
「広報で誤魔化しても、やるべき仕事をさぼっていたのは明らかニャ。だから犠牲を避けられたのに避けなくて、犠牲を出した後に憤る感性が、ケルンにはサッパリ理解不能だと言ったニャ」
「だからって、俺みたいな個人単位でどう対策出来たんだよ」
「そんなの簡単ニャ」
「……どうするんだよ」
「沢山の人間が見るネットにでも投稿して、問題の根幹と自助の意識を少しでも植え付ければ良いニャ。そうしたら、どこかで誰かが助かるかもしれないニャ。ほら、個人で対策も支援も出来たニャ」
「日本でそんな奇特な事をしている作者を見かけたら、今後は支援しておくよっ」
ケルンとの問答を打ち切った次郎は、足止めをしていた二人に声を掛けると、完成した防壁の内側に飛び込んだ。
逃げながら撃つよりも、攻撃を受けない場所から一方的に撃つ方が継戦出来る。
美也と綾香は防壁上に飛び乗ると、足止めから一撃必殺に魔法を切り替え、ゾンビ達の頭上から撃ち始めた。
迫っていた数十体のゾンビが、狭い範囲で発生した強烈な炎によって全身を焼かれ、炭化させられて歩行速度を落とす。ゾンビは肉が焦げた様な臭いを撒き散らしながら、直ぐに動かなくなった。
そこに風魔法が襲い掛かり、炭化した全身をバラバラに吹き散らした。
流石にここまで破壊されたゾンビは再生しない様で、総数が僅かに減少する。
効果があると判明した炎は、すぐに各所で同時に発生し始めた。焼かれている前方集団は、歩行速度が速い成人男性型のゾンビ達だ。
男性の大半は背広姿で、サラリーマン風の人が多かった。
若い年齢層は次郎と同年代で、上の方は次郎の父よりも高い。
犠牲者の中に、山中県民である次郎や美也、道民である綾香が知った顔が無いと分かっている点は、唯一の救いだろう。
西日本大震災は、次郎が小学五年生の時に発災している。
下手をすれば、犠牲者の中に知った顔が合ったかも知れないのだ。
グルリと囲んだ防壁の内側に飛び込んだ次郎は、防壁から二〇メートルほど内側に第二の防壁を造り始めた。
美也と綾香の広範囲魔法が吹き荒れている以上、次郎の接近戦は邪魔にしかならない。頭上から岩石を降り注いで、風の進路を妨げるのも悪手だ。
そんな次郎の役目は、ゾンビを阻む確実な壁を造ること。
一層で不安なら、第二層を形成する。
次郎は先程造ったよりもさらに厚くて高い、六メートル級の防壁を造り始めた。
「丁寧な仕事振りニャね。その調子なら、日本中がゾンビで溢れても、耕作できる土地を囲んで生き残れるかニャ」
「これって、俺達への練習用のつもりなのかっ!」
「さっき言ったニャ。単なる物のついでニャ」
「ついでかよっ」
「創造者も此方に瘴気を流して、物のついでで検証もしているニャ」
「お前らは、大迷惑だっ」
「地球人も、自己の創造物を自由に扱っているはずニャ。地球人の思考は、ケルンと乖離し過ぎて理解できないニャ」
次郎は反論が思い浮かばないまま、ケルンに対して憤った。
最上級ダンジョンの最奥で戦闘を行うことは、もちろん覚悟の上だった。
だが想像していたのは黒い大型のケルベロスであって、二三万体もの人間のゾンビの群れでは無い。
「日本政府が初級ダンジョンを封鎖してから、完全魔素体の大規模育成と最上級ダンジョン内での瘴気消費は絶望的になったニャ。三人に最上級ダンジョンの攻略特典を与えて登録情報を更新した後は、地球にゾンビ大発生ニャ」
主から送り込まれたケルンは、自らの役目が果たせる事が嬉しいのか、目を爛々と輝かせながら喜びを露わにした。
「ダンジョンを封鎖していたのは、大場総理時代だ。今の政府は、初級ダンジョンを一般公開しているだろ」
「民主制の政治責任は、民衆自身に帰すニャ。諦めるニャ」
「俺が国会議員への投票権を行使できるのは、来年の参議院選挙からなんだよ」
「代わりに一八歳未満の未成年は、レベルが上げ易かったニャ。頑張るニャ」
次郎は状況の見直しを訴えたが、けんもほろろに突き返された。
加えてケルンからの駄目押しが入る。
「なるみんが与えられた『適度な調整力』には、適度な範囲があるニャ。完全魔素体の番いと予備を登録申請したのは、裁量権の範囲内ニャ。最後の攻略特典も、取得速度が放出開始前に間に合ったから許容範囲ニャ。でもその後は、適度の範囲を逸脱するニャ」
橋場成美が次郎を急かしていたのは、自分の限界を悟っていたからだったらしい。
次郎は第二の防壁を完成させると、さらに内側に飛び込んだ。
既に魔力は、六割ほど失った感覚がある。
そのため第三の防壁造成は取り止め、代わりに防壁内の中心部に、高さと厚さが八メートルに及ぶ塔の様な狙撃台を造り始めた。
一方でゾンビ達の前方集団は、既に第一の防壁に取り付いていた。
壁にへばり付いたゾンビの群れは、全力で壁を打ち据えて壁の破壊、ないし威嚇によって美也と綾香を落とそうと試みている。
その力は渾身の一撃を何度も繰り出す有様で、己の肉体の損壊を全く顧みない激しさだった。しかし連中は瘴気を吸って回復するため、そんな後先を考えない行動でも成り立ってしまう。
ゾンビたちを端から見るに、脳のリミッターを外した人間に非常識な回復力を与えたに匹敵するようで、木造住宅の壁や商店街のシャッター程度なら、数体居れば簡単に破壊できる程に厄介だと感じられた。
対する次郎の防壁はレベル一〇〇にして魔力二〇、土属性一三という絶大な力で建造されており、突貫建築ではあるが鋼並の硬さになっている。
そんな壁に突撃したゾンビ達は、流石に防壁の破壊は出来なかったらしい。
それでも孤島を取り巻く大海の如く、ひたすら防壁に対して波を打ち続けていた。
美也と綾香は効率を最優先して、防壁に取り付くゾンビを無視し、固まっている場所に炎と風を浴びせ続けている。
「ちょっと爪が甘かったニャね」
ケルンが肉球を浮かび上がらせながら、爪をニュっと伸ばして駄目出しをした直後、ゾンビの一部が四メートルの壁を乗り越え始めた。
「次郎くんっ、ゾンビが越えてくるよ」
「なんだって!?」
美也の警告を聞いて慌てて第二防壁に飛び乗った次郎は、自らが造り出した第一防壁をゾンビが乗り越えた姿を目撃した。
咄嗟に乗り込まれた第一防壁に飛び移り、防壁上のゾンビを蹴散らして壁下に叩き落とす。
すると見下ろした第一防壁の外側には、ゾンビが他のゾンビを踏み台にしながら、無理矢理に足場を造っている姿が見て取れた。
それは意図的なものでは無く、ゾンビが群がり過ぎた為に自然発生した人肉の土台だった。
得物が次郎たちしか存在しない中、防壁を四方八方から取り巻いているゾンビ達は、自ずと中心に群がっている。
そのため各所で、密集したゾンビの土台が自然形成されていた。
「二人とも、次の防壁に下がれっ」
第一防壁を放棄した次郎たちは、第二防壁に飛び移った。
それを追う様に、第一防壁の外側から次々とゾンビの集団が登ってくる。
次郎は後ろを振り返り、防壁内の中心に据えた八メートルの正方形六面体を見上げる。
当初は充分と思っていたが、四メートルの防壁を登られた今となっては何とも心許ない。
六メートルの第二防壁に飛び移った美也達が撃退を始める横で、次郎は叫んだ。
「保険を増やしてくる」
「次郎くん、内側に増やしても逃げ場が無いよ。外側に、高い足場を増やして。飛び移りながらゾンビの数を減らすから」
「分かった。ちょっと造ってくる」
「早めにねっ」
計画を大きく見直した次郎は、ゾンビを迎え撃っている反対側に駆け出した。
すると地平線の向こう側から、上級ダンジョンの最奥で見たアルゼンチノサウルス級のケルベロスが、二頭同時に迫ってくるのが見えた。
「美也、綾香、後ろから巨大怪獣二体が来ているっ!」
「攻撃魔法を中断したら、ゾンビが乗り込んでくるよ」
「守る範囲が広すぎます。侵入を防ぐには、炎と風が両方必要です」
「ああっ、もう!」
次郎たちは、『前門の虎、後門の狼』と呼ぶに相応しい状況に陥っていた。
前方には、瘴気で無限回復する二三万体ものゾンビたち。
後方には、三〇メートル級の巨大ゾンビケルベロス二体と、一〇メートル級のゾンビケルベロス数十体。
ボスである巨大ゾンビケルベロスの強さは、推定でレベル九五から一〇〇程度だ。
最上級ダンジョンの全ての魔物が、上級ダンジョンよりも二〇ずつ上である点を踏まえれば、そのように推定できる。次郎たちのレベルが一〇〇であるから、殆ど互角の強さで厄介な相手と言える。
二〇階に群れていた通常のケルベロスは、レベル七五相当だろう。この辺りはさほど脅威では無い。
そして最後のゾンビたちに関しては、地上に出す事を想定しているとすれば圧倒的に弱いはずだ。地上の人間が1億人単位で生き残れる程度の相手であれば、全個体に群がられても次郎たちは死なないと思われる。
だが二三万匹ものゴキブリに群がられる様な物で、精神的には死ぬに準じるくらいの苦しみを味わう事だろう。女性二人組が嫌がるのも無理はなかった。
だが役割分担を考えれば、物理で襲ってくる脳筋のケルベロスたちを、後方支援系の二人に近づけさせる訳にはいかない。
「とにかく後ろのケルベロスを狩ってくる。少し自衛していてくれ」
「普通のケルベロスも倒しておいてね」
「足場の追加もお願いします」
次々と出される要求に肩を竦めた次郎は、一足飛びに後方の黒い床面へと降り立った。
そして着地と同時に土魔法で足場を一ヵ所追加してから、突風を吹かせ、床面を力強く蹴り出して、風と共にゾンビケルベロスの群れへと突入していった。
























