69話 ケルン
暗闇に閉ざされていた最奥に、魔法の灯りが戻った。
そうして再び照らし出された空間に、いつの間にか一匹の猫が、静かに佇んでいるのが見えた。
短毛の黒猫で、大きさは普通。
だがこんな極限地帯に、普通の猫が居る訳がない。
次郎はすかさず前に出て盾になると同時に、その動作によって後ろの二人に警告を発した。そして正面の猫からいつ襲い掛かられても良い様に、最大限の警戒を続ける。
「さっきの映像の猫と、同じかも」
次郎の後ろから注意深く観察した美也が、推論を口にした。
先程まで映し出されていた映像の白猫と、姿形は一緒である。但し、毛並みの八割が黒く染まっており、口元と四肢の一部だけが白いという真逆さであった。
まるでダンジョンの白化と黒化を表わしているかの不吉さで、三人は一層警戒を強める。険しい視線を一身に集中させられた黒猫は、黄土色瞳を細めると、鳴き声の代わりに人語を発し始めた。
「こうして橋場成美という中学二年生の少女は、この樹形宇宙群の創造者にして管理者に親補されて、位階一一・下位宇宙群の一つである此方の調整者に成ったニャ」
人語を話す猫は、その全てが次郎の常識から隔絶していた。
例えば先程の映像を投影できるだけでも、次郎の知り得る科学の水準を遙かに上回っている。猫がその気になれば、認識できない間に超科学で次郎たちを消し去る事すら容易いのではないだろうか。
もっとも猫が次郎を殺す理由は無い。
何故なら、この宇宙群を作り出した甲殻昆虫の目的は、瘴気を流して観測近似体に負荷を掛け、その対処方法を見るというものだからだ。
次郎は後ろの二人を庇うように前に出ながら、相手が自分に意識を集中するように率先して声を掛けた。
「その人は、焼きそばを二個買っていたお姉さんの事で間違いないか」
「そうニャ。なるみんニャ」
「するとアンタが、お姉さんが言っていたケルンで合っているか」
「その通りニャ」
白黒猫は躊躇う事無く、アッサリと肯定した。
猫の肯定を受けた次郎は、二年前の学園祭の日に、焼きそばを買いに来た女性が話していた言葉を思い浮かべた。
『もうデータ化したのに、どうして攻略させたいんですか。黒ダン……最上級ダンジョンなんて、レベル一〇〇からしか入れないですよね』
『本来の目的は、データ化じゃ無いからだよ。でも質問の時間はおしまい。最上級ダンジョンの最奥まで来てくれたら、ケルンが伝えられるかな。その頃には、時期だと思うし。でも来るなら、なるべく早く来てね』
次いで創造者の目的を思い浮かべる。
彼は、『地球人の魂を素材として用いて観測体側を補強』、『地球に瘴気を移して観測点の瘴気を減らす』、『観測体と同系統種の観測近似体である地球人の対処方法を見る』という一石三鳥の行動を取った。
そのうち二つは既に達成されており、残る一つが現在進行中だ。
観測近似体である地球人に負荷を掛けて、上手い対策を採れば本来の観測体にもフィードバックする。
但しそれは『物のついで』であり、実験に失敗して地球人が滅びるとしても、特に対策を施すような様子は無かった。
こうして調整者にされた和歌山県民の少女は、自らに与えられた『適度な調整力』の範囲内で対策を行った。
まずは魔素を効率的に扱う能力の付与を日本人に偏らせ、日本人が滅亡を回避しやすいように取り計らった。
そんなチュートリアルダンジョンを大場政権が隠したため、初級ダンジョンは全都道府県の利用者最多駅前に出現させた。その初級ダンジョンも封鎖されたため、レベルアップをアピールして攻略も促すべく、魔物を氾濫させた。
そして最上級ダンジョンに瘴気を押し込めて、次郎のような完全魔素体に瘴気を払わせることで、人類滅亡規模の被害をもたらさないようにしようとした。
また日本人の完全魔素体を登録して、滅亡時の保険とした。
少女が精一杯の抵抗をした結果、完全魔素体の登録にだけ成功して、溜まり続けた瘴気は結局放出しなければならなくなった。
「最悪の一歩手前という認識で合っているかな」
「認識に齟齬があるニャね」
「どんな齟齬だ」
「登録体の対処行動で、資源の偏重で作為的に適応させた個体を用いれば、最終的により繁栄できる結果が示されたニャ。あとは近似体が各地で抗って、群れ単位での適応パターンも見せてくれれば良いニャ。此方の観測結果は、期待値以上だったニャ」
「確かにお互いに、認識の齟齬があるな」
両者の利害は真逆であり、立場の違いから歩み寄りは不可能そうだった。
どう反応して良いか分からない次郎に構わず、ケルンは話を続ける。
「調整者は、機会を与えたニャ。最上級ダンジョンに瘴気を押し込めて、此処で瘴気を払えば済むようにしたのに、日本政府は態々資源を偏重させて生み出したチュートリアルダンジョンを封鎖したニャ」
「チュートリアルダンジョンは、やっぱり育成目的だったのか」
「そうニャ。初級ダンジョンは駅前に作ったニャに、それも封鎖したからなるみんの瘴気非拡散計画は破綻したニャ。もう予定通り、瘴気消費体を発生させるしか無いニャ」
「瘴気は何となく分かるけど、瘴気消費体って何だ」
次郎は、焼きそばを買いに来た少女が口にしていた言葉を思い出していた。
少女は完全魔素体のメリットとして、瘴気消費体に変質しない事を挙げた。
ダンジョンなどの率直なネーミングセンスを顧みるに、瘴気消費体とは、瘴気を消費する体を持つ者である可能性が高い。
そして先程、ケルンは最上級ダンジョンに瘴気を押し込めたと口にした。
これらの前提を踏まえれば、瘴気を浴びた魔物達が瘴気消費体に変質しているであろう事が充分に予想される。
黒ダンジョンの魔物達は全身が黒くて、思考力は極小あるいは皆無で、盲目的に突進する、力の強い連中だ。
従って瘴気消費体とは、そのように変質した存在なのではないだろうか。
「そうニャね。例えるならゾンビかニャ」
「「「ゾンビ!?」」」
「より正確には、活動する毎に瘴気を消費する個体ニャ。一杯増やして、地球に流れ込む瘴気を減らさせるニャ。人類の九割九分くらいゾンビになったら、流入量と消費量を釣り合わせられるニャ」
あまりに恐ろしい回答に、三人は愕然とした。
二〇四八年現在で、人類は約一〇〇億人。
九割九分がゾンビになれば、世界人口は一億人ほどしか残らない。
全ての国の人間が平均的にゾンビ化した場合、人口一億人未満の日本で生き残るのは、約一〇〇万人だ。一〇〇万人は、東京都以外の全国民が死に絶え、東京都の人間も一〇人中八人が死ぬ絶望的な生存率だ。
「本当にゾンビを出す気なのか」
「最優先は、位階一〇・下位宇宙群の一つにある彼方の観測体ニャ。此方は、別に壊れても構わないニャ。九割九分九厘でも良いニャけど、なるみんが調整者として九厘は削ったニャ」
次郎とケルンの問答を聞いていた美也は、そこで出ていた消費量という単語に危機感を抱いた。
「それって、わたしたちが瘴気消費体を倒したら、瘴気を消費する存在が減って世界に瘴気が増えるっていう事なのかな」
「最上級ダンジョンは、元の数まで戻るから瘴気消費量は変わらニャいし、コピー体を増やす時に瘴気を詰め込んで消費するから瘴気は減るニャ。でも三人だけだと手が足りないから減らすのは無理ニャね」
美也は解決策を考えたが、咄嗟には出てこなかった。
応急処置としては、各地の上級ダンジョンを攻略して最上級ダンジョンを増やし、瘴気消費体を詰め込んで消費量を増やす案が思い付いた。
しかし魔物の氾濫を考えれば、最上級ダンジョンがある県からは全ての人間を疎開させて、廃県にしなければならないという問題が生じる。
それで全世界で一億人の生存者が一億二千万人くらいに増えたとしても、根本的には焼け石に水のままだ。
「最初はアフリカ大陸から始めて、陸路でユーラシア大陸全域。海路と空路は、船と飛行機が行き来する果てまで、消費量が見合うまで感染を広げる予定ニャ」
「対策が採れるだけ、バイオハザードの方が遙かにマシですね」
総理の孫娘である綾香は、顔面蒼白になりながら辛うじて呟いた。
世界中がどんなに対策を取っても防げない点で、ゾンビよりも遙かに悪い事態である。
そして最悪の事態が発生するのは、おそらく井口豊が総理在任中の間だ。どのような対策を採っても感染を防げない上に、責任者として国中から総批判される事は疑いようがない。
井口の性を持つ綾香の立場から見て、本当に最低で最悪の未来だった。
「そんな事をしたら、確実に文明が崩壊するぞ」
仮に日本だけが上手く残っても、各国からのあらゆる輸入品が途絶えるため、文明レベルは鎖国していた江戸時代まで戻らざるを得なくなる。
「そうなれば、少しは観測体の参考になるかもしれないニャね。観測近似体として足掻いて見せて欲しいニャ」
次郎は内心で鋭く舌打ちした。
数多の宇宙創造者にして管理者である死神のオーダーは、観測近似体である地球人による瘴気消費体の効果的な撃破と生存への足掻きだ。
そんな要望に対して調整者である少女は、完全魔素体を増やして最上級ダンジョンで解決させる事を画策した。
だがそれは、少女の浅知恵だった。
日本の旧政府である労働党が欲に塗れてダンジョンを隠蔽して独占した結果、少女の計画は一向に進まず、瘴気が溜まり続けて決壊の日を迎えつつあるのだ。
「タイムリミットはいつだ」
「最上級ダンジョンの攻略特典を獲得する間くらいは待つニャよ。でも、この辺の掃除くらいはして欲しいニャ」
「手伝うって、最上級ダンジョンの魔物退治でもすれば良いのか」
「最奥に来たからには、予定通りボス退治ニャ。そのついでに、この辺りに溜まっている瘴気の処理も、少しお願いするニャ。ゾンビ二三万体ほどニャ」
唖然とする次郎たちの前で一頻り笑ったケルンは、スッと瞳と口を細めた。
直後、黒猫は透明度を増しながら巨大化を始めた。
次郎たちが驚いて見守る中、半透明な巨大黒猫は目を三日月に細め、大きな口の口角を吊り上げ、耳を立てながらゆっくりと浮かび上がり、やがて壁の上部にへばり付いた。
「…………マジで地球生物じゃないな」
「ケルンは、この宇宙外の存在ニャ。なるみんが此方の調整者で、ケルンはその補助者ニャけど、役割は調整者専用端末と理解すれば良いニャよ。もう出すニャ?」
ケルンの瞳が下方へと動き、黒い壁とは色の異なる無数の人影に視線を合わせた。
人影は次郎達から見て左側へと走り続け、背後から迫る黒い津波に飲み込まれ続けている。
津波は固定された定位置のままで、人影が必死に逃げながら引きずり込まれている状態が続いていた。
それが突如として逃げる先を変え、壁から這い出してきた。
全身にヘドロの様な黒い液体を纏わり付かせた、人間サイズの動く腐乱死体。
それが壁から続々と溢れ出し、異臭を放ちながら空間内を埋め始める。
「相手の数が多すぎる。後ろに下がるぞ」
立て直しを図るべく引いた次郎たちの背後では、ゾンビ達が満員電車から溢れ出る人のように、秒速数百体の速度で続々と壁から這い出していた。
























