その8
「それより翔馬くん、今日はホテルに泊まるの?」
それまでの話を逸らすように……というか半ば流れをぶった切るように、兄が翔馬兄さんに話しかける。翔馬兄さんはまだ不満そうに口をもごもごさせていたけど、とりあえず根はいい人だから(なのかな?)、兄の質問に対してちゃんと律儀に答えてくれていた。
「ん? こっから近いから、佐都とアパートに帰るよ」
「これからまっすぐ?」
「うん、まぁ一応まっすぐの予定」
「その前に、これからちょっと時間作れない? 久しぶりに軽く飲もうよ。さっき『また飲もうな』って言ってくれたんだし、いいでしょ。せっかくのお祝いなんだから、個別でもさせてよ。式じゃあんまり話せなかったもんね」
「お、いいねぇ。……とは言っても明日から新婚旅行だから、あんまり深酒はできないけど」
「ちょっと付き合ってくれるだけでいいから。ねぇ、凛も一緒に」
気持ち悪いくらいニヤニヤしながら二人で話していたと思ったら、いきなりこっちに顔を向けられ、わたしは「え、」と小さく固まる。
「これから、翔馬くんと飲みに行こうって」
ね? と微笑まれ、わたしはちょっと考える。
……でも、たまにはいいか。これを機に、翔馬兄さんのことを吹っ切れるかもしれないし、兄もそれを意図して言ってくれてるのかもしれないし。
了承の意味でうなずいた後、わたしはふと思いついて、こんな提案をしてみた。
「じゃあ、茉希姉さんも誘おうよ」
「「いいねぇ」」
二人がいい笑顔で同時にうなずいたところで、当の茉希姉さんがテラスにやって来る。「三人で集まって、何やってんの?」と首を傾げる彼女に、男二人はわらわらと寄って行った。絵面だけだと、二人ともまるで下手くそなナンパ師みたいだ。
「ちょうどよかったよ、茉希」
「あのね、今日これから四人で飲もうって話になったんだ」
「え? だって、みんなでこれからホテル行くんじゃないの」
「飲んだ後に、俺がホテルまで案内するよ。父さんたちにはあとで電話しとくから」
「ふぅん、まぁいいけど。もちろん兄貴の奢りでしょ?」
「当然!」
「おぉっ、翔馬くん太っ腹だねぇ」
どうやら交渉成立のようだ。
既にしこたま飲んだ後のようなテンションで――実際は、披露宴内でちょっと嗜んだ程度なのだが――肩を組み合う兄と翔馬兄さんが、テラスを出てそのまま大通りへ出ていく。残されたわたしと茉希姉さんは、顔を見合わせて笑い合った。
「まったく、しょうがないんだから。ねぇ、凛」
「そうだね、茉希姉さん」
私たちも行こうか、と茉希姉さんに腕を引かれたわたしは、どこでスイッチが入ったのか知らないが、すっかりおかしなテンションになってしまっているおっさん二人――もとい、男二人の後を追った。
さっきまでひたすら重苦しいだけだったはずの気持ちは、今となっては不思議とすっかり晴れていた。
わたしの翔馬兄さんに対する感情が、色あせたわけではない。今の翔馬兄さんに対して、幻滅した訳でもない。
わたしは多分、きっと今でも……まぁ、これからも当分の間はきっと、翔馬兄さんを好きなままでいるだろう。
でも、もう辛いとは思わない。無駄だとは、思わない。
墓場まで持っていくはずだった、このどろどろした薄暗く甘い感情を、包み隠さず全部外へ出してしまったからだろうか。それとも、久しぶりに翔馬兄さんの顔を見て、打ち解けて話ができて、満足したからなんだろうか。
今は不思議と、すっきりしている。
今ならきっと、過去を認めてあげられるような気がする。少しくらいは、前に進めるような気がする。
今度こそ、さっきからずっと言いそびれていた言葉を、翔馬兄さんに言ってあげなければいけない。多分、言えると思う。
『結婚おめでとう』って、笑顔で。
『幸せになってね』って、心から。
「兄貴、悟、待ちなさいよ!」
「二人とも、みっともない真似やめてよね!」
――でも、それはまた後で本人にちゃんと言うとして。
佐都さんには悪いけど、今夜だけは翔馬兄さんをお借りします。どうせ佐都さんは、明日から翔馬兄さんとずっと一緒なんだもん。
だから、今日くらいは甘えてもいいよね?
◆◆◆
「なぁ、悟」
「何、翔馬くん」
「お前さっき、凛の秘密の話聞いたんだよな。俺に関する、凛の秘密の話」
「うん、聞いたよ。……でも、翔馬くんには絶対教えない」
「別にいいって。その代わり、俺の秘密の話も聞いてくれよ」
「秘密の話?」
「そう。凛に関する、俺の秘密の話」
「なぁに、それ。僕なんかに話していいの?」
「悟に聞いてほしいの」
「ふぅん……いいよ、聞いたげる」
「ありがとう。……俺さ、ホントは途中から凛の話聞いてたんだよね」
「はっ?」
「凛があぁやって、俺とのことを大事に思ってくれてて……あんな優しい目で、俺のこと話してくれてて。すごく嬉しかった」
「じゃあ、何であんなすっとぼけたこと……」
「ん? だってそんなこと言ったら、凛は絶対次から意識しまくって、俺のこと見なくなるだろ? まぁ、顔真っ赤にして目逸らすのも可愛かったけど」
「気持ちは分からなくないけど、翔馬くんもなかなか意地が悪いね」
「言うなよ。……んで、こっからが本当の、俺の秘密。二つあるんだ」
「何」
「一つ目は、装花の話。あれを青色にしたのは、凛が話してた通り。菊乃叔母さんのお葬式があった次の日に、俺が凛にあげたやつを意識したんだ。凛は、偶然だと思ってるだろうけど」
「やっぱり、そうだったんだ」
「うん。凛に、忘れないでいてほしいなって……まぁ、俺の単なるエゴだ」
「……」
「んで二つ目は、今日のお菓子投げ。あの時凛は、お前の後ろに隠れて怯えてただろ」
「翔馬くん、結構本気で投げてたからね。高さもあったし……凛が怖がるのも当然だよ」
「ごめんって。……実は俺さ、あの時お前に嫉妬してたの。いつも凛がくっついてたのは、俺なのにって。何であそこにいるのは、俺じゃなくてお前なんだろうって、ちょっと思っちゃった」
「……勝手だね、翔馬くん」
「ホントだな。勝手だな、俺」
「凛の気持ちを知ってて、そんなこと思うなんてずるいよ。何様?」
「いや、でも凛の気持ち知ったのはさっきだぞ? まさかあんな風に想われてるなんて、ホントに知らなかったから」
「でも、ずるい。凛のことなんだと思ってるの」
「怒るなよ。凛のことは……もちろん俺は佐都だけを愛しているから、そういう意味での気持ちには応えてあげられないけど、可愛いいい子だと思ってるってば」
「ふぅん」
「何だよ、その目は。……ほら、着いたぞ。俺のオススメの飲み屋。今日はパーッと飲もうぜ」
「……明日の新婚旅行は、二日酔いで行かせてやる」
「え、何? 顔が怖いよ悟」
「覚悟しといてね、翔馬くん。僕の大事な妹の心を奪った罪は、重いよ」
「目が笑ってないよね?」
「さ、飲もう飲もう!」
「お兄ちゃん、末恐ろしいわ……」