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青いブーケ  作者:
7/9

その7

 それはもう十年近く前のこと。そう、確かわたしが翔馬兄さんたちと最後に会った日だ。

 今は亡き母のお葬式が終わった次の日、肩の荷が下りた皆がなんとなくリラックスしたムードになっていた時のこと。中学生だったわたしは、学校を出たあとまっすぐ家に戻ることなく、近くにある坂敷川の河原で、一人膝を抱えていた。

 当時のわたしと母は、ちょっとしたすれ違いと、互いに素直になれない性格だったことから、衝突が多かった。……というか、わたしが一方的に母を嫌って、避けていた。

 そんな中で発覚した母の病気と、闘病生活も虚しく訪れた突然の別れ。

 もっと素直になっておけばよかったとか、普通の母娘らしいことがしたかったとか、今更願ったって無駄なことくらいわかってたけど。でもやっぱり、後悔せずにはいられなくて。

 葬儀会場の中にもたくさんいた、仲の良さそうな親子の姿を、見ているのが辛かった。どうして自分たちもあぁいう風になれなかったのだろうと、思いを馳せずにはいられなかった。

 わたしは母の慰霊の前で泣き、夜も布団の中で泣き……おかげで朝起きたら、ひどく瞼が腫れていた。こんな状態で学校に行くのは憚られ、実際休むように言われたけど、それでもわたしは学校へ行き、最後まで授業を受けたのだった。

 ぽかぽかと暖かい陽だまりに包まれた坂敷川の水は、いい具合に温まっているようだ。遠くでは、近所の子供が泳いで遊んでいる。

 けれどわたしは一人、明るい気持ちになどなれないまま、揺れる水面を泣き腫らした目で眺めていた。

『凛』

 後ろから、声がかかった。振り返ると、スーツを着た男の人が、中腰でわたしを見下ろしている。ひどくなった顔を見られるのが嫌で、咄嗟にふい、と顔を逸らした。

『隣、いいかな』

 声に出さず、小さくうなずくと、男の人――翔馬兄さんはわたしのすぐ傍に腰を下ろした。

 ふわり、といい香りがして、わたしは小さく目を見開く。彼に自分のみっともない表情を見られないように気をつけながら、わたしはそっと隣に座った翔馬兄さんを覗き見て……そして、びくり、とした。

 目の前に、突然青いものが現れたから。

 何が何だかわからなくて、もはや泣き腫らして酷いことになった顔を隠すことも忘れたわたしは、顔を上げると、食い入るようにそれを見た。

『なぁに、それ……』

『時間があったから、ちょっとその辺まで出掛けててね。母校に立ち寄った時、広場に咲いていたのを、少し分けてもらってきたんだ。綺麗だろう?』

 なんていう花かは知らないんだけどね、とおどけたように笑った翔馬兄さんは、わたしにそれを――摘まれた青色の花がたくさん入った、小さな花篭を渡してきた。

 花は見ているだけで癒されるのだと、昔翔馬兄さんが言っていたような気がする。彼は花が好きなのか、わたしが受け取った花篭を愛おしむような優しい目で、うっとりと見つめていた。

 その表情に、わたしは初めて、大人の男の人を見た気がしたのだ。

『可愛いね』

 そわそわと変な気持ちになってしまったのを悟られないよう、取り繕うように小さく笑う。わたしを見て、翔馬兄さんはホッとしたような顔をした。

『やっと、笑ってくれた』

 凛には、そっちの顔の方が似合うよ。

菊乃(きくの)伯母さんも、きっとそう思ってるんじゃないかな』

 そう言って、翔馬兄さんはわたしの頭を撫でた。


 あの時翔馬兄さんは、落ち込んでいたわたしを元気づけようとしてくれたのだろう。

 その心遣いも、撫でてくれる優しい手も、わたしに向けてくれるその微笑みも、全部がわたしにとっては嬉しかった。あの時確かに、哀しみや後悔が支配していたわたしの心は、少しずつ解れていった。


 彼がくれた青い花は、今となってはもうとっくに全部枯れてしまった。でも代わりに、一緒にくれた花篭を今でも大切に持っている。翔馬兄さんが、唯一わたしにくれたものだから。

 翔馬兄さんは既に家を出ていたから、それ以来会うことはなかったのだけれど……自分でも不思議なほど、わたしは長いことずっと、ささやかなあの日の想い出を覚えていて。

 そして……わたしの心はずっと、あの日の彼に囚われたまま、とめどなく甘い夢のような感情を吐き続けた。

 そう、翔馬兄さんの結婚を知るまでは。


    ◆◆◆


「自分でも、馬鹿みたいだなぁって思う」

 兄が黙り込んでしまったのをいいことに、わたしは自分でも妙なほど流暢に話し続ける。

「彼にとっては、些細なことだっただろうに。ずっと覚えているのは、わたしだけなのに。わたしだけが、先に進めないままで。暗い気持ちを押さえもしないで……あーあ、ホント子供みたい。翔馬兄さんには悪いことしちゃったな」

「俺が、なんて?」

 突然聞こえた、兄ではない声に、わたしは次の言葉を紡ごうとしていた口を慌てて閉じる。

 振り返ると、わたしが凭れていた柱の影から、ひょこり、と翔馬兄さんが姿を現した。さっきまで着ていたタキシードはとっくに脱いでいて、何とも言えない色をした柄物のシャツと、黒いハーフパンツを履いている。何故崩していないのかは分からないが、髪形はそのままだ。

「ねー凛、俺がなんて?」

「な、何でもないっ」

 ふわふわの髪を揺らしながら、翔馬兄さんがわたしの顔を覗き込んでくる。わたしは逃げるようにして、顔を逸らした。

「ちぇっ。じゃあいいよ、悟に聞くから」

 わたしの態度に、ぶー、と唇を突きだして拗ねる翔馬兄さんは、本当にわたしより十歳近くも年上なのだろうか。っていうか、本当にさっき結婚式を挙げた人と同一人物なんだろうか。

「悟、凛は何話してたの?」

 今度はわたしの隣にいた兄に話しかけている。うつむいて黙っていた兄は顔を上げ、にっこりと笑った。

「秘密」

「えー!」

「僕と凛だけの内緒話だよ、ね?」

「そ、そう。そうよ」

 助け舟を出してくれたらしい兄に合わせて、わたしは内心助かったと思いながら何度もうなずく。翔馬兄さんはますます拗ねたように、「何だよー、二人だけずるいよ」と唇を尖らせた。

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