優しい傷
「浮気をしたらお前を千本のやすりが貫くだろう。」
付き合いはじめのころ、そういわれた。
彼は金属を削って、ものを作る工芸家だ。
以前家にいったとき見せてもらったが、やすりって結構さきのほうがとがっていて危ないのだ。
今、私は危機にある。
なんにもないから大丈夫と思い、男友達と旅行にいって旅館につき、案の定そんなような雰囲気になってしまった。
ただの友達だと思っていたのに……。
ばれなきゃいいかと流れに任されるそのとき、部屋のふすまが開いた。
彼だった。
なんてこった。
彼の手にはやすりが握られていた。
「心配になって来てみたらやっぱりそうか。」
「なんできたのよ。」
私の口からは乾いた言葉しかでてこなかった。
その場かぎりのいいわけは逆上させるだけだ。
「その昔、俺は言ったな。浮気したときはどうなるか。」
彼から底冷えするような冷気を感じる。話すことは何もないような……。
私は覚悟を決めて、めを閉じた。
「しかたないわね。」
さあ……。
私を…………。
耳元を風が切った。
「最初っからわかっていたよ、そんなことは。」
耳のすぐ横の柱にやすりが刺さっていた。
彼はくずおれて、泣き出した。
「俺が無理に付き合ってなんて、言わなきゃよかったんだ。
ごめんな。それで、お前をこんな風に盗られちまって……。」
「……。」
彼は優しい。優しいが、優しすぎた。
それまで静かにしていた男友達は言った。
「盗ったのはおまえだろ!俺が思ってたんだ。俺より気持ちを伝えるのが少し先のお前に、なぜ!こうも振り回されなければいけないんだ!」
だから、調子に乗るんだ。
「ずるいぞ。」
彼は言って、立ち去った。
その後、男友達とは会っていない。
私の手には彼のやすりだけが残っている。
私の恋愛に意味はあったのか?
日々過ぎ行く時間に、この記憶も霞んでいくのだろうか。
たった、これっぽっちのやすりに。
この物語はフィクションです。