6、女々しい奴
お茶会から一週間後。
俺はようやくこの館に馴染み始め、朝の挨拶を交わすことも増えてきた。
コツコツと手伝いをしてきた甲斐があるというものだ。
しかしもちろん、まだ馴染めていない部分もある。
それに今、俺は頭を悩ませられている。
「……はあ」
ずたずたに引き裂かれた執事服を前に、俺はため息を押さえられなかった。
お茶会の日に気が付いた執事服の穴は、塞いでも塞いでも閉じてくれない。まだ慣れない裁縫で時間をかけて丁寧に直しているのに、次の日にはむしろひどくなっているのだ。
酷くなり続けた結果が、この引き裂かれた執事服だ。
折角メイドたちから裁縫の技術を教わったというのに、全くの無駄である。
手取り足取り教えられ、メイドからのセクハラ紛いに耐えた俺が報われない。
必要以上に俺の手を触って、こちらに身を乗り出してくる数名のメイドの姿を思い出して、身震いした。
いや、うん、女って怖い。
若干現実逃避に走る思考を何とか押し戻す。
かろうじて執事服だと分かるほどにまでボロボロな状態から、元に戻せるほど俺の裁縫技術は高くない。
それができそうな知り合いに頼んでもいいのだが、と考えを張り巡らせたところで背筋が薄ら寒くなったのでやめておくことにする。
もったいないような気はするが、この執事服は諦めるほかないのかもしれない。
執事服の残骸を名残惜しく手に取って、再びため息を漏らす。
自然にしては明らかにおかしい破れ具合。一体誰がこんなことをしているのやら。
着れない執事服を後で燃やしてしまうことにして、とりあえずクローゼットから代えの執事服を取り出す。
うまく体に馴染まない感覚に不快さを感じるものの、一応通常通りに動けそうだ。
そのうち修業用のティーセットなんかにも手を出されるんじゃないだろうか。
げんなりした気持ちになりながらも、着々と準備を整えていく。
まずは厨房に行かなくては。
せわしなく部屋を歩き回る俺の耳に、微かな音が聞こえてきた。
扉がかたんと小さく動く音だ。
振り返らずに扉へと神経を集中させると、一つの気配があることに気が付いた。
気配は中に入ってくる様子を見せずに、じっと扉からこちらを眺めている。
すぐに危害を加える気はなさそうだと判断すると、素早く扉へと振り返る。
「……クク」
漏れ出たらしい小さな笑い声。
その声にはどこか馬鹿にするような見下したような色が含まれていた。
少し苛立ちを感じながらその人影の視線の先をたどると、机の上に置きっぱなしのボロボロの執事服があった。
もしかして、こいつが……。
歯を食いしばり、扉の方へ向かってひたすらに目を凝らす。
扉の隙間から覗く双眸と、視線が交わる。
するとその人影はフンと鼻を鳴らして、その場から立ち去って行った。
右腰の直剣を煌めかせながら。
その光を見た瞬間に、俺はその人影の正体を理解した。
あの直剣は恐らく、元執事候補の現護衛だろう。彼ならば俺が気に入らないという動機もある。
狙われている理由は分かるが、しかしやるせない気持ちは晴れない。
というか、彼は態々執事服を引き裂かれた俺の様子を見るためだけに、この使用人室を覗いていたのだろうか。
全くご苦労なことだ。暇人だからこそできるに違いない。
一人きりの使用人室を動き回りながら、胸中でひたすらに皮肉り続けた。
皿洗い、ローレンツとの修業を終え、もはや日課になっている散歩がてらの情報収集へ。
特に当てがあるわけでもなく、ぶらつきながら耳を働かせているだけである。
だからこそ、思考に沈みながらの作業で十分だ。
およそ3週間弱にわたって続けられてきた修業も佳境を迎えている。
苦戦してきた食事の際の身のこなしも、どうにかコツをつかめたようでローレンツから鋭い声がかかることも少なくなってきている。
そろそろ俺がフィリアの正式な執事になる日も近いかもしれない。
だが正式な執事になるというと、どうしても黙ってない奴がいるだろうな。
思わず今朝の嫌な記憶を呼び起こしてしまい、眉間に皺を寄せた。
あんな嫌がらせをしたからといって何になるというのだろうか。俺には奴の考えがさっぱりわからない。
いつの間にか聞き耳を立てることもおざなりになってきたころ、廊下の前方に見えた人影にほとんど無意識に顔を顰めた。
噂をすれば影、というやつか。別に口に出していたわけではないが。
こちらと目が合った瞬間に愉快そうな顔をする男に、思わず苛立ちを感じる。
落ち着け俺。俺はこいつよりも大人なのだ、とにかく冷静に。冷静に。
必死で心を宥めて、平然な態度のまま歩き続ける。
目測10メートルを切り、男の顔がはっきりと見えてくる。
その顔にはやはり、侮蔑の色が浮かんでおり決して良い気分にはなれなかった。
吐きたくなるため息を何とかこらえて足を動かす。
もう少しですれ違う。通り去ってしまえばなんとなく重いこの空気も晴れるだろうと、軽く現実逃避。
お互いが足を止めることなく進み続け、いよいよすれ違った瞬間。
「――うわっ」
いきなり体の前に出された足に引っ掛かり、声を上げてもたついた。
どうにか転びはしなかったものの、心臓に悪い。俺の前に足を突き出した男を睨んで、どういうことだと詰め寄ろうとするが、男の声がそれを遮った。
「おや失礼。私の足がどうやら長かったようだ。
しかし君も気を付けたまえよ。足を蹴られた人が可哀想だからな」
嘲るような表情で言ってのけた男に、青筋が立ったのが自分でもわかった。
こいつ人が黙って見てりゃ、執事服を壊すし足引っ掛けるし、いじめをする女子かっての!
なによりこの、人を見下すような目が気に入らねえ。
猛烈な怒りにつかれた俺は先刻の、冷静に振る舞うということをすっかりと忘れ、笑顔を張り付けて
口を滑らせてしまっていた。
「貴方も気を付けてくださいね。貴方の陰湿な行動で不快になる方が出てくるやもしれませんので」
「ほう……? 貴様は俺に喧嘩を売っているのか?」
「先に売られたのはそちらでしょうに。私としては堂々とした喧嘩ならいつでも受けて立ちますが、生憎とあなたはそうでないみたいですね」
皮肉たっぷりの俺の言葉に、男は顔を真っ赤にしてしばし黙り込んだ。
だが突然、気味の悪い笑みを浮かべたかと思うと、楽しそうな声音で俺に提案する。
「貴様がそういうのであれば、決闘で決着をつけようじゃないか。
奴隷には礼儀作法など小難しく理解できないだろうからな。まさか逃げるなんて言わないよな?」
「……もちろんですよ、正々堂々の勝負であれば受けて立ちましょう」
何かよからぬことを考えていそうな男に、不正は認めないと、言外に含めて言ったのだがあまり効果はなかったようだ。
男は変わらずに、ニヤニヤと笑みを浮かべ続けている。
「ならば三日後に、訓練場にて決闘だ。準備はこちらでしておくから、安心しろ」
「……分かりました」
準備はこちらで、といった瞬間に男の不正を確信した。
とはいえ、俺は決闘で使えるような防具や武器を持っていないので、わかっていながらもその条件を呑むしかない。
俺が嫌そうな顔で頷いたのをどうとったのか、男は一層気持ち悪い笑みを深めて歩き去っていった。
「それでね、アルフ君。私は学――」
楽しそうな笑みとともに紡がれていた心地よい声が、ふいに勢いよく開かれた扉の音によって止められた。
ノックもなしで駆け込んできたのは、立派な口髭を生やした男。
ローレンツは何かを探すかのように顔を動かして、俺と目が合った瞬間に顔を青ざめさせた。
「アルフ! お主、決闘とするとは真か!」
「ええ、そうですが……」
ローレンツの口から出た決闘の言葉に、少し驚いた。よもやこんなに早く情報が伝わっていようとは。
俺は誰にも告げていないというのに、どうしてこんなにも速く伝わっているのだろうか。
そう考えたが、すぐに分かることだった。
あの護衛の男が、使用人たちに言い広めて回ったのだ。大々的に決闘の存在を告げ、俺の立場を無くすつもりなのだろう。
「アルフ君! それ本当なの!?」
「え、ええ、はい」
決闘という言葉に愕然としていたフィリアが、俺の肩を揺らしながら問い詰める。
ローレンツの時と同じように首を振ると、見ているこちらが不安になるほどフィリアは顔を張りつめらせた。
「ローレンツお爺さん、アルフ君の決闘の相手をご存知ですか?」
「うむ。護衛のグルエガット、前にお嬢様の執事候補にってあげられていた男ですぞ」
「えっ……!」
俺の敵である奴の名前を脳みそに叩き込んでいると、フィリアが張りつめた声を上げた。
何か予想外のことでもあったのか、その大きな瞳はさらに開かれている。
フィリアは少し考え込むようなそぶりを見せた後、意を決したように俺の方へ向き直った。
その真剣な表情に、俺も表情を引き締める。
「アルフ君。今回の決闘、何が原因なのかはわかりませんが……辞退してください」
「は?」
素っ頓狂な声を上げる俺を無視して、フィリアがさらに続ける。
「その、グルエガット――グルエガット・ヴェラ・ピアソンという男は、下級貴族の出の者です。ピアソン家の長男ではなかったからこそ、騎士学校を卒業しています。つまり、剣を習った者なんです。だからこそ、今回の決闘は勝機が薄すぎます。辞退するべきです」
つらつらと並べられる言葉に、少し言葉を失う。
普段はおとなしいフィリアだが、どこかスイッチが入ればその雰囲気はがらりと変わる。
俺はそのいつもと違う雰囲気に呑まれていた。
「ワシもそれを言うつもりで、ここに来たんじゃ。アルフ、お主は奴隷だったのじゃから、勝てなくて当たり前じゃ。無謀な挑戦はするべきでないぞ」
黙している俺に畳みかけるようにローレンツも言葉を重ねる。
至って真剣に話す様子に、どこか他人事のように感じた。
というのも、俺は正直なところ負ける気がこれぽっちもしていないのだ。
グエラ村ではカローラに惨敗を重ねていたが、俺は毎日の訓練を欠かせていないし、体も鍛え続けているので強くなっている自信があった。
男の実力は目にしていないが、端から不正行為を行おうとしている奴である。
自ずと力量は見えてくる。
「2人のお気持ちはありがたいのですが、私は引く気などありません。こうみえても剣は使えるんです、負けるとは思っていませんよ」
自信をみなぎらせて不敵な笑みを浮かべる俺に、どうしたらよいのか分からないようで、2人は顔を見合わせて眉を下げた。




