それは風の中に
昭和二十年、春。
「兄さん……。おめでとうございます……」
弟の治が深々と頭を下げる。言葉とは裏腹に顔は暗い。向かいには父と母が並ぶ。
「……では、そういうことだ」
父が足を引き摺りながら立ち去る。部屋から出て行ったのを見計らい、母が夕飯の支度を始めた。
私も母が見えなくなると、部屋に向かうため立ち上がる。しかし足は動かない。治が服の裾を掴んでいた。
「咲には……本当にそれでいいの?」
今にも泣き出しそうな顔で私を見上げる。妹の咲は隣の部屋で寝込んでいる。だからただ一人、今の話を知らない。私が特攻隊員に選ばれたという話だ。
「言うな。私も普段と同じ、通常出撃だと言っておく」
「嘘を吐くのですか?」
治の詰問に、言葉を失う。男児は勇敢であれ、誠実であれ、とは父の口癖だ。
「……身体に障るから言っているのだ。わかったな」
私は一番もっともらしい理由を見つけると、治に強く言い聞かせた。
「わかりました……」
その声を聞き、私は部屋へと戻る。出撃は三日後である。明後日には家を発たねばならないだろう。
馴れ親しんだこの部屋も、家も、家族も、もうこの目に映す事は無いのである。しかしその大切なものを守る為、この愛すべき国を守る為に往くのだ。自分が生き長らえたところで、それらが失われては生きる価値など欠片も無い。だから私は、往くのだ。
部屋の隅に置かれた小さな机に真正面から向かい、膝を揃え、筆を握る。
父と。
母と。
弟と。
妹と。
そして私が在る。ただそれだけを。
家族へ
私はこのたび、戻れぬ戦地へと赴くこととなりました。
父様、母様。ここまで育てて頂いた御恩、この身が灰と為ろうとも、決して忘れる事は御座いません。これからも御身体にお気を付けて、毎日をお過ごし下さい。決して私の事で、心を痛める事の無いように。私は御国の為にと、選ばれたのです。慶んで下さい。
最後に、この事を告げなかった妹、咲へ。この嘘吐きな兄を赦してほしい。私は誠実な儘では居られなかった。これは私利の為の嘘である。
私は最期に、咲の笑顔を見たかった。唯それだけである。
私利の為、辛い思いをさせたことは、申し訳ないと思っている。しかし、兄の最初で最後の我が儘だと、赦してくれるならば幸いである。そして私の事は、それを境に忘れる事。君の幸せは未来の先に或るもので、死に往く私の中に或るものでは無いのだから。
皆が笑顔で送り出してくれるのならば、私は出撃するその日も、笑って往ける。愛する国と、愛する皆の為に。
では、往って参ります。