神が君臨するこの世界
TAKE.0
女は子宮で考えるんだって。
じゃあ男はどこで考えるの?
TAKE.1
たぶん今日の夕方には、ニュースで春一番の陽気でしたと言うのだろう。
それくらい心地よい午後の日差し。
しかし5年前の今日は、この冬一番の冷え込みと言われていた。
以来、今日という日は私にとってとても寒い日。
こんなに暖かいと夢の中にでもいるみたいだ。
「三回忌しなかったんだからさ、せめて七回忌はやらないか?」
仏壇に線香を上げた兄が、手を合わせたまま言った。
兄は、あの寒かった日のことをどう思っているのだろう。
「それって…誰のため?」
「誰って…母さんのためだよ」
私は少しだけ笑った。
「ウソ。生きてる時は大した孝行もしなかったくせに」
「それには色々事情があって」
「事情…」
「仕事とか家族のこととか、男には色々あるんだよ」
「私、死んでからちゃんと供養してますよって、それ都合よすぎると思う」
「だから、お前には申し訳なかったと思っているよ」
「そういうことじゃなくて…でも、とにかく七回忌はしない。私たち、そうやってずっと負い目を負い続けた方がいいと思う」
「お前は冷たいな」
兄はようやくこっちに向き直った。
今度は私が明後日の方角を見る番だ。
「そう? お兄ちゃんほどじゃないと思うよ」
今日は母が死んで五回目の命日。
兄と会うのも五年ぶりだった。
TAKE.2
一番古い記憶は、すすり泣いている母の背中。
二番目は、絵を描いていた私の手を、クレヨンごと踏みつける誰かの足。
三番目は…四番目は…言いたくない。
夢のようだから、いっそ夢ということにしておこう。
だから揺り起こしちゃだめ。
ようやく夢と思えるようになって来たんだから。
私は大丈夫、私はもう大丈夫。二十年近く呪文のように言い聞かせてきたことが、ようやく形になってきた。
だから兄には、用件が済んだらさっさと帰ってほしかった。
それなのにぐずぐずしていてなかなか帰らない。
「何か話しがあるの?」
何も言い出さないから仕方なく私が時を進める。
進めるのも怖いが沈黙が何よりも恐ろしい。
「いや、母さん死んで、もう家族って俺たち二人っきりなわけじゃん」
「…だから、なに」
「だから、二人っきりなんだから、これからはもっと頻繁に連絡取ったり話した方がいいと思うんだ」
「お兄ちゃんには、義姉さんと子どもがいるじゃない」
「いやあれは別の…」
なるほど、やっぱりそういう魂胆か。
覚悟はしていたが、この人の卑しさは幾つになっても直らないようだ。
「ねえ。私は一人で大丈夫だし、お兄ちゃんには大切な家族がいるんだから、お兄ちゃんは自分の家族を守ることだけを考えて。私が大丈夫なのは知ってるでしょ?」
(私は大丈夫私はもう大丈夫)
何度も何度も頭の中で繰り返し唱える。
兄は力なくうなずいた。
しかし顔は納得していない。
「俺の言う家族と、今の家族は違うんだよ」
同じだったら大変でしょ。
言ってやりたいけど言えるわけがない。
いや、言ってやった方がいいのかな。
わからない何もわからない。
どうか思考が停止してしまう前に帰って。
五年前の母が亡くなった日の晩の記憶が鮮明によみがえる。
ひどく寒い日で、私はずっと震えていた。
(帰って。お願いだからこのまま帰って)
あらん限りの神経を集中して私はテレパシーを送る。
しかし無駄だ。
兄はそんな繊細な生き物ではない。
プチッと夢がはじける音がした。
TAKE.3
私は一人で生きていく術を身につけた。
たぶんアフガンでも東京の真ん中でも生きていける。
それは私が特別で高度なサバイバル技術を有しているからではなく、ただ単に何ものも望まないからできる簡単な処世術。
取引材料になるものなら何だって使う。
親友だって裏切れる。
自尊心も羞恥心も捨てた私に怖いものはない。
死ぬことの出来なかった私だからこそできる生き方。
私はどこでも生きていける。
反対に兄は、一人で生きていく術をどこでも学ばなかった。
父の真似をして母を蔑み、根拠のないプライドの塊になってしまった。
そして父が死に、逃げるようにさっさ家を出て、今では墓の管理も仏壇も、妹に任せっきりにしているのがこの兄だ。
そもそも母が急死するまで、兄は年に一度孫を見せに日帰りで帰省するだけだった。
それなのに告別式で、号泣しながら「母は心の支えでした」だなんて。
私は知ってる。
兄が血相を変えて帰ってきたのは母の遺産を独り占めにしたかったから。
遺産と言っても残りわずかな父の保険だけ。
いくら母の部屋を引っかき回しても、宝石やへそくりなんて出てきやしないのに。
私は知ってる。
見栄を張って派手な暮らしをしたせいで、借金が嵩み、何度も母に無心していたことを。
母の前で頭を垂れつつ、でも本当は舌を出していたんでしょう。
ねえ、あの返済はどうなったの?
いや、兄はきっとこう言うか。
母は返してもらうつもりなんてこれっぽっちもなかったんだと。
死人に口なし。
そして再び、死んだ母親を利用しようとしている。
あーそうか。
お兄ちゃんもきっとどこでも生きていけるんだね。
TAKE.4
たぶんうちはごく普通の家庭だったのだろう。
少なくても世間からはそう見られていた。
内弁慶で暴力的だった父と、その父に従った母。
その父に調教され兄もまた暴力的に。
だから私も母のように、暴力的な存在を受け入れなければならない定めを負った。
父が急に温和しくなったのはいつ頃だっただろう。
もともとお酒の飲みすぎで肝臓やら腎臓やらに爆弾を抱えていた父は、あるときとうとう大量出血で救急車に乗せられた。
緊急手術をして、退院後はきっぱりと断酒したのだが、その一年後に急死してしまったのだから、人の人生とは皮肉なものだ。
しかしその父の生命保険のお陰で私は大学に行けたし、母も第二の人生を楽しむことができた。
だから父にはそれなりに感謝している。
だから母も、自分と同じ墓に安住することを許したのだ。
暴力とはいったい何なのだろう。
よく言われるように、遺伝子にもっと学習機能が備わっていれば、戦争なんて一万年前に終わっていたのかもしれない。
しかし凄惨な戦争ですらなくならないのだから、家族にまつわるこんな些細な悪習が、人類から根絶されるわけがない。
暴力は常に奪うもの。
奪わない暴力なんてない。
形あるものは略取し、破壊し、変形される。
だから奪われる者は形をなくせばいい。
そうやって流浪の民は誕生した。
ただ問題は、狭い家庭の中で放浪することの難しさ。
世間とつながりつつ生活することの限界。
この体はどこにも逃げられない。
だから犠牲者は何かを所有することを諦める。
何も所有しないんだから当然、自分の体なんて真っ先に手放すのだ。
TAKE.5
プチッと夢がはじけて兄が目の前に立っていた。
「な…いいだろ」
何が「いいだろ」なんだろう。
そして私はいいと思ったこともいいよと言ったことも一度たりともない。
しかし兄は決まって「いいだろ」と聞き、その通りに行動する。
たぶん私の代わりに誰かが答えているんだ。
それは誰?
たぶん、神。
神でなければ、こんな残忍な願いを聞き入れるはずがない。
過去数十万年に渡り、人類の殺戮や裏切りや虐待を呆気ないほど簡単に許可し続けてきた神が、今また兄を守護しているのだ。
優しい神。
兄の願いを何でも許す神。
たぶん、世の中全ての男は神に見守られている。
だからこの世界は神が君臨する世界なのだ。
しかし女には神はいない。
だから女は、自分が神になる。
そうならざるを得ない。
あの日、母は泣きながら私に悔いた。
あのケダモノたちを作ったのは自分だと詫びた。
そしてお兄ちゃんには絶対教えないようにと少なくない額の現金を残してくれた。
だから私は今も生きていられる。
あのとき母は、己が神となり己に許可を与えたのだ。
その方法も教えてくれた。
さあ、今こそ私も神になろう。
兄はもう一度「いいだろ」と神に問う。
私は黙って兄を見上げる。
兄が自分のベルトに手をかけた。
「触ってくれよ」
どうやら神は、今日もまた、大いなる慈悲を以て許可を与えたようだ。
笑いたい。
思い切り笑ってやりたい。
私はもう、恐怖で動けない子どもじゃない。
この冬一番の寒さに震えた5年前の私でもない。
痛快な冷笑を浴びせて、あなたを萎縮させることだってできる。
でも、そんなことはしないよ。
私も今、神から許可を受けたのだ。
私は黙って兄のベルトに左手をかけた。
TAKE.6
痛いだろうなー… でも仕方ないよね、今、私、神だから、どんなことも許される。
神である我は我にとって唯一の神なり。
我が為すことは悉く神託であり預言であり道であり摂理。
我にとって唯一神たる我の許可の元に汝に罰を与えよう。
二度と汝が暴力を振るえないように。
この生痕を以て断罪の烙印となす。
たぶん、世の中から全ての男が居なくなれば、本当の平和が訪れるんだろう。
でもそんなことは出来ないから、この世の争いも不幸もなくならない。
もし原罪というものがあるのなら、原罪は男の存在そのもの。
男が存在するこの世界こそが、罪にまみれた永遠の荒野なのだ。
TAKE.7
え、救急車呼べって?
ゴメンね、もう少し待って。
これ、罰なんだから。
もう少し意味を噛み締めてもらわないといけないの。
あと、警察に聞かれたときの言い訳も練習しなくちゃ。
ねえ、お兄ちゃん。
その惨めな烙印を押されて、これからどう生きるつもり?
お父さんと同じ道を歩む?
病院で考えておいて。
そして、傷が癒えたらこっそり教えてね。
onaishigeo「神が君臨するこの世界」2012/11/18 初出:ブクログのパブー http://p.booklog.jp/book/38743