安堵
運命の6月15日の朝。昨日は結局あれから一睡もできなかった。
いつもより早く学校に行く支度をして、一階に下りる。洗面所の鏡の前に立って、情けない自分にガンをとばす。
ボサボサの髪に蒼白い顔、目の下にはくまができている。髪はセットせず歯だけ磨いて洗面所から出ると、ちょうど寝室から出て来た寝起きの母とばったり会う。
「おはよう。あら、もう学校行くの?早いわね」
こう見えて結構心配性な母に、死人のような自分の顔は見せられないと思い、咄嗟に下を向きそのまま玄関に向かう。
解けた靴紐も結ばず
「行ってきます」
とだけ言い残して、急いで玄関を出た。
外に出たらすぐに解けた靴紐を結びなおして、家が見えなくなる所まで全力で走った。
正直、母の顔を見た時とても泣きたくなった。その暖かい胸で、その優しい抱擁で僕を包み込んで欲しかった。そして全てが悪い夢なんだと言って欲しかった。
ようやく家が見えなくなる所まで走り抜いた僕は、無意識の内に泣いていた。乱れた息を整えながら周囲を確認した後、人通りの少ない朝の交差点で、一人声を圧し殺して泣いた。
このとき自分はまだまだ子供なんだと知った。
学校の男子トイレにある鏡の前で、潤んだ目が完全に乾ききっているのを確認してから教室に入るが、教室にはまだ誰もいなかった。時計を見るとまだ7時半だった。
自分の席に着き、時間割表を見る。
「今日のテストは生物と現代文か……」
教科書を取り出そうと鞄を机の上に広げるが、鞄の中には昨日のテストの教材が入ったままになっていた。
溜息をついて席を立ち、窓際のストーブの上に腰を下ろしてぼんやり外を眺める。今にも泣き出しそうな空は、今の僕にそっくりだ。
下を見下ろすと、まるで働き蟻が自分の巣に帰ってくるように、大勢の生徒達が疎らに列を成して登校してくる。
数分もしないうちに、教室はいつもの活気を取り戻し賑やかになる。また僕の居場所がなくなり教室を出ようとすると、傑が教室に入ってきてすぐに僕を見つける。
「あっ、優!」
あるで僕を探していたかのようだ。言われることは大概分かっている、昨日傑からのメールを無視したことを怒っているのだろう。
「何で昨日メール返してくれなかったんだよ。まさかお前が、勉強してました。とか言わないよな」
いつも通りの傑を見ていると、変に心が和んで可笑しくなって笑ってしまう。
「何だよ?何笑ってるんだよ?まさかホントに勉強してたとか?」
「いや、ごめんごめん。俺が勉強なんかするわけないだろ。昨日は帰ってから即行で寝て、気付いたら朝だったんだよ。しかも寝惚けて昨日の教材持ってきたし」
「まったく、何やってんだよ。ってか何時間寝てんだよ」
「俺が一番びっくりだよ」
傑とはいつも他愛もない話で盛り上がる。
そんな傑にさえ、やっぱり本当の事は言えない。でも傑と話していると、昨日の事を真に受けている自分が馬鹿らしく思えてきた。きっと傑に話しても、どうせ茶化すに決まってる。しかも仮にゲームが本当だとしても、名前も何も知らない相手を探すなんて2ヶ月じゃ到底無理だ。じっとしていれば絶対に見つからない。
冷静になって考えてみれば自信さえ湧いてきた。体の底から急にこみ上げてきた安心感が緊張の糸を切ると同時に、急激に睡魔が訪れる。
結局今日のテストは爆睡してしまい、かいたのは名前と鼾だけだった。