7 塗り潰した心の声
アーリヤは頭を掻きむしりながらペンを走らせる。
薄茶の紙に印字された数式が踊る。呪文が幻聴となって襲ってくる。
悪夢だった。
テストには一夜漬けが一番だと主張するクラスメイトの女友達を信じ、数式や単語を詰め込み過ぎたのが祟ったのか、別の教科の問題まで頭に浮かんでくる。
アーリヤは何とか問題を解き終えると、机に突っ伏した。
試験開始時間前ギリギリに詰め込んだ範囲が、そのままテストに出題されていたのは運が良かった。アーリヤは胸を撫で下ろし、瞑目した。
期末テスト、三限目。この数式呪文学のテストは赤点を免れたはずだ。アーリヤは、たしかな手ごたえを感じていた。
あとは歴史のテストを残すのみ。それさえクリア出来れば、補習のない夏季休暇がやって来る。アーリヤは祈るポーズで額に手を当てた。
◆ ◆ ◆
一週間後、テストの結果が個別に担任教師から返された。
期末テストの結果は、アーリヤにしては大健闘だった。
何と、苦手である歴史の成績が学年中で十位に入っていたのだ。他の教科も、真ん中あたりの順位をとっていた。
あまりの嬉しさに、アーリヤは担任から成績表をもらった時に飛び跳ねて喜んでしまい、クラス中の失笑を買った。
総合順位は中間。
しかし、アーリヤは成績表を担任が皆に返している間中、成績表に書いてある歴史学の順位を何度も見直して終始にやついていた。
ちなみに今回の期末テストではルマンデが主席だった。クラス中がジュリアメーンデに勝ったルマンデを称える。彼は嬉しそうに顔を綻ばせている。
「ジュリアメーンデ、体力テストが散々だったらしいよ」
「へえ、やっぱり温室育ちなのかな。運動不得意そうな見かけだもんね。あの人、本当に予想を裏切らないというかなんというか」
アーリヤの横に座っている少女が後ろの席の少女に耳打ちする。
誰にも聞こえないよう話しているつもりだろうが、こっそり話すほど人の耳は会話を拾う。アーリヤは、彼女達の会話を聞いてジュリアメーンデを不憫に思った。彼は、ルマンデに負けたことを非常に悔しがっているだろう。今頃、成績表を握りつぶしているかもしれない。
「ジュリアメーンデのヤツ、悔しさが過ぎて、オレに何もしてこなければいいけど」
アーリヤの後席にいるルマンデが、ぼやく。
自分が呼んでいた本をルマンデが借りたぐらいでルマンデの弁当を石化したジュリアメーンデのことだ。ジュリアメーンデがルマンデに何も危害を加えない、という確証がアーリヤには持てなかった。なので、ルマンデのぼやきには何も答えずにいた。
◆ ◆ ◆
期末テストの結果発表から一日明けた放課後、下校しようとしていたアーリヤに客人がやって来た。
クラスメイトの女子達数人は顔を赤らめて、くたびれたカバンに教科書を詰め込むアーリヤのもとへ駆けて来る。
「アーリ、お客さんよ」
「あたしに?」
「ええ! ……はあ、何も言わなかったら格好いいのにね、あの人」
つい身構えてしまうのは、このパターンで王城まで連れて行かれた記憶がまだ新しいものだからだ。
アーリヤは注意深く教室の入り口に佇む人の姿を凝視し、肩の力を抜いた。
そこに佇んでいたのはジュリアメーンデだった。
アーリヤはクラスメイトの突き刺さる視線を掻い潜り、ジュリアメーンデの真正面に進み出た。
「…………何よ」
彼自らアーリヤのクラスを訪ねるなんて――ましてや女子にアーリヤを呼んでくれと頼むなんて、初めてのことだった。
先日の一件から、アーリヤはジュリアメーンデに近付くことを避けていた。アーリヤは、つんとした面持ちでジュリアメーンデを見る。彼は言葉を探しているのか、視線を宙に彷徨わせた。
彼の首にかかっている、悪者の遺品であるロケットペンダントが憎らしい。いっそ引きちぎってやろうか、と物騒な考えがアーリヤの頭に浮かぶ。
ジュリアメーンデはロケットペンダントをいじる。そして、意を決したようにアーリヤの目を見て言葉を吐いた。
「その……僕の父に、このペンダントのことを話したら、どうしてもアーリヤに会いたいと言って聞かなくて。日が合ったらでいいから、うちに来ないか?」
アーリヤは目を瞬かせる。
ジュリアメーンデの家。
ジュリアメーンデの父親。
好奇心くすぐられる事柄に、思わずアーリヤは大きく首肯してしまった。まずい、もう少し考えてから頷くんだったと思ったが、後の祭りだ。
了承が取れたことにほっとしたのか、ジュリアメーンデは息を吐く。
「助かる」
父親から、よほど強く頼まれたのだろう。
そうでなければ、あのジュリアメーンデが家族のためだろうと他人であるアーリヤを自分の家に招待するはずがない。彼はとても用心深い少年である。
「それじゃあ、次の休みでいい? お昼食べてから来るわ」
「……ああ。夕食は、僕の方で手配する。マンヴィ通りにあるカフェに待ち合わせでいいか」
うん、とアーリヤは頷き、カバンに手を突っ込んだ。そして、さりげなく黄ばんだ紙をジュリアメーンデに握らせようとする。しかし、彼はそれを避けた。
アーリヤは口を尖らせる。
「――――その代わり、この地図受け取ってよ」
「……それとこれとは別だ。じゃあ、僕はこれで」
ジュリアメーンデは颯爽とその場を去る。
「もうっ!」とアーリヤ叫んだが、彼が立ち止まることはなかった。
「はあ、じゃあルー、帰…………」
自然と流れた自分の言葉を切る。
いつもアーリヤの隣にいるルマンデは、いない。彼は最近、前にもまして図書室にこもりきりになっている。休みの日も、王立図書館へ足を運んでいるのだと彼は自慢げに話していた。校内でも、アーリヤと一緒にいない時は例の柄の悪い連中とつるんでいた。
ルマンデは変わっていく。
段々、アーリヤが知っているルマンデではなくなっていく。
最近は、彼が何を考えて行動しているのかわからなくなってきた。これが、思春期の変化だとでも言うのだろうか。アーリヤは一抹の不安を胸に抱き、カバンを肩にかけると教室を後にした。
◆ ◆ ◆
アーリヤは珍しく、母親の鏡台を借りて髪の毛を編み込んでいた。輪郭の周りを編み込めば、一気に顔色が明るくなる。まだアーリヤには早いと母親からは禁止されているが、こっそりルージュも唇に乗せてみた。
何だかんだ言ってもジュリアメーンデの顔はアーリヤ好みである。
そんな彼の家に行くのだ。めかしこまない方がおかしい。
アーリヤは自分の持っている服の中でも一張羅の部類に入るパフスリーブの空色のワンピースを着た。鏡の前で、一回転して微笑してみる。
市場で擦れ違った知り合いの誰もが、アーリヤのよそ行きの格好を褒めてくれた。アーリヤはなるべく平静を装って王都の東側へ足を踏み入れた。
マンヴィ通り。
そこへ足を運んだ瞬間、一気に景観が洗練されたものに変わる。裕福層の人々が訪れるブティックや食品店が所狭しと建ち並んでいる。道行く人は誰しもおしゃれで、高価そうな仕立ての服を着ている。 アーリヤは自分の履いている薄汚れたブーツに目をやり、通りのすみでハンカチを使ってこっそり磨いた。
おそらく、ジュリアメーンデが指定したカフェだろうと思われる店にアーリヤは入った。ゆったりとしたテンポの曲が流れているカフェ内は昼時を少し外したことで、人はまばらだった。もしランチの時間にここへ来ることがあれば、人でごった返しているだろう。
そう思わせるに相応しい、おしゃれなカフェだった。
戸惑いがちに背伸びしてアーリヤがジュリアメーンデの姿を探していると、黒の燕尾服を着た店員が優雅にお辞儀をし、微笑んだ。
「あーっと」
「アーリヤ、こちらだ」
何と言えばいいかわからず、引き攣った笑いを浮かべるアーリヤに助け舟が出される。
観葉植物の合間から、ジュリアメーンデの顔が見え隠れする。アーリヤは店員に連れであることを告げて、ジュリアメーンデの席まで案内してもらった。彼は、アイスティー片手に呪文集を読んでいた。
「……ああ、やっと来たか。好きなものを頼むといい。昼食は摂って来ただろうから、飲み物でも。……安心しろ、おごるから」
「いいの?」
「わざわざ来てもらうんだから、当然だろう」
「ジュリアがそんな紳士的なふるまいが出来るなんて……全く以って意外だわ」
「…………」
ジュリアメーンデは不服だと言いたげに顔を歪めたが、何も反論せず呪文集に視線を戻す。
アーリヤはメニュー表を見て、一番安い炭酸水を頼んだ。
ジュリアメーンデは遠慮するなと言ってくれたが、人から奢ってもらうのには抵抗がある。まして、奢りだからと言って高いものを平気で頼める根性をアーリヤは持ち合わせていなかった。
炭酸水でもいつもの立ち食い屋に比べて二倍の値段がするのだ。そんなカフェで堂々と読書出来るジュリアメーンデは裕福なのだろう。
店員が持ってきた炭酸水には、四分の一にカットされたレモンと一口サイズの砂糖菓子が添えられていた。粋な計らいに驚いてアーリヤが店員を見ると、店員は「サービスです」と優雅に笑んでくれた。
会計を済ませ、アーリヤとジュリアメーンデはなだらかな坂道を歩く。サンマウド王国の都は丘陵地帯に建造されており、都のそこかしこが坂道となっている。
「着いたぞ」
ジュリアメーンデは黒い門の閂を外し、家へと続く小路を歩き出す。
アーリヤは眼前に広がる貴族の家さながらの豪奢な家を前にして、ポカンとしていた。
小路には赤、黄、橙など色とりどりの花が咲き誇っている。
よく手入れされているのだろう青い木々は、全てダイヤ型に揃えてある。庭師と目があった。優しいそうな目元をした老人は、ジョウロを片手に礼をする。アーリヤとジュリアメーンデも彼に礼を返した。
庭はとても広く、白いベンチやテーブルなども置かれていた。
ようやく玄関に辿り着いた。白亜の石段を二段上がったところにチャイムとドアがあった。ドアは丁寧に施された細工が午後の光に反射して美しく輝いている。
本物の宝石が埋め込まれており、見る角度によってドアは色彩を変えた。ジュリアメーンデはドアノブを回し、顎を使ってアーリヤに中へ入るよう促した。
「おじゃまします……」
別世界だった。
絵本で見た貴族の館をも凌ぐ、圧巻の玄関ホール。磨かれた床にアーリヤの姿が映り込む。
ジュリアメーンデは手前にある丸テーブルに置かれた呼び鈴を鳴らす。
すぐに下働きの娘が出て来た。
彼女はスカートの裾を摘まむと、姿勢を崩さず腰を落とした。完璧な礼儀作法を前に、アーリヤは気後れする。自分も娘がしたようにお辞儀して見せようとしたが、上手く行かずにつんのめった。転びそうになるアーリヤの腕をジュリアメーンデが引っ張ってくれる。
「おかえりなさいませ、ジュリアメーンデ様」
「客人だ、父を呼んでくれ」
「かしこまりました」
下働きの少女はジュリアメーンデの命を受けて二階に駆け上がる。走っているにも関わらず、靴音がしない。彼女がよく出来た下働きである証拠だ。
「ジュリア、あんた……噂通り、お金持ちだったのね」
「……そうだな」
端的に答えながらも、ジュリアメーンデは顔色一つ変えない。当然だとふんぞり返ることもなければ、謙遜することもなかった。
ただ、自分の家が金持ちだとか、そのようなことあまり気にしていない風だった。
「おお、君がアーリヤか!」
快活なテノールの声が玄関ホールに響いた。
アーリヤの真正面にある階段上に、下働きの娘に支えられて立っている壮年の男性がいた。彼はとび色の髪を後ろに流しており、同色の目は丸い。笑い皺の刻まれた顔に笑顔を滲ませる。彼は下働きの少女と自らが持った杖で一段ずつ階段を下る。そして、アーリヤに握手を求めて来た。
「わしがジュリの父だ。コンという」
アーリヤは唾を呑み込み、精一杯の笑顔を取り繕って握手した。アーリヤは内心、ひどく動揺していた。
ジュリアメーンデの父親は、顔は人間だったがその体躯は熊のように大きく、とび色の毛で覆われていた。それに、耳が尖っている。
――亜種族だ。
サンマウド王国は人間の国という別称もあるぐらい、ほとんど人間しかいない国だ。
アーリヤ自身、本などの挿絵程度の知識はあるものの実際に亜種族の者を見たのは、生まれてこのかた初めてだった。亜種族には様々な者がおり、天使や堕天使、悪魔のように肩甲骨の部分から翼のある者もいるという。
聖プローシュ学校で教えられる亜種族の話は、どれも凶暴で、大昔に初代悪者と共に王国を滅ぼそうとしたことなど、嫌な話ばかりだった。そのため、いくらジュリアメーンデの父親だと名乗られたところで、恐れおののく気持ちは消えない。
それでもアーリヤは果敢にも口火を切る。
「初めまして、アーリヤです。ジュリアとは同じ学校で――」
「ああ、ジュリから君のことは聞いているよ。立ち話も何だ。さあさ、中に入りなさい」
ジュリアメーンデの父親は、そう言って手を叩く。
下働き達が一斉に現れて、アーリヤに礼をする。どうやら使用人達は人間のようだった。
アーリヤとジュリアメーンデは下働きの案内に従って居間へと招待された。
居間には皮張りの落ち着いた色合いをしたソファと大理石で出来たテーブルが置かれてある。壁には本棚があり、ぎっちりと美しい背表紙をした本が詰め込まれていた。あまりに膨大な本の量に、アーリヤは目を白黒させる。
コンは下働きの娘からティーセットを受け取ると、自らカップに紅茶を注いでアーリヤに給仕した。 アーリヤは、家主から出された紅茶に恐縮する。
ジュリアメーンデの父親は一しきりお茶の給仕を済ませると、アーリヤとジュリアメーンデが座っているソファの対にあるソファへ腰かけた。彼の横に、すっと線の細い女性が座る。彼女もまた亜種族で、鋭く尖った爪と鳥のような鱗のある手足が印象深かった。
コンは、妻のパンナだとアーリヤに親切にも紹介してくれる。パンナはアーリヤに淡く微笑み、すぐに視線を転じて自らの抱いた赤ん坊に慈しみの表情を向けた。赤子はふくふくとした頬にえくぼがあった。耳は尖っていてコンそっくりだ。
「そんなに固くならなくていい。父は客をもてなすのが好きなんだ」
極度の緊張で冷や汗をかいているアーリヤに、ジュリアメーンデは声をかけた。
コンは豪快に笑った。邪気の全くない彼の笑顔や仕草に、アーリヤの緊張は少しだけ解けた。
「そのとおり。いやあ、君が悪者の遺品を持っていたと聞いていても立ってもいられなくなってね。ジュリにお願いして、招いてもらったんだ」
「……お願い、というそんな生ぬるいものじゃなかっただろうが」
ジュリアメーンデは小声で毒づく。どうやら、アーリヤを呼ぶにあたって親子の壮絶な戦いがあったようだった。
コンは何を言うでもなく、朗らかな表情でアーリヤを見つめる。深いとび色の目にアーリヤの心全てが見透かされているような気がして、居心地が悪く感じ、アーリヤはもぞもぞと体を動かした。
その時、赤ん坊が金切り声で泣き出した。パンナは立ち上がり、隣室へ姿を消す。
「大丈夫なの?」
「ああ、多分……あの泣き方は、眠くなったんだろう」
ジュリアメーンデは立ち上がり、席を外す。彼もまた、隣室へと消えた。
カラカラと赤後をあやすための道具を使う音がする。女性の優しい子守唄がドア越しに聴こえてくる。
その歌声に浸るように目を瞑り、コンはソファに凭れかかる。
「わしは、悪者と友人だったんだ」
「そう、なんですか」
「見てのとおり、わしは亜種族なんだがね――わしはマングッパ族という種族だ――、あいつだけは態度を変えずに接してくれていた」
懐かしむように、コンは目を細める。
「――あれはもう、十五年前になるかな。隣国のプラウディア連邦国へ行く心づもりでいたわしは、あいつから赤子を預かってね。『俺はこの子を一緒に連れて行けない。追われているんだ。この子のことを頼めるのはお前だけ。……頼まれてくれないか?』と。彼らしからぬ弱気な口調で言われてしまって」
アーリヤの中に、一つの答えが浮かんだ。あまり、そうであって欲しくない答え。
「その、赤子って……もしかして」
「…………アーリヤ、君は聡い子だね。そうだよ、ジュリだ。本当に、あいつは父親そっくりに育ったよ」
アーリヤは、頭がぐるぐるする。
では、あのロケットペンダントはジュリアメーンデの実父の形見なのだ。だから彼はペンダントをあげた時、あんなにも泣きそうな顔をしていたのだ。
それをアーリヤの両親は知っていた。両親は知っていたからこそ、ペンダントをジュリアメーンデに渡すよう言ったのだ。
悪者になりたい少年というだけで、ロケットペンダントをジュリアメーンデにあげろとわざわざ父が言ったのには納得がいかなかったが、もし父や母がペンダントの持ち主がジュリアメーンデの父親であるという事実を知っていたならば、話は変わってくる。
コンは隣室に目をやる。彼の目には愛情が溢れていた。
「ああして、血の繋がっていない弟の心配もしてくれる。この国では、わしらがあまり町を出歩けないのをわかっているから使用人の手配から何やら、ジュリがやってくれているんだよ。連邦国の学校へ行かせようとも思ったんだが、あっちは人間に対する敵愾心が強い国だからね。こっちにやって来たんだ。まあジュリは、『自分は強いから差別になんて負けない。絶対に、プラウディア連邦国の学校に通う』と言って聞かなかったが。……あの子は父親に似て、とても不器用で、とても優しい子だ」
コンはアーリヤに笑顔を向ける。ジュリアメーンデの本当の父である悪者がどこにいるのかは、何となく聞くのを憚られた。
「ジュリが学校のことを口にする時、出てくるのは君だけだったよ。いや、ひねくれた子だからね。学校では友達が出来ないんじゃないかと気をもんでいたんだ。嬉しかったなあ……あの子が君のことをわしと妻に話してくれた時は、神に感謝した。しかも、悪者の形見をジュリにくれたというんだから」
コンの言葉の端々に、ジュリアメーンデに対する温かな思いが窺い知れる。彼は、彼らに愛されているのだとアーリヤは感じた。そして、ジュリアメーンデもまた、彼らを愛しているのだろう。
「――――ありがとう」
アーリヤの胸に、何かが去来した。
コンの目頭に涙が浮かんでいる。
心からの感謝の言葉は、これほど人の胸を打つものなのか。
鼓動が速まり、アーリヤは自分の中にある優しさに火がつくのを感じた。
「……父さん?」
隣室からジュリアメーンデが顔を出した。
コンが涙目なのを見て、眉をひそめる。険呑な眼差しで睨みつけられたアーリヤは、自分が泣かせたわけではないと無実を訴える視線を送ったが見事に無視される。ジュリアメーンデはコンの傍により、父親の肩に手を乗せる。
ジュリアメーンデらしくない気遣い溢れる行為に、アーリヤは胸がじんとした。
「何でもないんだよ、ジュリ。ただ、悪者の話をしていたら色々思い出してしまってね。ああ、そうだ。アーリヤ、ジュリの部屋でも見て来てはどうだろう」
「……え」
アーリヤとジュリアメーンデの声が重なった。
「そうよ、そうよ。この子の部屋、歴史書がたくさんあるの。あと、物語とかもね。アーリヤも気にいるものがあると思うわ」
いつの間にか隣室から出て来たパンナは、熟睡している赤ん坊を抱いてコンを援護した。
「物語? ……見たい」
アーリヤは指を組んでジュリアメーンデを見つめる。
彼は深く溜め息を吐き、「わかった」と言って歩き出した。
その時、寝ていたはずの赤子が目を覚まし、ジュリアメーンデに向かって笑顔で手を伸ばす。その小さな手を優しく握り、ジュリアメーンデは微笑を零す。その微笑は、アーリヤの心臓を見事に撃ち抜いた。
階段を上る途中に擦れ違った使用人に「……夕食が出来たら呼んでくれ」とジュリアメーンデは頼んでから彼は部屋のドアを開ける。
「うわあ……」
二階にある大きな部屋で、アーリヤは感嘆の声を上げた。壁一面の本は居間にあったものより分厚いものが多く、ジャンルごとにきちんと整理されていた。
図書室などよりずっと、種類が豊富に見える。アーリヤは目を輝かせて本の背表紙を眺める。装丁が美しいものもあれば、何度も読み込んだのだろう――ボロボロな本もある。濃密な本の香りがアーリヤの心を躍らせる。
余程、物欲しそうに見ているように見えたのだろうか。ジュリアメーンデはアーリヤの後ろから「……読みたい本があったら、貸してやる」と言ってくれた。
「本当にっ? 嬉しい」
アーリヤは空想上の物語や昔話、絵本が収納してある棚の上から下まで目を皿のようにして見た。
「――……本如きではしゃぐなんて、ガキだな」
厭味を言うジュリアメーンデに取り合うことはせず、アーリヤは人差し指で背表紙を撫でてゆく。
ふと、汚れた赤い背表紙の本に指が止まった。
何故か気になった。アーリヤはそれを抜き取り、ページをめくる。すると、後ろから抱き込む形で、 ジュリアメーンデはその本を閉じようとする。
彼の制止は遅かった。アーリヤは見てしまった。悪者が亜種族の怪我を診てやっている挿絵を。
「この本って……」
「…………お前は知らなくていい」
「教えてくれないんだったら、自分で読む」
「……これは、プラウディア連邦国の言語で書かれている。お前には読めない」
「じゃあ、これ貸して。辞書引いてでも読むから」
「……アーリヤ」
「何よ、何でも貸してくれるって言ったじゃない」
まるで駄々をこねる子供みたいだと、アーリヤは自覚していた。
しかし、本の挿絵は今までアーリヤが悪者に対して持っていたイメージを覆すに相応しいものだった。
どうしても、読みたかった。
読めば、もう少しジュリアメーンデに近付ける気がしたのだ。彼が何故、頑なに勇者になることを拒み、悪者になろうとするのか。これは、それをひも解くことの出来るものだとアーリヤの直感が叫ぶ。
ついにジュリアメーンデは頑固なアーリヤに折れ、連邦国の言葉で書かれた本を読んでくれた。
あらましは、悪者が英雄だということだった。予想外の内容にアーリヤはひどくうろたえる。
ジュリアメーンデは本を閉じ、目頭を押さえた。
「……プラウディア連邦国で『ジュリアメーンデ』は、勇者と呼ばれている。反対に、『ルマンデ』は悪者。アーリヤ、この国で生まれてこの国で育ったお前にはわからないかもしれないが、名というのはどの立場にいるかによって意味を大きく変える」
特に、『ルマンデ』と『ジュリアメーンデ』は。とジュリアメーンデは呟く。
「……連邦国にいた頃、ジュリアメーンデの名を持つおかげで、亜種族達から僕に対する差別は随分緩かった」
「でも、初代悪者・ジュリアメーンデは……このサンマウド王国を滅ぼそうとしたんでしょう? それは――」
「その頃……いや、今もだが。今よりも、サンマウド王国は亜種族に対してとても酷い圧力をかけていた。生きる権利さえ亜種族達はなくし、自分達の運命を悲観していたんだ。そんな時、一人の青年が現れた。彼は、どういう意図を持っていたかは別にして、亜種族達の味方についた。青年はとても強力な黒魔法の使い手で、サンマウド王国からの解放を亜種族達に呼びかけた。その結果が、最初の勇者・ルマンデと最初の悪者・ジュリアメーンデの戦いになった。そして、亜種族達の独立国家・プラウディア連邦国誕生の足がかりになったんだ」
アーリヤの知らないことが一気にジュリアメーンデによって語られる。
「そんな話、聞いたこともない」
「……当たり前だ。王国側が自分達の不利になる情報を民においそれと流すはずがない。……この国で亜種族がどんな扱いを受けているか、お前は知らんだろう。今はだいぶ緩和されてきたが、父さん達が子供の頃はとても酷かったらしい。亜種族は当然のように医療実験の対象とされていたし、どのくらいの致命傷を与えれば死ぬかなどの実験も盛んに行なわれていた。父さんの姉など、獣と交配出来るかなんて実験に使われたという。むごい……とても、むごい仕打ちをたくさんされたんだ。プラウディア連邦国にいる父さん達の同胞が、僕達人間を憎む理由も道理だろう。彼らはもともとこの国の住人だった。それを、人間が追いやったんだ」
「……っ」
知らなかった。そのようなこと、アーリヤは知らなかった。
学校で習うこと――そして大人達が教えてくれることの中に、王国は亜種族を虐げているという話などなかった。
亜種族達は物作りや商才があり、資産家も多い。そのため、自らの利益となるならと彼らを最低賃金で雇う者もいる。聞いたことのある話はそれくらいだった。
「だが、一括りに王国が悪だと決めつけることもできない」
「…………?」
「初代悪者の真意が、『亜種族達の解放』にあったとは言い難い。彼は、サンマウド王国の新たな王となりたがっていたらしいから」
「そうなの?」
ジュリアメーンデは頷く。彼は何とも言えない表情で古ぼけた赤い本を見る。
「…………父さんから聞いたかも知れないが、僕の本当の父は現・悪者だ。今、どこにいるかはわからないけれど……僕は、父を見つけ出してその名を引き継ぎたい。お前達にとって、勇者は正だろうが、僕にはそんなこと関係ない。……僕は育ての父と母、そして生まれたばかりの弟を、守りたい。サンマウド王国を、亜種族も笑って暮らせるような国にして見せる。僕は、必ず革命を起こす」
アーリヤは、何故ジュリアメーンデが勇者になることを拒否したか理解出来た。しかし、それでも――――。
「――勇者じゃ、守れない?」
「……何……?」
「勇者は、亜種族の人達を、守れないの?」
「アーリヤ――お前……」
ジュリアメーンデは虚を突かれたような顔をした。
アーリヤは思った。たしかに、勇者は王国の英雄、そして、国王の右腕なのかもしれない。
しかし、もしもジュリアメーンデが勇者になったならプラウディア連邦国とどうにか和解出来る策を捻り出せるような気がするのだ。隣国同士であるのに、王国と連邦国には国交がない。入国するには別の国を介してでないと入国できない。しかも、互いの国の者とわかれば差別をする。
ジュリアメーンデなら、亜種族と人間の溝を埋めようと奔走してくれるのではないかと思ってしまった。
「ご、ごめん。つい……」
アーリヤは気まずい雰囲気に耐えきれず謝った。ジュリアメーンデは黙り込んだ。
それから会話がなくなった二人のもとに下働きの娘がやって来て、夕食の準備が整ったことを告げた。夕食時、気まずいアーリヤとジュリアメーンデを察してくれたのか、コンとパンナが明るくふるまってくれた。
学校の様子や王都の様子、ジュリアメーンデは日頃どんな風にクラスメイトと接しているのか。コン達はたくさんのことをアーリヤに尋ねた。アーリヤは面白おかしくそれに答える。たまにジュリアメーンデは不機嫌そうに口を挟んだ。
やがて、空が茜色に染まってアーリヤが帰る時間となった。
「……送る」
「いいって。あたし、方向音痴じゃないし」
「だが、夜道は――」
「何言ってんの。まだ日も落ちてないわ。夏の昼は長いのよ」
「……そうか。わかった、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。ジュリア」
押し問答の末、アーリヤは一人帰路につく。
自分が今まで知らなかった事実や見解は、とても考えさせられるものがあった。
アーリヤが家の前まで辿り着いた時、そこにいた人物を見て身を固くした。ルマンデだ。
彼は柵に腰かけて読書をしていた。アーリヤの姿に気がついた彼は、にっこり笑って読んでいた本を閉じる。
「おかえり、アーリ」
「ああ、うん。ただいま」
アーリヤは水色のワンピースを着てめかし込んでいることで、ルマンデから何か突っ込まれるのではないかと内心冷や汗をかいていた。
「じゃあね」
後ろめたい気持ちが大きく、すぐにその場を立ち去ろうとする。
しかし、ルマンデの声がアーリヤを止めた。
「ジュリアメーンデの家に行ってたんだろ。メグに聞いた」
アーリヤは妹の口の軽さを呪った。メグの調子が良い顔を思い浮かべ、思い切りグシャッと潰してやりたくなる。
証人がいるのなら、嘘を吐くこともできない。アーリヤは観念してルマンデを振り返った。
「うん、そうだけど……何か問題ある?」
「いや、今日遊べないかと思って家に来たらそう言われたから……それだけ」
ルマンデは数冊の本を抱え直す。アーリヤは背表紙に目を走らせる。それらは全て黒魔法関連の本だった。アーリヤは眉をひそめた。
「随分ジュリアメーンデと仲良くなったね、アーリ」
棘のあるルマンデの言い方に、アーリヤは苛立つ。
売り言葉に買い言葉。アーリヤは鼻を鳴らした。
「あんたも随分といい友達持ったみたいね、ルー」
「何が……」
「あんたの持ってるその本、『お友達』に借りたんじゃないの?」
「これはジュリアメーンデに対抗するために……」
「いつもそう言ってるけど、実際にジュリアが黒魔法使ったところ、見たことあるの? 彼はそんな禁忌の魔法を使わなくても強いわ」
「アーリ、キミは……」
「もうこれ以上、そんな魔法について学ばないで!」
正直なアーリヤの気持ちだった。ルマンデが黒魔法を学べば学ぶ程、アーリヤから遠くなって行く。
幼い頃からいつも一緒にいたはずなのに、今ルマンデが何を考えているのかアーリヤにはさっぱりわからなかった。
「それは――――出来ない」
いっそ潔い程きっぱりとした拒否に、アーリヤは怒りに身を震わせた。
「ルー、あんた変わったわ!」
ルマンデは挑むように睨むアーリヤの目と鼻の先に近付く。彼の表情は、逆光でよく見えない。
「――キミは、どっちの味方?」
アーリヤは息を呑んだ。思わず、視線を逸らす。
「それは…………」
即答できなかった。
ルマンデは、その答えを聞かずに場を立ち去る。
アーリヤは項垂れた。ルマンデにかける言葉を今のアーリヤは持っていない。
変わったのは、果たしてどちらなのか。
そう暗にルマンデが問いたかったのを、アーリヤは肌で感じた。
意気消沈してドアノブを回し、「ただいま」と間延びした声を上げると、大きな足音を立てて末の弟が駆け寄って来た。末弟はアーリヤのスカートに飛びつき、弾けんばかりの笑顔を向ける
「おかえりー」
前歯の抜けた弟の笑顔はルマンデとの会話で気落ちしたアーリヤを、幾分か慰めてくれる。
「おかえりなさい! デートはどうだった?」
「だから、デートじゃないって言ったでしょうが」
白々しく絵本を読みながら、アーリヤより二つ下の妹・メグは悪戯っぽく小さく笑う。アーリヤは末弟を抱き上げてイスに座っているメグの後ろに立つと、妹の耳を思い切り引っ張る。メグは悲鳴を上げた。
(メグがルーに言わなきゃ、あたしとルーは喧嘩せずにすんだのよ!)
憎たらい程大げさに耳を押さえるメグへ、アーリヤは舌を出した。
「あら、デートだったの」
台所に立っている母親が会話に参戦してくる。アーリヤは慌てて首を横に振った。
「違うってば」
「じゃあ、誰と遊んでたんだい?」
居間のすみで、木彫りの細工物を作っていた父親に問われる。
「……ジュリアよ」
アーリヤが渋々答えると、両親は嬉しそうに顔を見合わせた。両親の何か裏を臭わせる態度に、アーリヤは末弟を床に降ろして憤然と腕を組んだ。
「……父さんも、母さんも、彼の父親のこと知ってて黙ってたんでしょう? 酷いわ。あたし、びっくりしちゃって、何て言えばいいかわからなかったんだから」
「すまん。いや、そのことは本人に聞いた方がいいと思ったからな。……そうだ、アーリヤ。今度、夕方以降にジュリアをうちに連れてきなさい」
「……どうして」
アーリヤは片眉を上げる。唐突過ぎる。
もし、アーリヤを招待してくれたお礼ということならば、ジュリアメーンデは来ないだろう。彼はとても気難しい。
自らの家族がアーリヤに会いたいと言うから招待しただけだから、礼をされる覚えはないとつっぱねるに決まっている。
「連れて来たら、アーリヤの名付け親について教えてやろう」
アーリヤの好奇心が強いことを知っていて、父親は言う。母も父の言葉に同意し、首を縦に振った。
「じゃあ、連れて来るから先に教えて」
「それはいかん。お前のことだ。『やっぱりやーめた』なんて言い出しかねないだろう」
「…………わかった」
アーリヤは自分の好奇心を呪った。