4 天使の微笑
「お前も大概しつこいな……っ。行かない、と言っているだろう」
心底イライラとした表情で、ジュリアメーンデは制服の袖を引っ張るアーリヤを何とか振り切ろうとする。アーリヤは引こうとしなかった。
今日はアーリヤのクラスとジュリアメーンデのクラス合同で、王城のすぐ横にある古ぼけた聖堂――ルマンデ・ポウロ聖堂にて課外授業がある。
「いいじゃん。こうして一緒の授業受けられること、滅多にないんだし」
「……僕は別に、お前達のクラスと一緒に授業を受けたいと思ったことはないし、これからも思うことはない」
「そんなこと言わないで。授業中に外へ出られるなんて、幸せでしょ?」
「いいや、全く。……場所が場所だ」
ジュリアメーンデは頑なに拒否を続ける。攻防は、早数十分前から続いていた。
ルマンデ・ポウロ聖堂はサンマウド王国を代表する、由緒正しき聖堂だ。老朽化が進んでおり、近年何度も改装工事が行なわれているが、その美しさが翳ることはない。毎日、多くの礼拝者でごった返している。
ジュリアメーンデが聖堂へ行くことにごねているのには理由があった。
ルマンデ・ポウロ聖堂は、その名が示すとおり初代ルマンデが建てたとされている聖堂なのである。
彼の意見は一点張りだ。
「ゆくゆく悪者になると決めているこの僕が、学校の課外授業ごときのために勇者が祀られた聖堂へ行くことは出来ない」
「だから、勇者は祀られてないってば。造ったのは勇者かもしれないけど、祀られてるのは、天使!」
ぐっとジュリアメーンデは声を詰まらせる。
ルマンデは、アーリヤとジュリアメーンデの攻防を黙って見守っていたが、引率する教師の「一年A組、一年B組の生徒達、集合しなさい」と言う声を聞くや否や、不毛な言い合いを続けるアーリヤの首根っこを掴んで集合場所まで引きずる。
「ほら、時間切れだ。アーリ、ジュリアメーンデのことは放っておけよ。先生に怒られちゃうだろ……って、おい」
アーリヤは、ルマンデに引きずられながらも、しっかりとジュリアメーンデの腕にしがみついていた。
(これ以上、ジュリアを悪目立ちさせたくない)
それが、アーリヤの思いだった。ジュリアメーンデはただでさえ学校中の人々から敬遠されている。
今回、課外授業に行かなかったとしたら、影で彼はまた何かしら言われるのだ。
――さすがは悪者の名前を持つ奴だな。
――退学にしてしまえばいいのに。
その光景が手に取るように思い浮かぶ。
入学してから約半年、幾度となく耳にしたジュリアメーンデへの誹謗中傷。彼は反感を買いやすい。
アーリヤはそれが悲しかった。ジュリアメーンデは、本当は優しいのだと皆に伝えたかった。だが、彼はそれを望んでいない。あくまでも今のスタンスを崩すことはしないつもりなのだ。
「…………アーリヤ、わかった。僕の負けだ。ルマンデ・ポウロ聖堂には行く。……だから、離せ」
ジュリアメーンデが眉根を寄せて降参のポーズを取る。それを見て、ようやくアーリヤは彼から体を離した。
「良かった! あたし、まだ歴史わかんないところだらけだから、教えてね」
ジュリアメーンデは、げっそりとした顔で頷いてみせる。
先頭の列から大幅に遅れを取りつつも、アーリヤ達は歩き出した。
「じゃあ、早速。あの聖堂って一体いつ造られたの?」
「正確なところはわかっていない。学者達の間でも意見がわかれているらしい。聖堂に使われている材木やガラスの成分が、現在あるものとまるっきり違うところを見ると、かなり前に造られていると思われるが」
「ふーん。というか、あんな崖上によく建てられたよね」
「……昔は、あの場所は崖じゃなかったらしい。大きな戦の際に崩れて、崖となった」
「――――初代・勇者と悪者の戦い、だろ」
ルマンデが口を挟む。
ルマンデとジュリアメーンデの両者は、アーリヤを挟んで火花を飛ばす。
アーリヤは二人の仲の悪さに肩を竦めた。
市場や住宅街を抜けて、総勢六十名の生徒達は、ピクニック気分で楽しくおしゃべりしながら聖堂へ向かう。実際、課外授業が終わったら昼食は自由に摂っていいということだから、ピクニックに近かった。
板書のない歴史の授業はいいものだ、とアーリヤは機嫌良く軽い足取りでレンガ造りの坂道を歩く。
やがて、丘陵地帯にある王城へ辿り着く。物々しい門番に元気良くあいさつをして、先生を筆頭にアーリヤ達は王城右手にある聖堂へ辿り着いた。
「……何だ、あの愛想がない王城の門番は。あいさつしても微動だにしないなんて、あれでも騎士か」
「愛想の欠片もないオマエにそんなこと言われるなんて、門番もとんだ災難だな」
「……何?」
「はいはい、二人共喧嘩は後にして下さーい。聖堂の中に入ろう」
そう言いながら、逸る気持ちを胸に押し込めてアーリヤは見事な造形物を見つめる。
アーリヤはルマンデ・ポウロ聖堂に礼拝したことがなかった。
季節の変わり目や新しい年度を迎える度、ルマンデは伯父に連れられて聖堂へ行っていたようだったが、アーリヤは一度も連れて行ってもらったことがない。アーリヤの両親は毎日働いている。休みなどない。
アーリヤには弟五人と妹二人がおり、食べ盛りの子供を食べさせるため両親は身を粉にして働いていた。
そんな彼らに、聖堂でお祈りがしたい、など口が裂けても言えなかった。
聖堂に入るにはお布施がいる。お金がいるのだ。貧しい者は祈る行為のためだけにお金を使えない。それは、変えられないこと。
何度かルマンデが、お布施はオレが出すからと誘ってくれたことはあったが断った。お布施は最低額でも大粒の宝石二個分する。いくらルマンデの伯父が王宮騎士をしているからと言って、甘える気にはなれなかった。
柔らかい草の生えた丘にある聖堂は、壮厳な佇まいで、崖の端に建っていた。
長い年月を経て雨ざらしにされてところどころくすんでいるものの、白い建造物は見る者の心を洗う。扉に填め込まれたステンドグラスは宝石の如く輝きを放ち、七色に変色する。
美しすぎて、アーリヤは言葉も出せなかった。
アーリヤの横で、ジュリアメーンデは嫌そうに顔を歪めた。彼にとっては美しくも何ともないらしい。
「……入るぞ」
少し震えた声で、ジュリアメーンデがアーリヤへ声をかけてきた。
「緊張してるの?」
問えば、ジュリアメーンデは自嘲するように笑う。陶磁器然に白い肌が色ガラスによって色づく。
「……当たり前だろう。悪者の名を持つ者が聖堂なんかに入るなんて、前代未聞だ」
あ、とアーリヤはジュリアメーンデを見つめた。
蒼い絨毯が敷かれた聖堂内へ彼は足を踏み入れる。
ジュリアメーンデは、聖堂の奥に広がる天使や勇者の絵で埋め尽くされた天井を眺めていた。
ブラックダイアよりも黒い、深淵の髪色。きっと、絡まることなどないだろう美しい長髪。夜空を凝縮したような藍色をした切れ長の瞳。
整った美貌は、彼を孤独にさせる。
光が零れる聖堂内にも関わらず、ジュリアメーンデには日が射さない。異質な空間で、彼は浮いていた。そこだけ違う空間のように。
彼は、すっと目を細めた。
ジュリアメーンデの繊細な作りをした指が、一つの絵画を指差す。
「あれが、天使か」
「うん」
世界創生を描いた絵画だろうか。天使は微笑みを洩らして二人の青年に微笑んでいる。光と闇の狭間でかの天使は微笑んでいた。
「……眩しいな」
そう呟き、ジュリアメーンデは奥へ進んだ。他の生徒達は既に長イスに座っている。
真ん中に蒼い絨毯が敷かれており、その両脇に長イスが列になって並んでいる。ジュリアメーンデは、まだ誰も座っていない一番後ろの席を陣取った。アーリヤもその横に腰かける。
「気に食わないけど……まあ、いいか」
ルマンデも、アーリヤの隣席を選んだ。
ジュリアメーンデはアーリヤやルマンデに目もくれず、指を組んでそれを額に寄せ、目を閉じた。憂いを乗せた長い睫毛は彼の頬に濃い影を落とす。
(ねえ、ジュリア。何を祈っているの?)
心の中で問いかける。
「さあ、それでは授業を始めます。この、ルマンデ・ポウロ聖堂の設立は――――」
先生の声に、アーリヤは背筋を伸ばす。
厳かな雰囲気の聖堂内は、生徒達のざわめきと先生の声で埋まっている。
ようやく、ジュリアメーンデが顔を上げた。ちょうど、先生がルマンデとルマンデ・ポウロ聖堂の関わりについて話している時だった。
「勇者に選ばれる者は、ここで天使の祝福を受けると言います。かの天使・アーリヤ様は、我が国を救う勇者に微笑むのです」
「……ふん、馬鹿馬鹿しい」
小声で毒吐き、再びジュリアメーンデは瞑目する。
「ちょっと、寝る気?」
「……講義が終わったら起こしてくれ」
アーリヤにそう言い残し、ジュリアメーンデは夢へと飛び立った。
「相変わらず、勝手なヤツだな」
嫌悪感を剥き出しにして、ルマンデが低く呟いた。
いつもならちょっとした悪口でも拾い上げるジュリアメーンデだが、今日はぐっすりと眠り込んでいる。
「でも、寝顔も……綺麗」
「アーリ」
「はい、申し訳ございません」
ブリザードさながらのルマンデから発せられた冷たい声に、アーリヤは体を縮ませる。
と、その時。
聖堂の鐘が鳴った。大きく響くそれは、心臓の音と共鳴する。
「な、何だ?」
ルマンデが素早く立ち上がり、身構える。彼は懐に忍ばせているナイフへと手をやった。
他の生徒達もいきなりの出来事に周囲を見回している。聖堂に初めて入ったアーリヤにはこの状況があまり良く理解出来ないが、どうやらいつもは鐘など鳴らないらしい。教師も、聖堂に仕える神官達も動揺していた。
鐘の音は止まない。耳鳴りのような感覚に頭が揺さぶられ、思わず目を閉ざす。
「アーリヤ! アーリヤだ!」
アーリヤは、つんざくような声に目を開ける。
光の束をいくつも集めたかのような美しい衣を纏った女性が、アーリヤ達の前にいた。
俗世の言葉では言い表せない程に美しい容姿をした彼女は、微笑みを洩らす。この世全てを歓喜に満ち溢れさせる威力を持った微笑み。
ことさら大きな音で鐘が鳴った。
横に座っているルマンデは放心状態だ。
アーリヤは、いまだ眠ったままでいるジュリアメーンデの肩を揺さぶった。
「ジュリア……ジュリア……」
しかし、彼は起きなかった。
天使は、穏やかな微笑を浮かべて両手を広げる。彼女の背中から羽が生えたかと思うと、眩い閃光が聖堂全体を包み込み、一瞬にして天使は消え去った。
しばらく、誰も動こうとしなかった。
「天使・アーリヤが、ルマンデに微笑んだ……」
誰かが言った。それに合わせて聖堂内は一気に声で溢れ返る。
「美しかった……!」
「ルー、お前……すげえな。さすが、勇者の息子だな」
皆、ルマンデを取り囲む。
「――――痛っ」
その人混みの中の誰かに足を踏まれたジュリアメーンデが飛び上がる。アーリヤは、つま先を押さえてうずくまる彼の手を引き、聖堂のすみへ寄った。
「……一体、何があったんだ」
「天使が、現れたの」
「は?」
寝ぼけ眼で、ジュリアメーンデは聞き返す。
アーリヤは動揺を押し隠しながら、再び発言を繰り返した。
「だから、天使・アーリヤが微笑んだの!」
「何だってっ?」
ジュリアメーンデの顔が青ざめる。彼は、自分の手足をくまなくチェックする。そして、呪文を口にする。小さな風がアーリヤのおさげ髪を煽った。ジュリアメーンデは胸を撫で下ろす。
「良かった。魔力を取られてはいないな」
「あんたは、天使をどんな方だと思ってるの。仮にもこの国の守り神よ」
「僕にとっては、悪魔だ」
至極真剣な面持ちで、ジュリアメーンデは言い切った。
アーリヤは唾を呑み込むと、ルマンデに群がる生徒や先生がこちらを向いていないか注意しながら口を開いた。
「…………あのね、ジュリア。さっき、天使が微笑んだの。あたし達の目の前で」
「ああ。……いくら寝ぼけてるからって、二度言わなくてもわか――」
「いいから、ここからが重要なのよ。よく聞いて、ルーも気付いてると思うんだけど……天使が微笑んだのは」
一旦、アーリヤは言葉を切った。冷や汗が噴き出る。
アーリヤは喉を鳴らした。
「天使が微笑んだのは……ジュリア、あんたよ」
ジュリアメーンデは困惑の表情を浮かべた。
彼は眉根を寄せてアーリヤから数歩、距離をとる。
「冗談はよせ」
「冗談で、こんなこと言うと思う?」
沈黙が二人の間を駆け抜けた。
「……馬鹿、どこに悪者の名を持つ勇者がいるもんか」
ジュリアメーンデは軽薄な笑みを見せ、右手でアーリヤの双眸を覆った。
「お前も僕と一緒で、寝不足だな」
違う、と言いたかったが、アーリヤは酷く混乱していた。否定の言葉さえ口にするのが億劫に思えて閉口する。
騒ぎが収まるまで、ジュリアメーンデはずっとアーリヤの目を手で覆っていた。アーリヤは、その時彼がどんな顔をしていたのか、知るよしもなかった。
◆ ◆ ◆
アーリヤは、野菜スープを口に運ぶ手を止めた。隣に座っている末の弟が、それを見てアーリヤのスープ皿を自分の方へ引き寄せる。
「あ、こらっ!」
弟の行動にアーリヤは、ハッとしてスープ皿を取り返した。
家族は、それを温かく見守っている。
「ねえ、最近学校はどう? こうやって一緒にご飯食べられるのも久々だし、色々聞かせて」
白髪混じりのお団子頭をした母親は、ふっくらした顔を綻ばせてアーリヤに尋ねた。
アーリヤは先日、ルマンデ・ポウロ聖堂で見た『天使の微笑』の件を言おうとしたが、やめた。父母や弟妹達は、天使に微笑まれたのはルマンデだという噂を聞いているに違いない。なので、取り敢えず差しさわりない学校のことを話すことにした。
「勉強は難しいわ。でも、年の近い子達と一緒だから楽しい」
「そうか、そうか。楽しいなら、父さん達もおまえを聖プローシュ学校へやった甲斐があった」
豪快に父は笑う。母は、少し前のめりになって更に聞いてくる。
「かっこいい男の子とかはいないの?」
アーリヤの母親は根っからの美男子好きだ。アーリヤは幼い頃から繰り返し、理想の男とはどういうものかという母の言葉を聞いて育った。
近所に住むルマンデも顔立ちの良い部類に入る、と母は言っていたが、あいにく母の好みではない。彼女が好きなのは線の細い、儚げな魅力を持った中性的な美男子なのだ。
「……うーん。ジュリアっていう、男の子がいるんだけど、その子は母さんの好みだと思うわ」
「ジュリア? 女の子みたいな名前だね」
そう言いながら弟の一人が、スプーンをガチャガチャ言わせながらテーブルを叩く。アーリヤはその弟にゲンコツを見舞った。弟は、声を上げて泣き始めた。こんなことは日常茶飯事である。アーリヤは泣きじゃくる弟を、気にも留めずに話を続けた。
「本当は、ジュリアメーンデって言う名前なんだけど、長ったらしいからそう呼んでるの」
「ジュリアメーンデ?」
父母の声が重なった。二人は、顔を見合わせて神妙な顔でアーリヤを見つめた。
「アーリヤ、その子はどんな子だい?」
父の問いに、アーリヤはジュリアメーンデを思い浮かべながら口を開く。
「ひねくれ者で陰険。本当、いかにも悪者って感じ。実際、自分は悪者になるんだって公言してるし」
「そう。じゃあ、外見は? 髪の色とか……」
父に続いて母が訊いてくる。アーリヤは、そんな彼らを不思議に思いながらも素直に答えた。
「黒髪に藍色の眼。顔は本当……ものすっごく整ってるわ。絶対、母さんの好きな顔よ」
「………………アーリヤ、ジュリアにそのロケットペンダントを渡してくれないか」
父親はアーリヤが首から下げているロケットペンダントを指差して言った。
いきなり過ぎる父の言葉にアーリヤは身を固くする。
「ど、どうして? これは、あたしが名付け親にもらった大切なものなんでしょ?」
軽いノリで話したジュリアメーンデのことが、何か父母の琴線に触れてしまったのだろうか。母親は不安顔のアーリヤの頬を撫で、首から下げたロケットペンダントに触れる。彼女は目を細めて笑った。
「今まで敢えて言ってなかったけどね、あんたの名付け親は悪者なんだよ。そのロケットペンダントは、ジュリアに渡すのがいい。あの人も、きっとそれを望んでる」
「えっ? お姉ちゃんの名前つけたのって、悪者なのっ?」
「うわあ、お姉ちゃん可哀想」
「私だったら絶対ショックで立ち直れない。お母さん達も、どうしてそんな人からお姉ちゃんの名前を付けてもらったの?」
「信じられない!」
矢継ぎ早に、弟や妹達が興奮して叫ぶ。無理もない。悪者は悪だとサンマウド王国の人々は小さな頃から教えられている。その名を聞くだけで、拒否反応が起きるのも無理なかった。
父は昔を懐かしむような眼差しで、アーリヤのロケットペンダントを眺めてミルクを飲んだ。
「父さん、何で……どうして、悪者があたしの名付け親なの?」
「まあ、今度な」
「父さん!」
テーブルを叩き、アーリヤは、父を睨みつける。それでも彼は答えない。
「母さん、教えて」
「父さんも言ったとおり、いずれ教えてあげるよ。こういう話は一回で済ませたいしね」
取り付く島もない父と、何やら含んだことを言う母にアーリヤは肩を震わせる。
「もうっ」
アーリヤは癇癪を起こして、二階にある自室へ駆け上がった。
◆ ◆ ◆
「……お前の名付け親が、悪者だった?」
授業が全て終わった直後、アーリヤはジュリアメーンデの教室まで急いだ。
ジュリアメーンデはまだ帰っておらず、帰り支度をしている途中だった。面倒くさそうな顔をする彼へ、一方的に事情を説明する。
普段ならどんな話題にも喰いつかないジュリアメーンデだったが、アーリヤの名付け親が悪者だということには喰いついた。その証拠に硬い表情をしていることの多い彼が、ソワソワしている。
「どうして、今まで教えてくれなかったんだ」
非難がましく言ってくるジュリアメーンデに、アーリヤはむっとした。
「あたしだって、昨日聞いたばかりなのよ! ジュリアの話をしたら、両親がとんでもない爆弾投げてよこしてきたの!」
ジュリアメーンデを悪く言う者達に怒りを覚える一方で、アーリヤは悪者のことは嫌いだった。
歴代の悪者が何をしたのかは正確に知る者はいない。大惨事を招いた初代勇者・ルマンデと初代悪者・ジュリアメーンデの戦争以外、悪者のことを知ることが出来る文献は少ない。
しかし、悪者は悪者だ。
隣国に住まう亜種族を仲間にして、初代悪者はサンマウド王国を襲った。小さい頃に聞いた寝物語の中で、常に悪者は恐ろしい者だった。
『良い子にしていないと、悪者が来るぞ』
と、大人達は生意気なアーリヤにいつも言っていた。
その度に、アーリヤは怖がった。真っ黒な外套を羽織って闇とともに暮らすという悪者。あの得体の知れない恐怖を、忘れることはないだろう。
「アーリ、早くしろよ」
廊下から、不機嫌そうなルマンデの声がする。見れば、彼の周囲にたくさんの生徒達が群がっている。
ルマンデ・ポウロ聖堂でルマンデが天使の祝福を受けたことは学校中の噂となっており、彼は学校中の生徒から熱烈な視線を向けられていた。ルマンデの顔が心なし引き攣って見える。
「もう少し待ってて!」
ルマンデには、アーリヤの名付け親が悪者だという話はしていない。
ただ、アーリヤの母がジュリアメーンデにぜひ遊びに来るようにと言うよう命令された、とだけ伝えた。
ルマンデはアーリヤの母の美男子好きを知っているため、すぐに納得してくれた。
嘘ではない。嘘ではないのだが、ルマンデに本当のことを言えなかった自分の臆病さに胸が痛んだ。
(……もし、あたしの名付け親が悪者だと知ったら、きっとルーは失望する)
ジュリアメーンデに見せるのと同属の冷淡な瞳で、アーリヤを睨むルマンデが脳裏に浮かぶ。アーリヤは嫌な想像を払うために頭を振った。
ジュリアメーンデが怪訝な顔をする。
「どうした、気分でも悪いのか」
「とても」
「…………そうか」
ジュリアメーンデは何も聞かない。彼は気付いている。アーリヤが悪者を良く思っていないことに。
一目瞭然だ。アーリヤの顔は嫌悪感で歪んでいる。
それでも彼は何も聞いてこなかった。
アーリヤは首から下げていたロケットペンダントを外した。そして、それをジュリアメーンデに突き出す。
「これ、父さんがジュリアに渡せって。悪者が持ってたものだったみたい」
「……これを、僕に……」
ジュリアメーンデの目が、わずかに揺れた。彼は、ぎこちなくアーリヤの手から、ペンダントを受け取った。
「じゃあ、もう帰るから」
「……アーリヤ」
踵を返し、ジュリアメーンデの教室を出ようとするアーリヤに、ジュリアメーンデが呼びかけた。
アーリヤは顔だけ振り向く。
ジュリアメーンデは、「……ありがとう」と蚊の鳴く声で言った。下を向いている彼が、泣いているように見えた。
「いいよ、気にしないで」