3 黒魔法
新緑が鼻をくすぐる。眩しい太陽の光を全身に浴びて、木々は育っていく。
聖プローシュ学校の中庭に植えられた落葉樹は、青々とした大きな葉を生い茂らせて木陰を作り、生徒達に憩いの場を与えてくれる。
「ねえ、ルー。今日、買い物へ行くんだけど、ついてきてくれない?」
放課後、アーリヤは家の手伝いを三ヶ月することを条件に、ようやくもらったお小遣いを握りしめてルマンデに言った。
ルマンデはいつもアーリヤの突拍子ない提案や誘いに、優しげな笑顔で付き合ってくれる。しかし、今回は違った。彼は、手を合わせてアーリヤに頭を下げる。
「ごめん。今日は他の友達と約束してるんだ」
「あ、そうなの。残念……じゃあ、今度また付き合ってね」
口を尖らせて言うアーリヤの肩を、ルマンデは申し訳なさそうに二度叩く。
「ルマンデー、行くぞ!」
「ああ、わかった!」
ルマンデは、教室の入り口に待ち構えている数人の少年へ返事をする。
アーリヤは眉根を寄せた。今までのルマンデの交友関係では考えられない少年達だ。誰もが意地悪そうな顔つきをしている。
「ちょっと、あの人達……柄悪そうね」
呟くと、ルマンデは首を傾げた。
「そうかな? 図書室で本読んでた時に仲良くなったんだ。皆、意外と良いヤツらだよ」
「本って、黒魔法関連の本でしょ」
思わず、いつもなら飲み込む言葉を口にしてしまったアーリヤは、パチンと口を押さえる。
険のある言い方をしてしまった。
ルマンデの頬が見る見るうちに紅潮する。彼が怒る前兆だ。
「黒魔法を学んじゃダメなんて、誰が決めた? オレもアイツらも、黒魔法を使う悪者に対抗するため、それを学んでるんだ」
「だ、誰も駄目だなんて言ってないじゃない。ただ、あの友達は良くないわ。見て、今も皆にガンを飛ばしてる」
ルマンデの威圧的な口調にたじろぎながらも、アーリヤは言った。
ルマンデは、怒りに頬を染めて叫ぶ。
「人を見かけで判断するなよ!」
「……ルー」
ショックだった。
長年一緒にいるアーリヤの言うことに耳を傾けず、出会ったばかりの少年達の肩を持つルマンデが、まるで知らない人のように感じられた。
ルマンデはカバンを乱暴に掴むと、柄の悪い少年達のもとへ走り去って行く。
呆然としているアーリヤに対して、クラスメイト達は気遣わしげな眼差しを向ける。
「ちょっと、何あの言い方。幻滅するわ。あんま気にしちゃ駄目だよ、アーリ」
「ふーん、ルマンデも怒鳴ったりするんだね。マジ意外」
数人の少女は、そう言いながらアーリヤの背中を優しく撫でて教室を後にする。
アーリヤは、しょんぼりとうなだれた。
(見た目で判断したつもりじゃなかったんだけど。何か、雰囲気が……変だったから……って、完全に言い訳か)
今になって、罪悪感が胸に押し寄せる。自分の友達を悪し様に言われて、怒らない者がいるわけがない。
しかし、発言を撤回する気分にはなれない。あの少年達の目つきは、人を馬鹿にしている者特有のものだった。
「アーリヤ、少し時間あるかしら?」
物思いに耽るアーリヤへと、声がかかった。
「え、あ……はい」
アーリヤの前に佇んでいたのは、担任の教師だった。
◆ ◆ ◆
誰もいなくなった放課後の教室で、アーリヤは頭を抱えて唸っていた。
担任の教師から呼び出されたアーリヤは、意味もわからず担任の後に続いて教室を出た。生徒達が行き交う廊下で歩を止めた担任は、アーリヤに向き直ってにっこりと微笑んだ。
何事かと訝しがるアーリヤへ担任が差し出したのは、一冊の本だった。頭に疑問符を浮かべながら、アーリヤは本を開くと、顔を蒼くして絶句する。
救いを求めるアーリヤの眼差しを担任は軽く無視して、「期日は、明日です」とだけ言い残して立ち去る。残されたアーリヤは、信じられない気持ちで教室へ戻った。
アーリヤは、担任からもらった本のページをペン先で捲り、溜め息を洩らした。
「はあ……」
情けない声を上げる。
担任の教師がアーリヤへ渡した本は、サンマウド王国の歴史に関する問題集だった。しかも、答えや解説も載っていなければヒントもない。
アーリヤは、髪を掻き毟って机に突っ伏す。
(こんな時に、持ってきやがって)
心の中で担任を呪う。だが、呪ったところで課題が消えるわけもなく。
この課題は、月末テストで最下位を取った者に与えられるものだ。問題集を見た瞬間、アーリヤは自分が最下位を取ったことを悟った。
「たしかに、勉強なんてしなかったけど……。まさか、ビリ……」
嘆きを拾ってくれる人はいない。アーリヤは、脱力気味に、廊下側の窓を見ていた。
窓ガラス越しに、少女達が何やら楽しそうにしている様が見える。大方、放課後にどこか遊びに行こうとか考えているのだろう。
ちくしょう、と拳を握る。
市場へ行って可愛いアクセサリーを買おうかな、とわくわくしながら胸を膨らませていたというのに、今や楽しい気分は一転、憂鬱な気分となっている。
窓ガラスに、黒髪が映り込んだ。
この学校……いや、世界の中でも黒い髪は珍しい。だからアーリヤは、その黒髪の主が誰なのか、瞬時に判断出来た。勢いよく立ち上がり、教室のドアを開く。
黒髪の少年――ジュリアメーンデは、突然目の前に現れたアーリヤに驚いたのか、びくりと肩を震わせた。
アーリヤは彼に有無を言う暇も与えず、教室の中へ引っ張り込んだ。
「おい、何を……これは――」
非難の声を上げようとするジュリアメーンデの目と鼻の先に、問題集を突き出す。彼は、それを手に取り、アーリヤと問題集を交互に見比べた。
「……最下位、取ったのか?」
アーリヤは苦渋の表情で頷く。
ジュリアメーンデは問題集を流し読むと、傍にあった机に腰かける。伏し目がちに問題集を眺めている彼は、絵画に描かれた王子のようだ。
「期限は?」
「明日」
「明日っ? ……まだ一つも解けてないじゃないか」
「解けるんだったら、最下位取ってないわよ」
「……そういえば、最下位の罰は、一番点数が悪かった教科の問題集だと先生が言っていたな」
ジュリアメーンデは、カバンの中からペンケースを取り出し、問題集にペンで書き込み始めた。アーリヤは彼の手首を握って、その行為をやめさせる。
「ちょっと、何やってるの!」
ジュリアメーンデは形の良い眉を撥ねて、アーリヤを見つめる。
「……僕を呼び止めたのは、問題集を解いてほしかったからだろう」
「それは……」
アーリヤは口ごもる。
「あたしは、ジュリアに問題を解いてほしかったんじゃなくて、その……ヒントが欲しくて」
指をせわしなく動かしながら言うアーリヤを、ジュリアメーンデは鼻で笑う。
「……そんなだから、最下位なんて取るんだ」
「何よ!」
ジュリアメーンデは、アーリヤの手を振り払って再び問題集を解き始める。呪文の詠唱と同様に、止まることなく彼は問題を解いていく。感心して眺めていたアーリヤに、ジュリアメーンデは冴えた藍の眼を向けた。
「歴史にヒントはない。あるのは、ただ一つの答えだけ。これ程、簡単に点数が稼げる教科は他にない。いいか、アーリヤ。僕が答えを全部書いてやるから、それを全部暗記しろ」
「あ、ん、き……っ? 全部っ? 無理無理無理」
死刑宣告に近しいジュリアメーンデの発言に、アーリヤは青ざめた。
ジュリアメーンデは問題集に視線を集中させる。
「この問題集一冊暗記すれば、学期末テストはパス出来る。……僕が解いてやってるんだ、そのくらいの根性を見せろ」
最もなジュリアメーンデの言い分に、アーリヤは何も言葉を返せなかった。
アーリヤは、六十ページ程の問題集を一時間足らずで解き終えたジュリアメーンデのもと、問題文と答えを照らし合わせながら、ノートに用語や文章を書いていく。授業中も開くことがなかった真白いノートがインクまみれになっていく。
「……それにしても、あの忌ま忌まし――失礼。ルマンデは手伝ってくれなかったのか?」
いきなりルマンデの話題が出たことに、アーリヤはびっくりして文字のスペルを間違えてしまった。脳裏にルマンデの怒った顔がフラッシュバックする。
「あー、うん。喧嘩しちゃって」
「そうか」
さして興味がないのか、自ら話題を振っておきながら、ジュリアメーンデは頬杖をついてアーリヤのノートに注目している。
「……ルーね、最近柄の悪い友達とつるむようになっちゃって」
アーリヤは、ポロリと呟いた。ジュリアメーンデは黙って聞いている。
「あたし、ルーが黒魔法を勉強してるのが嫌で。同じように黒魔法勉強してるっていう、柄の悪い友達のことも、あんまりよく思えなくて……」
「……ルマンデが、黒魔法を?」
整った顔立ちを少しだけ崩し、ジュリアメーンデは目を丸くした。いつも大人びた表情をすることが多い彼が、年相応のあどけない表情を垣間見せる。
「うん。悪者に対抗するためだとか言ってね」
ああ、とジュリアメーンデは肩を竦める。
「あんなもの、覚えるだけ無駄なのにな」
「え……?」
ジュリアメーンデの言葉に、アーリヤは不意をつかれた。
「黒魔法は、死の魔法だ。生かして利用する術は存在しない。ただ、終焉を手繰り寄せるだけ。あれを覚えるくらいなら致命傷を塞ぐことの出来る白魔法や、盾代わりに使える土魔法を覚えた方が余程いい」
「ジュリア……あなた……」
ジュリアメーンデは、罰が悪そうに髪の毛を掻き上げる。
「お前に白魔法をかけた時、思ったんだ。白魔法は役立ちそうだと。……これからの悪者はオールマイティでないとな」
雑談も交えながら、ジュリアメーンデはところどころで用語の簡単な説明やテストで問われやすいポイントを的確に教えてくれた。
とにかく、がむしゃらにアーリヤは暗記した。
何時間経っただろうか。窓の外は暗くなっていた。校門の両脇に吊るしてあるランプに明かりが灯る。
アーリヤは叩きつけるようにペンを机に置いた。
「完璧!」
アーリヤは大きく伸びをする。
「……まあ、八割は覚えられたな。よく健闘したと思う」
「ジュリア、ありがとね!」
満面の笑みで礼を言う。すると、ジュリアメーンデは視線を下へ向けた。
「……いや、礼はいらない。制服の件がある。これで、借りは返した」
「え、あんなの借りのうちに入らないわよ。ほら、帰ろう。お礼に市場でお茶でも奢るからさ」
問題集とノートを大事に抱え、鼻歌混じりで教室を出るアーリヤの後に、ジュリアメーンデが続く。
二人が校門に差しかかると、そこには一つの人影があった。
「ルー?」
ルマンデは校門にもたれ掛かり、アーリヤとジュリアメーンデを真っすぐに見つめている。彼の金髪が、外灯の光を受けてキラキラ輝く。
アーリヤの耳元でジュリアメーンデは小さく舌打ちした。そして、アーリヤの前に進み出た。ルマンデとジュリアメーンデは普段どおり対峙する。いつもと違うのは、どちらも無言なことだ。
やがて、ジュリアメーンデはアーリヤ達を置いて颯爽と学校を後にする。
「あ、ジュリア! 待って!」
ジュリアメーンデを追いかけようとするアーリヤの手を、ルマンデが掴んだ。彼は意気消沈した様子で、「さっきはごめん。……アーリ、許してくれる?」と聞いてきた。
ジュリアメーンデのことは気になるが、このままルマンデを置いていくことは出来ない。ルマンデは小さい頃から一緒にいる大切な幼なじみだ。
「いいよ。許してあげる」
わざと、顔を上向けて尊大に答えた。
ルマンデの強張っていた表情が、幾分和らぐ。
アーリヤはルマンデに手を差し出した。ルマンデは意味がわからないようで、躊躇っている。
アーリヤは快活に笑った。
「仲直りの証に、小さい頃みたく手をつないで帰ろ」
「……うん」
ルマンデは、はにかんだ笑顔で頷く。
二つの満ちた月と、数多の星が散らばった夜空を見ながら、二人は家路を辿った。
アーリヤは、右手にルマンデの手を、左手にジュリアメーンデに解いてもらった問題集をしっかりと握っていた。