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9 デタラメがホンモノ


 意外に早く、その日はやって来た。

 アーリヤは待ちに待った終業式の到来に心を躍らせていた。

 これから三ヶ月間、夏季休暇中は学校へ通わなくてもいいのだ。

 休暇の課題はたくさん出されたが、それは休暇最後の週にルマンデから見せてもらおうと、今から悪知恵を働かせていた。

 ちらり、と後ろを横目見る。

 本来ならば、そこにいるはずのルマンデは来ていない。前期最後の全校集会というのに、彼は学校を欠席していた。連絡もないのだと担任は心配し、アーリヤに何か言付けを預かっていないか聞きに来た。特に何も聞いていなかったアーリヤは素直にそう答えた。

 全校集会では、その期に最優秀の成績を修めた者が生徒代表のあいさつすることになっている。

 一年の首席であるルマンデが欠席だということで、代表あいさつは急きょ、次席のジュリアメーンデ……ではなく、総合順位が三位の眼鏡少女がすることとなった。

 アーリヤは頭を低くしてこっそり列から外れ、ジュリアメーンデのいる列へ移動した。

 周りは皆ぎょっとする。ジュリアメーンデの両脇は空いていたので、アーリヤは何事もなかったかのように座った。彼はクラスからもあまり良く思われていない。そのため、誰も彼の隣に座りたがらなかったのだと思われる。

「……どうした」

 真正面を向いたまま、ジュリアメーンデはアーリヤに話しかけた。

「遊びに来たの」

「……帰れ」

「ねえ、代表あいさつ、やれば良かったのに。もったいないわよ」

「……何が悲しくて、『学年次席のジュリアメーンデ』という称号をもらわねばならん」

 ジュリアメーンデは、変なところで意地っ張りだ。

 アーリヤは首を竦め、校長や他学年の首席達が述べる長ったらしい話を半ば夢うつつで聞いていた。隣にいるジュリアメーンデも、腕を組んで、顔は正面に向けていたものの、度々頭がカクカクと傾いでいた。

 こうして終業式は粛々と過ぎた。


 ◆ ◆ ◆


 休暇中も聖プローシュ学校の生徒である自覚を持って行動するように、など長々と説教を垂れる担任の話が終わってから、ようやくアーリヤは学校から解放された。

 肩から下げたカバンはいつもの倍以上重い。膨張したそれの止め具は、今にも外れそうだった。各教科の先生からもらった課題がたくさん入っているせいだ。

 詠唱学の先生が出した課題が最も楽なものだった。何でもいいから一つの魔法を完璧に詠唱出来るようになれば合格というものだ。女教師は苦笑して、自分も休暇に出される課題に悪戦苦闘した口だから、あまり難しい課題は出したくないと言っていた。

 何と良い教師なんだと、皆彼女に感謝の念を送っていた。後期の授業は、眠らずに聞こうと、劣等生であるアーリヤが思ったくらいだ。誰もがそう思ったことだろう。

 ルマンデが欠席のため、アーリヤはクラスメイトの少女達と帰路を共にした。

 彼女達は休暇に入ったということで、早速市場でドレスを買って避暑地へ行くという。少女達の一人が避暑地に別荘を持っているらしく、そこで舞踏会を開くのだとにこやかに語ってくれた。

「アーリヤも来ればいいわ。わたし、あなたなら大歓迎よ」

「うーん……」

 相当悩んだアーリヤだったが、避暑地まで行く旅費もないため肩を竦めて市場の東側にあるドレス専門店の前で彼女達と別れた。

 夏の陽射しが強い。

 じりじりと肌を焼くような光ではなく、一瞬で皮膚を溶解してしまいそうな暑さである。

 アーリヤは剥き出しの二の腕を擦りながら、日陰を選んで歩を進める。

 王都の郊外には、青々とした草原が広がっている。遠くにある森から引いている小川の水が広大な土地を潤し、長閑のどかで牧歌的な場所を守っている。

 干し草の匂いが鼻をくすぐる。

 我が家に近付いてきた証拠だ。柔らかな自然の香りがそこらじゅうを満たしていた。

 都会的な家も良いとは思うが、アーリヤはここら一帯ののんびりした空気が好きだった。

 今日からアーリヤが夏季休暇に入るということで、家族は御馳走を用意して帰りを待っているはずである。

 いつも家事や弟妹の面倒を見てくれているから、と両親は休暇の始まるこの日だけは仕事を休んで家にいると言ってくれた。

 嬉しい、と素直に感じる。

(御馳走……白パンもあるかな。あと、野菜スープも。ああ、スープの中にベーコンの塊が入っていたら、どうしよう)

 白パンやベーコンの香ばしい匂いを思い出し、両手を広げて息を吸い込む。

 その時、一人の女性と肩がぶつかった。

 彼女はアーリヤの家からそう遠くないところに住んでいる女性である。

 いつも笑みを絶やさず、生まれたばかりの赤ん坊をあやしている彼女が、取り乱して走って行く。まるで何かから逃げているようだ。アーリヤは彼女の様子不思議に思う。

 家に近付けば近付く程、先のような女性や男性とすれ違った。誰しも発狂しそうな顔をして一目散に街の方へ走って行く。

 嫌な予感が過った。

 アーリヤは歩調を速める。

 木で造られた小さな家。

 アーリヤの家の周囲は人でごった返していた。皆、酷く興奮した叫びを上げている。そこかしこで悲鳴が上がり、ある者は怒りに顔を真っ赤にして怒鳴っている。

 アーリヤはすし詰め状態で自分の家を取り囲む人々の合間を縫うようにして進み、一番前へ躍り出た。

 アーリヤの目に飛び込んできたのは、末の弟の体が弓形に反って、ナイフのような黒い物体が突き刺さるところだった。

 全てがスローモーションで再生されているようだった。

 血飛沫が、アーリヤの顔にかかる。

 瞬きも出来ない。

 身じろぎ一つ、取れなかった。

 末弟が白目を剥いて地面へ叩きつけられる。

 アーリヤは叫んでいた。

 自分でも気付かぬうちに、大声で悲鳴を上げていた。

 弟を挟んでアーリヤと向かい側にルマンデが佇んでいた。目がかち合う。

 彼は酷く無感情な瞳で、手をアーリヤの方へ向けた。唇が不自然に動いている。体が振動する。歯がカチカチと鳴った。

 ルマンデの差し伸べた掌に小さな黒い球体が発現する。

「アーリヤ!」

 横から現れた影がアーリヤを抱いて横に転がる。

 母だった。アーリヤは地面に手をついて起き上がる時、自分が先程いた場所に大きな穴が開いているのを見た。黒煙が燻ぶっている大地に開いた穴は、その周辺に生えていた草を瞬時にして干乾びさせた。

 母親はアーリヤの肩を揺さぶると、いつになく真剣な面持ちで言う。

「逃げなさい! 早く!」

「……か、母さん……」

 アーリヤは何がなんだかわからなかった。

 事の次第が掴めない。わかっているのは、ルマンデがアーリヤの弟に何らかの魔法を放ったこと。そして――アーリヤに対してもそれを放ったことだった。

 ルマンデの魔法を食らった末弟は、地面に人形のように転がったまま、動かない。

 アーリヤの足が竦む。

「アーリヤ!」

 その場から逃げようとしないアーリヤに、母親が喝を飛ばす。

 母親に力いっぱい背中を押されて、よろよろとした足取りでアーリヤは逃げた。家の周りを囲んでいる人々もアーリヤを逃がそうと手を貸そうとしてくれるが、黒い球体がそれを阻んだ。

 あの球体に当たったら、危ない。

 そう本能的に感じたアーリヤは、懸命に震える足で逃げる。

 泣きながら聖プローシュ学校へ向かった。

 学校に行けば、誰かが冷静な判断を下してくれるはずだと思ったアーリヤは、ひたすら学校を目指した。

 途中、市場で人々に助けを求めようとしたが、喉が震えて声が出ない。そんなアーリヤに、道行く人々は不審げな眼差しを向ける。

 アーリヤはとにかく身が千切れんばかりに駆けた。片道三十分の距離がある学校へ、懸命に駆けた。

 ようやく校門ま辿り着いた時、アーリヤは極度に体力を消耗していたため、膝が笑って座り込んだ。

 校門にいる生徒達の好奇の視線が集まる。

 アーリヤは瞑目した。瞼の裏が赤い。ドクドクと脈打つ自らの鼓動を感じる。アーリヤは脂汗をこめかみから伝わせながら、塀に掴まって体を持ち上げた。

 アーリヤの目前に黒髪が横切った。

 反射的にアーリヤは黒髪の少年の手首を握る。少年は瞠目して振り返った。ジュリアメーンデだ。アーリヤはジュリアメーンデの胸倉を掴んだ。

「おい、何を――」

 ジュリアメーンデは眉根をきつく寄せたが、アーリヤの目に光る涙を見た瞬間、息を詰まらせた。

 ただ事でないことを彼は悟ったのだろう。

「あ……あ……」

 声が出ない。

 ジュリアメーンデはアーリヤの両肩に手を置き、真摯な眼差しでアーリヤを見つめた。

「……落ち着け。一体、どうした?」

「あ……家、ルーが……あたしの……弟……」

 涙が喉を潰す。

「ルマンデが……何だって?」

 ジュリアメーンデは、不鮮明なアーリヤの言葉を必死に聞きとろうとしてくれる。二人の異常な様子に数人の生徒達が立ち止まった。

「あ、あたしの弟を、ルーが殺した!」

 悲鳴を上げるようにアーリヤは言った。ジュリアメーンデの顔が強張る。

 冷酷なルマンデの顔と、末の弟の恐怖に歪んだ顔が脳裏にこびりついて離れない。

 アーリヤは後から後から零れ落ちる涙を止めることが出来なかった。

「……おい」

 ジュリアメーンデは近くにいた生徒に声をかける。立ち止まっていた男子生徒達は少し身を引く。

「な、何だよ」

「騎士団を呼んでくれ、今すぐだ。先生でもいい」

「どうしてオレ達が――」

 彼らにとって見れば、所詮他人事でしかない。傍観者は最後まで傍観者でしかないものだ。自ら何か行動を起こせる人間は非常に少ない。

「一刻を争うんだ! 人が殺されたんだぞ!」

 いつも無口で、熱くなることが皆無なジュリアメーンデの一喝に、しんと周囲は静まり返る。

 やがて、一人の少年が進み出た。

 いつぞやジュリアメーンデの制服を切り刻もうとしていた四年生の男子生徒――プラナという名前だったはずだ。燃える赤毛はアーリヤの記憶に残っていた。涙で滲むアーリヤの両目に、プラナの強張った表情が歪んで映る。

「いいぜ、オレが騎士団に伝えてくる。場所は?」

「……郊外の、騎士・コンタスの家の隣と言えばわかるはずだ」

「了解」

「……頼む」

 短いやり取りを終え、プラナはすぐさま駆けて行った。ジュリアメーンデはアーリヤに目を向ける。

 その瞳の底知れなさに、アーリヤは唾を呑み込んだ。

「お前はここにいろ」

 言って、ジュリアメーンデは厩へ足を向ける。彼がアーリヤの家族のもとへ行くつもりなのだとすぐにわかった。

 アーリヤは黙って彼について行く。ジュリアメーンデは嘆息して振り向き、怖い顔をしてアーリヤに再度言う。

「アーリヤ、ここにいろ」

 アーリヤは首を横に振る。

「あんたが怪我したら、あたしが治すから……だから、一緒に行って」

「白魔法、お前使えないだろう」

「少しは勉強したもん。きっと、使える」

 自らの家族の危機に、ジュリアメーンデだけを行かせて泣いているだけの少女になりたくない。

 アーリヤは己の掌を見つめた。無力な子供でしかないが、何かせずにはいられなかった。

 強いアーリヤの意志に押されたのだろう。ジュリアメーンデは何も言わずに厩へ足を踏み入れた。

 ジュリアメーンデは、よく手入れされた毛並みの良い黒馬を一頭選んだ。

 馬術の訓練時にいつも乗っている馬らしく、その馬はジュリアメーンデを見るなり嬉しそうに一声啼いてジュリアメーンデへ近寄ってきた。ジュリアメーンデは黒馬の鬣を撫でる。この黒馬は、もともと軍馬だったのを国王が学校に寄贈したらしく、なるほど、厩にいる馬の中でも黒馬は群を抜いて勇敢に見えた。

 勝手に馬を拝借しようとしていることが先生達に露見したら大目玉だ。

 しかしこの際、そんなことを気にしている余裕はない。

 ジュリアメーンデは馬に鞍を乗せ、颯爽と跨った。

 彼はアーリヤを馬上に引っ張り上げてくれる。彼はアーリヤが馬術を不得手としていることを知っているらしい。

 一気に視界が高まる。

 ジュリアメーンデは手綱を引いた。校舎内から何やら先生の引き止める声がしたが、二人共それを黙殺した。砂埃を立てて黒馬は蹄を響かせる。

 恵まれた体躯をしなやかに動かして黒馬は駆けた。

 十分もかからぬうちにアーリヤの家付近へ到着した。

 そこら中、黒い煙と酷い臭いが充満している。

 アーリヤ達は身を投げ出す勢いで下馬し、家の玄関先へと急いだ。先程までいた傍観者達の姿はない。

 ジュリアメーンデが何かに足を取られる。

 彼の足許にあったものが目に入った瞬間、アーリヤは瞠目した。

 隣のおじさんだった。よく見ると硝煙の立ち込める中、鍬や鋤、農具を持った者達が倒れている。

 きっとルマンデを止めようとしたのだ、とアーリヤの直感が言う。

 その中に、アーリヤはルマンデの伯父であるコンタスの姿を見つけた。彼はか細く息をしている。コンタスの両手に握られた、国王が一番信頼する騎士に渡す剣と盾に刻まれたサンマウド王国の紋章が、むなしく光る。

 ジュリアメーンデが彼の横に片膝をついて詠唱を始める。

 アーリヤは、家の前でぼんやりと空を仰いで佇む幼馴染みを涙で滲む瞳に映した。

「ルー!」

 ルマンデはアーリヤの怒声にこちらを向く。

 彼の瞳には何も映っていない。ただ、虚無が横たわっていた。

 夏の爽やかな光を受けて淡い金の髪が煌めく。蒼天の双眸はエンゼルゲイマーの輝きを奥底に宿している。

 天使さながらの美しい外見をした少年は、アーリヤへ微笑みかける。

「あんた……どうして?」

「簡単さ。オレは悪者になる資格を有す者だから。邪魔な人間には消えてもらったんだ」

「……何だと?」

 コンタスの内部に白き光を押し込めながら、ジュリアメーンデは鋭く声を発した。

 アーリヤは脳内が激流の渦に呑み込まれる感覚がした。

 近くにいるはずのルマンデが遠い。ルマンデは高笑いする。その様子は、傍目から見て非常におぞましいものだった。

「アーリの家族は殺したくなかったんだけどね。オレの伯父さんを匿って、引き渡そうとしないもんだから。可哀想に」

 さも、アーリヤの家族が悪いのだと言いたげなルマンデには最早何を言っても通じないかもしれない。けれど、アーリヤは言わずにはいられなかった。

「ルー……この前、天使に会ったじゃない。地図だってもらった。ジュリアと同じように、あんたは勇者になる資格が……」

 ルマンデは、無知な子供をなだめる教師のような眼差しでアーリヤを見る。慈愛に似た視線を送られたアーリヤは若干たじろいだ。

「アーリ、キミは勘違いしている。あの教会でキミとオレの前に姿を見せたのは、スーリヤだ。彼女は 色々教えてくれた。勇者と悪者の試練は同じ場所であるということや、悪者になるには手始めに肉親を殺さなければならないこと。……そして、悪者は亜種族達の間では勇者と呼ばれてること」

 アーリヤは、鈍器で頭をかち割られたように言葉をなくした。

 スーリヤとは、天使・アーリヤの対となるもの。悪魔の名前だ。

 ジュリアメーンデという単語は、まだ言葉にすることが許されているが、スーリヤは言葉に出すだけで呪われると言われているくらい忌み嫌われている。

 ルマンデは立ちつくすアーリヤからジュリアメーンデへ視線を移した。

「ジュリアメーンデ、オマエには礼を言うよ」

「……」

 ジュリアメーンデはルマンデを睨みつける。ジュリアメーンデの腕の中で、コンタスが苦しげに息をしている。

「オマエがオレの前に現れなければ、黒魔法なんて学ぼうとは思わなかっただろうから。本当に、感謝してる」

「…………黒魔法に、魅入られたか」

 ぼそりとジュリアメーンデは苦々しげに呟いた。

 ルマンデは狂気を宿した目をして両手を広げた。

「スーリヤがオレを祝福した! かの悪魔の祝福を受けることで、初代・ジュリアメーンデを受け継ぐ者は産声を上げる!」

 咆哮を上げたと思ったら、ルマンデはジュリアメーンデに酷薄な笑みを贈った。

「――あとは、今の悪者を殺すだけ」

 ジュリアメーンデの目に怒りが灯る。

 現在の悪者――すなわち、ジュリアメーンデの本当の父親を、ルマンデは殺すと宣言した。

 ジュリアメーンデの口が微かに動く。炎がルマンデを包んだ。

 しかし、ルマンデは狂ったように笑ってその炎の前に手を突き出した。彼の掌に炎の渦が掻き消える。

 ジュリアメーンデは醜悪な表情をルマンデへ向けた。

 ルマンデは飄々とアーリヤ達から距離を取る。

「オマエを殺したいのは山々だけど、今日のところはもう行くよ。騎士団の使ってる破魔の剣は、ちょっと厄介だから」

 そう言ってルマンデは街の方を見やる。遠くから蹄の音がする。

 ふと、屍の中に佇む彼の目がアーリヤ達の乗ってきた黒馬に止まった。ルマンデと目が合った瞬間、黒馬は警戒を深めて前足で土を蹴り上げ、鼻息を荒げる。

 ルマンデは黒馬を奪って逃げる気なのだと悟ったアーリヤはルマンデを取り押さえようとしたが、反対にルマンデがアーリヤを取り押さえた。

 両手首を強く握られ、骨の継ぎ目が鳴った。

 アーリヤは死に物狂いで暴れて彼の拘束を振り切った。

 ルマンデが左肩口を押さえる。思い切り噛んでやったから、とても痛いだろう。

 ざまあみろ、とアーリヤは涙目で彼を睨みつける。

 末の弟やコンタスが、視界の端に映る。

 彼らはルマンデの何倍も――いや、比較にならないくらい辛い思いをしただろう。

 いとも容易く黒魔法を使うルマンデは、アーリヤの知る少年ではなかった。悪者になるのだ、悪魔に魅入られたのだと狂気に叫ぶ奇人でしかない。

 アーリヤの目に嫌悪が浮かぶ。

「また、いずれ会おう。もっと、オレもオマエも強くなった時に」

 ルマンデはジュリアメーンデに告げ、アーリヤに柔らかな一瞥を向けた。彼は手を差し伸べる。

「来い、アーリ」

 思わずアーリヤは目を見開く。

「キミは、オレの傍にいろよ」

 アーリヤの脳裏に、怒涛の如く過去の記憶が横切って行く。

 その記憶の中にいるルマンデはどれも正義感にあふれる勇敢な少年だった。幼い子らがいじめられれば、自分より年長の少年にも食ってかかり喧嘩していた。

 勇者だった。

 アーリヤにとって、ルマンデは本当の意味で勇者だった。

 宣託がなんだとアーリヤは思う。

 そんなもの、いらない。

 勇者となる資格なんて、アーリヤのように一般の人にとっては関係なかった。自分の正義を確信し、皆を守ってくれる者こそがアーリヤにとっての勇者。

 ルマンデは絶望したのだろうか。

 己に天使は微笑まなかった、と。夢見た勇者にはなれないのだ、と。

 アーリヤは滝の涙を流して首を横に振った。

 断固とした否定に、ルマンデの瞳孔が縮まる。

 誰が行くもんかと思った。人形や木のように転がった家族の死体を前に、ルマンデの手を取る気など起こるはずがない。

「アーリ、キミはずっと……オレのそばにいたじゃないか」

 焦燥感を宿した口調でルマンデはアーリヤに近寄り、その手を掴んだ。アーリヤは首を左右に振り続ける。

「やめろ」

 ジュリアメーンデの明朗とした声がアーリヤのすぐ後ろでした。彼はアーリヤの肩を引き、ルマンデの手を叩き落とす。ジュリアメーンデの細い背にアーリヤは庇われる。

 ルマンデは眉間に皺を寄せ、ジュリアメーンデに術を放つ。

 詠唱した形跡もなく、ルマンデはアーリヤの弟を突き刺した黒い刃をこちらへ送った。ジュリアメーンデに突き刺さると思われたそれは、地面が盛り上がって壁を作ったことにより阻まれた。

 アーリヤは目を白黒させる。

 ジュリアメーンデもルマンデも、術の投げ合いをしているが、彼らが唇に詠唱を上らせている様子を見いだせない。それだけ二人の詠唱が素早く、術者として卓越していることが窺い知れた。

 黒魔法を揮うルマンデに対してジュリアメーンデは一切黒魔法を使わない。

土魔法を使って何重もの壁を作り上げ、威力の強い黒魔法の応酬を避ける。そして、ルマンデの攻撃が 止んだ刹那を狙って風と氷の刃を彼へ投げる。

 ジュリアメーンデの息が上がってくる。

 魔法を使うのには精神力と体力の両方が必要になる。彼に体力がないのは、体力テストの結果から明らかだ。いくら素晴らしい詠唱技術と膨大な魔法力を持っていたとしても、体力が続かないというのは致命的だった。

 アーリヤは小さな声で詠唱を始める。自分が唯一扱える氷魔法。今ここで使わなければ、いつ使うというのだ。

 ルマンデの黒魔法は容赦なくジュリアメーンデを圧倒する。ジュリアメーンデの首筋に脂汗が伝った。

 土の壁に、みしりと亀裂が入った。

 ジュリアメーンデはルマンデの動きを見たまま、アーリヤへ投げやりに言った。

「この壁が崩れたら、左へ避けろ。そして、街の方へ走るんだ。騎士団はもう、すぐそこまで来ている」

 アーリヤは声を出さない。出せなかった。詠唱している最中に喋ることなど出来ない。

 ジュリアメーンデは、自らの敗北を肌で感じている。だから、逃げろと口にする。

 彼にそんな言葉似合わない、とアーリヤは思った。いつも不遜な態度で、自分こそ最強だと信じて疑わないのがジュリアメーンデなのに。

 壁が倒壊した。

 アーリヤは左、ジュリアメーンデは右に転がる。ルマンデはジュリアメーンデの方を狙って魔法を繰り出した。

 アーリヤは詠唱を終え、すっくと立ち上がってルマンデへ氷の飛礫を向けた。ルマンデが怯んだ。

 ジュリアメーンデはその隙をついて炎の輪をいくつもルマンデへ放った。

 ルマンデはそれを避け切れずに腕で顔を庇う。それでも彼は黒魔法を放ち続ける。

 ルマンデの体力と精神力は無尽蔵なのでは、とアーリヤは過呼吸気味になりながら背を丸める。

 アーリヤと少し離れた位置に片膝をついているジュリアメーンデはもちろん、アーリヤも大きな魔法を使えば息が切れて魔法を放つ間隔が広がるものだ。

 しかし、ルマンデは間隔を広めるどころか尚更狭めてくる。

 ルマンデはアーリヤを傷つけようとはせず、ジュリアメーンデだけを狙う。彼を倒せばアーリヤを連れて行けると思っているのだ。

 ジュリアメーンデの顔が歪む。彼はルマンデの攻撃を避けながら、唇を動かす。

 長い、とても長い詠唱。ジュリアメーンデの腕が震えている。

 アーリヤはハッとして彼の上空を仰いだ。雷雲かと思ったが、違う。

 それはとぐろをまいた闇だった。

 目の前が真っ暗になる。ジュリアメーンデは黒魔法を使おうとしているのだ。

 しかも、上位の黒魔法だとすぐにわかった。呼吸が出来なくらいに空気が重さを増す。異様な空気が辺りを包んだ。

「……終いだ」

 無情とも言えるジュリアメーンデの宣告に、ルマンデの顔が硬化した。闇はルマンデへと迫る。

「やめてっ!」

 気がつくと、アーリヤはジュリアメーンデの腕を抱きしめていた。

 金切り声で彼が放った黒魔法を制止しようと足掻く。闇が動きを止める。

 ジュリアメーンデはアーリヤの震える手を握り、安心させるかのように頷いた。

 無機質な彼の表情が今のアーリヤには嬉しかった。責めもせず、慰めもしない。

「…………ホント、甘いね。アーリ」

 地を這う声がしたかと思ったら、次の瞬間にはジュリアメーンデに抱き込まれていた。地面を転がる。母親も同じようにアーリヤを庇ってくれた。アーリヤはジュリアメーンデの鼓動を感じて安堵する。

 ジュリアメーンデが苦しげに呻く。彼は左手を押さえていた。彼の白い手が赤く染まっている。

 それと同時に、アーリヤはルマンデへの怒りをあらわにした。

 アーリヤはジュリアメーンデをそっと抱き起こし、腰を上げた。

「ルー……いえ、悪者さん。あんたは人として底辺まで落ちたわね。あんたなんか、あたしにとってルーでも何でもない。ただの偽善者よ」

 ぴくりとルマンデの顔が引き攣った。それが憤りから来ているものだと理解していながらも、アーリヤは挑発を続ける。

 よせ、とジュリアメーンデが掠れた声で後ろから言ったが、アーリヤは止めなかった。

「悪者が亜種族達の勇者? 嗤わせないで。あんたには無理よ。今までだって、あたしや他の皆を守るフリして自分に酔ってたんでしょう。そんな奴、誰が勇者と思うもんか」

「ははっ、キミはホントに……強情だね」

 愉快そうに笑顔を形成するルマンデの目が全く笑っていない。

 アーリヤは挑むように目を吊り上げてルマンデを見た。目の裏が熱い。

 どやどやと鎧や兜が擦れる音がして、大勢の人の声がした。騎士団が到着したのだ。

 ジュリアメーンデが溜め息を吐く。

 ひとまず、助かったとジュリアメーンデは思ったのだろうが、アーリヤにとっては目前にいるルマンデを殺してやりたい気持ちでいっぱいだった。

 信頼も、友情も、尊敬も、笑顔さえ。全てが音を立てて崩れて行く。

 ルマンデは到着した騎士団に囲まれて破魔の剣を突きつけられる中、ふっと嗤う。

「いいさ、いずれ迎えに来る」

 ルマンデは彼を囲み込む重装備の騎士達の前で大きく手を振り上げた。

 膨大な黒き球体が出現する。静電気を内包して音を立てるそれを前に、騎士達の注意がルマンデから球体に逸れる。

 その隙をついて、ルマンデは騎士の中でも一際背丈の低く、体躯が良くない者を蹴り倒して包囲網を抜けた。

 ルマンデはアーリヤとジュリアメーンデが騎乗していた黒馬に跨る。気高き元軍馬である黒馬はルマンデを乗せるのを嫌がって前足を宙に浮かせたが、ルマンデが馬の両目に手をかざすと、すぐに大人しくなった。光り輝いていた黒馬の瞳が赤く濁る。

 ルマンデは手綱を引き、場を後にする。

「皆の者、追え! 決して逃がすな!」

 紅きマントに身を包んだ騎士が先陣を切って自らが跨ってきた馬へ乗り上げ、ルマンデを追う。

 アーリヤは目まぐるしく変化する光景を前にして、へたり込んだ。

 きっと、騎士団はルマンデを捕らえられない。

 ルマンデは何を行使してでも逃げおおせる。嫌な予感が胸にしこりを形成する。

 アーリヤは手足の感覚が麻痺していることに今になって気がついた。視界が砂嵐の起きたように揺れる。耳に届く音が遠い。

 絶望とは、こういう感覚を言うのか、と自嘲した。何かもが、砂上の城さながらに壊れていく。

 ジュリアメーンデは無言で、瓦礫に手をかけた。

 アーリヤは凡庸とした目でそれを見つめる。家の残骸の中から白い小さな手が見えた。ジュリアメーンデはその手を優しく引き、瓦礫を横にどける。

 現れたのは、栗色の髪をしたアーリヤの末の弟だった。白目を剥いたまま息絶える弟の瞼をジュリアメーンデが手をかざして閉ざす。

 そして、弟を横たわらせたジュリアメーンデは、その足でルマンデの伯父であるコンタスに手をかざし、呪文を唱える。白く発光する柔らかな光がコンタスを包んだ。アーリヤはそれを見て、自分も同じように呪文の詠唱を開始する。上手く舌が回らない。放心状態であることに加え、書物を見ながらでないと呪文を正確に思い出せなかった。

 治癒魔法さえ満足に使えない自分の無力さを、アーリヤは憎んだ。

「…………ジュリアメーンデ……」

 ジュリアメーンデの腕をコンタスが掴んだ。

 弱々しい声は、アーリヤが知るコンタスからは想像出来なかった。

 コンタスはうつ伏せの状態で倒れていた血みどろの体を反転させ、浅く息を吸った。

 目には涙が浮かんでいる。体の正面には何度も刃物で刺した跡がある。アーリヤの脳裏にルマンデが操っていた闇のナイフが浮かんだ。

「これを……」

 もう余力は残っていないだろうに、コンタスは己の握っている盾と剣をジュリアメーンデへ差し出す。

 それは王国の秘宝だった。国王がコンタスを信頼して渡した、重厚な作りの盾と剣。将来、それをルマンデに渡すのが私の夢だと語ったコンタスの笑顔が瞼の裏に蘇る。

 ジュリアメーンデは目を泳がせる。

 彼と目が合ったアーリヤは強く頷く。アーリヤは今一時だけでも、コンタスの意をジュリアメーンデが汲んでくれることを願って頷いた。

 ジュリアメーンデは盾と剣を受け取った。

「……許しておくれ。甥を、止められなか……った、不甲斐ない私を……」

 一筋の涙がコンタスの浅黒い肌を流れる。

 彼は、すうっとまどろむように目を閉じた。

「おじさん……おじさんっ!」

 アーリヤは泣き叫び、コンタスを揺さぶった。

 彼の体温が下がって行くのが指先に伝わる。身の震える思いがした。嗚咽さえ洩らせない。

 ジュリアメーンデは真剣な面持ちで盾と剣を持ち上げようとして、盛大に転んだ。

 アーリヤは涙目で彼を見る。

 ジュリアメーンデは再び盾と剣を持ち上げようと腰を入れたが、地面から武器が離れない。

「重…………」

「こら」

 思わずアーリヤは突っ込んだ。

「……仕方ないだろう。僕は本より重いものは持ったことがないんだ」

 若干、ムッとした顔でジュリアメーンデは呟く。彼はこの上なく非力だった。

 アーリヤは呆れ果てた表情で彼を見やる。

「もうっ、ジュリア……あんたは何でこんな時に……」

 笑いが込み上げてくると同時に、それを上回る悲しみが浮上してきた。アーリヤの視界がぼやけた。

 それ以上、言葉は続かなかった。




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