聞こえないふり
1 午前二時十七分、枕元で三回、音がした。
――こん、こん、こん。
ドアを叩く音ではなかった。もっと薄く、乾いていて、すぐ耳のそばでする。まるでスマートフォンの画面、その裏側から、爪の先でガラスを叩いているような音だった。
真帆は目を開けた。
六畳の寝室は、エアコンの運転灯だけが青く光っている。隣で眠る航平の息は規則正しい。窓もドアも閉まっていた。
――こん、こん、こん。
今度は、確かにスマートフォンから聞こえた。
持ち上げると、見覚えのない通知が画面の中央に浮かんでいた。
〈MIMI――あなたが忘れた音を、AIが復元しました〉
黒い四角の中に、白い耳のアイコン。
そんなアプリを入れた覚えはない。なのにロックを解除すると、ホーム画面の一ページ目、メッセージアプリとカメラの間に、その耳は最初からそこにいたような顔で収まっていた。
アンインストールしようと長押しする。アイコンは震えたが、削除の印が出ない。
代わりにアプリが開いた。
〈おかえりなさい、水城真帆さん〉
〈記憶の音声化には、周囲が静かである必要があります〉
〈イヤホンを装着してください〉
白い文字が、一行ずつ浮かぶ。
ぞっとして画面を伏せた瞬間、航平のスマートフォンが震えた。音を立てないように手を伸ばす。航平の大学時代の友人から、飲み会の写真が届いただけだった。
その振動に重なるように、真帆の手の中で声がした。
「聞こえないふり、上手だね」
息が止まった。
十五年近く聞いていないはずなのに、誰の声か分かった。
雨宮詩音。
中学三年の夏、校舎の屋上から飛び降りて死んだ女の子の声だった。
真帆はスマートフォンを投げた。床に落ちても画面は割れず、暗闇の中で白い耳だけがこちらを向いている。
そのとき、古いLINEグループに着信が入った。
〈3―4いつメン〉
高校に入ってから誰も使わなくなり、退会することさえ後ろめたくて、全員が放置していたグループだ。
発信者は神谷莉奈。
通話に出ると、荒い呼吸と風を切る音が耳を打った。
『真帆? 起きてた?』
「どうしたの」
『陸が、死んだ』
その言葉を理解するより先に、床のスマートフォンが、子どもの笑い声を流した。
一人ではない。たくさんの子どもが、音程の外れた歌のように同じ言葉を繰り返している。
ノイズ。ノイズ。ノイズ。
『ねえ真帆』と莉奈が泣いた。『あんたのところにも、あのアプリ来た?』
2
佐伯陸は、自宅兼仕事場の防音室で死んでいた。
二十七歳。表向きは映像制作会社の音響スタッフ、夜は登録者十万人の音楽配信者。莉奈とは半年ほど前から付き合っていたらしい。
発見したのは莉奈だった。
午前零時すぎ、陸から「変な音がする」と電話があった。壁の中で誰かがノックしている、マイクでは拾えないのにどんどん近づいてくる、と。通話が切れてから連絡がつかなくなり、合鍵を持っていた莉奈が部屋へ駆けつけた。
防音室は内側から鍵がかかっていた。管理会社と警察がドアを壊すと、陸はミキサー卓の前に座っていた。
ヘッドホンをつけ、両手で耳を塞いでいた。
顔は笑っていたという。
目を見開き、口角を不自然なほど上げて。
部屋の時計は午前二時十七分で止まっていた。
翌朝、真帆は有給を取り、駅前のファミリーレストランへ向かった。
集まったのは五人だった。
真帆と莉奈、真壁颯太、安西奈津、甲斐柊介。陸を含め、かつて〈3―4いつメン〉にいた六人全員である。
莉奈は腫れた目をサングラスで隠していた。颯太は出勤前らしく紺色のスーツ姿で、テーブルの下では膝がせわしなく揺れている。保育士の奈津はマスクをつけたまま、両手で水のグラスを包んでいた。アプリ制作会社に勤める柊介だけが、全員のスマートフォンを集め、冷静そうな顔で調べていた。
「ストアの購入履歴にない。構成プロファイルも増えてない。少なくとも普通のアプリじゃない」
柊介が言った。
五台の画面には同じ白い耳が並んでいる。
奈津が震える声で訊いた。
「陸くんのにもあったの?」
莉奈は答えず、テーブルの上に透明な袋を置いた。警察へ渡す前に撮ったという、陸のスマートフォンの写真だった。
画面には耳のアイコンと、その下に一行のメッセージが見えた。
〈一人目の音を回収しました〉
「俺たちを狙った悪戯だろ」
颯太が吐き捨てた。
「誰かが昔のことを知ってる。陸はたまたま心臓か何かで――」
「耳から血が出てた」
莉奈が低く言った。
「鼓膜だけじゃないって。鼻も、目も。なのに防音室の録音データには何も入ってない。陸が死ぬまでの一時間、完全な無音だった」
「無音の録音なんて、入力が切れてたんだよ」
「入力は切れてなかった。陸が使ってたマイクは、息も服の擦れる音も拾うやつ。救急の人がドアを壊した瞬間からは、ちゃんと音が入ってた」
店内放送が流れ、全員の肩が跳ねた。
明るい女性の声が、季節限定のかき氷を勧めている。その後ろで食器が触れ、子どもが笑い、コーヒーマシンが蒸気を吐く。ありふれた朝の騒音が、真帆には一枚の薄い膜のように感じられた。
その膜の向こうに、別の何かがいる。
ずっと叩いている。
「警察に見せよう」と真帆は言った。
「見せたよ」莉奈が自分のスマートフォンを差し出した。「でも、見えなかった」
莉奈が若い警察官に画面を見せると、耳のアイコンは消えていたという。ブラウザの履歴に残った招待ページも「ページがありません」と表示された。陸の端末を調べている警察からも、該当するアプリはないと言われた。
「今はあるじゃない」と奈津が言う。
「私たちにはね」
試しに真帆は航平を呼び出した。昨夜のことを、詩音の名前だけ伏せて話してあった。
十五分後、寝癖を直しきれないまま現れた航平に、アプリの招待画面を送る。
〈このアプリを共有する〉を押すと、短いURLが生成された。
航平のスマートフォンで開く。
真っ白な画面に、灰色の文字が出た。
〈あなたの音は登録されていません〉
「何だ、これ」
航平は眉を寄せ、真帆の端末をのぞき込んだ。
その瞬間、真帆の画面から耳のアイコンが消えた。
航平にはホーム画面を見せても、空いた一マスしか見えない。スクリーンショットを撮ると、写真には壁紙だけが保存された。
柊介が真帆の端末を受け取り、指紋や顔認証を切り、通信ログを記録するための機器につないだ。だが、MIMIはどのサーバーとも通信していなかった。
「だったら、どこから音声を作ってるの?」
奈津が訊く。
誰も答えられなかった。
航平が帰ったあと、五台のスマートフォンが一斉に震えた。
〈記憶の復元を開始します〉
〈質問1。あなたが最後に雨宮詩音さんの声を聞いた場所は?〉
莉奈が椅子を蹴って立ち上がった。
「ふざけんな!」
スマートフォンを床へ叩きつける。画面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
それでも白い耳は消えない。
ひび割れたガラスの下で、ゆっくりと瞬きをした。
3
雨宮詩音は、音に敏感な子だった。
蛍光灯のうなりが頭の中まで響くと言って、授業中に耳栓をしていた。椅子を引く音やチャイムの音に肩をすくめた。だが小さな音を聞き分けるのは得意で、放送委員会では録音や編集を任されていた。
雨上がりの水路。図書室でページをめくる指。夏の夕方、誰もいない音楽室で木の机が軋む音。
古いICレコーダーでそんな音を集め、いつか映画の音を作る人になりたいと話していた。
最初に彼女を〈ノイズ〉と呼んだのは陸だった。
詩音が国語の朗読で言葉につかえたとき、舌打ちをして言ったのだ。
「お前の声、ノイズ多すぎ」
クラスが笑った。
陸はすぐ、詩音の朗読を録音し、つかえた部分だけをつないで音楽にした。颯太がそれを昼休みのスピーカーから流し、莉奈が〈雨宮リミックス、最高〉とグループチャットに書き込んだ。奈津は笑う絵文字を押した。柊介はファイルを学年の共有掲示板へ転載した。
真帆は、録音した。
陸に頼まれてスマートフォンを構え、笑いながら詩音に何度も同じ文章を読ませた。
ただの悪ふざけだと思っていた。詩音も困ったように笑っていた。嫌なら嫌だと言えばいいのに、とさえ思っていた。
やがて悪ふざけは、詩音の机の中でアラームを鳴らすことに変わった。上履きに音の鳴る玩具を仕込むことに変わった。彼女が耳を塞ぐたび、六人で机を指先で叩いた。
――こん、こん、こん。
音を立てたのは全員なのに、叱られるのは耐えきれず叫んだ詩音だけだった。
担任に訊かれると、六人とも答えた。
何もしていません。
何も聞こえませんでした。
いじめなんてありません。
十五年経つうちに、真帆はその記憶を小さく畳んだ。
あのころは子どもだった。自分だけがやったことではない。詩音はもともと不安定だった。死を選んだ理由が、すべて自分たちにあるとは限らない。
畳んで、心の一番奥に押し込んだ。
けれど、音は場所を取らない。
どれだけ奥へ押し込んでも、耳元まで戻ってくる。
その夜、真帆は航平にすべてを話せなかった。
「中学の同級生で、亡くなった子がいて。その子の声に似てたの」
「似てたって、AIで作った声?」
「たぶん」
「誰かが嫌がらせしてるなら、明日また警察に行こう。スマホも初期化した方がいい」
航平は真帆を安心させようと、スマートスピーカーに穏やかな音楽をかけさせた。
ピアノと雨音を組み合わせた睡眠用の曲だった。
真帆には、雨音の中に声が聞こえた。
みずきさん。
みずきさん。
あけて。
「止めて!」
叫ぶと、航平が驚いて再生を止めた。
それでも雨音はやまなかった。
窓の外は晴れている。水道も閉まっている。航平には何も聞こえない。
音は真帆のスマートフォンから出ていた。
MIMIの画面に、波形が描かれている。
〈復元率 12%〉
〈雨宮詩音さんの最終音声を再構成しています〉
〈不足している記憶を提供してください〉
「いや」
〈質問1。あなたが最後に雨宮詩音さんの声を聞いた場所は?〉
真帆は電源を切った。
暗くなった画面の中で、自分の顔だけがこちらを見返した。
その口が、真帆の意志と関係なく動いた。
「第三音楽準備室」
画面がひとりでに点灯する。
〈正解です〉
〈復元率 19%〉
眠ることを諦めた真帆は、航平に手伝ってもらい、音の正体を確かめることにした。
航平の仕事用のレコーダーをテーブルに置き、MIMIに同じ音声を再生させる。
一度目は、雨と詩音の声。
二度目は、準備室の扉を叩く音。
三度目は、真帆の母の声だった。
『どうして、普通にできないの』
中学時代、成績を落とした真帆へ母が言った言葉だ。詩音とは関係のない、誰にも話していない記憶だった。
「今、何が聞こえる?」
真帆が訊くと、航平は困った顔をした。
「何も。スピーカー、動いてるのか?」
レコーダーの録音を再生しても、空調の音と真帆の荒い呼吸しか入っていない。音声編集ソフトで波形を拡大し、周波数を変え、雑音を取り除いても同じだった。
「骨伝導か、指向性スピーカーみたいな仕組みなら……」
航平は説明を試みたが、途中でやめた。
真帆のスマートフォンを別室へ置いても、詩音の声は耳元から離れなかった。耳栓をし、その上から防音用ヘッドホンをつけても聞こえた。
鼓膜で聞いているのではない。
忘れた場所から、直接鳴っている。
午前四時すぎ、古いグループに柊介が検証結果を書き込んだ。
〈MIMIの音を聞いている間、端末のスピーカーは振動していない〉
〈マイク入力にも何もない〉
〈聞かされた内容を一人ずつ書いてくれ〉
陸の名前の横には、もう既読がつかない。
莉奈は〈雨〉と書いた。
颯太は〈上履きで歩く音〉。
奈津はしばらく入力中の表示を点滅させ、〈鍵〉とだけ送った。
柊介は〈データを消すときの確認音〉。
真帆が〈詩音の声〉と書くと、颯太からすぐに電話が来た。
『あいつ、何て言ってた』
「聞こえないふりが上手だって」
『それだけ?』
「私を呼んでた」
通話の向こうで、颯太が息を呑んだ。
『お前、あの日、戻ったんだろ』
「戻ってない」
考えるより先に、十五年前と同じ嘘が出た。
『じゃあ何で、お前だけ名前を呼ばれるんだよ』
「知らない」
『陸は死ぬ前、壁を叩く音がするって言ってた。あの日、最初に扉を叩いて詩音をからかったのは陸だ。俺たちが聞かされてるのは――』
何かが三回鳴り、颯太の声が途切れた。
「颯太?」
『今の、そっち?』
「何が」
『足音。廊下を誰か歩いてる』
颯太は一人暮らしで、玄関には鍵がかかっていると言った。
それでも通話の向こうで、濡れた上履きの音が近づいてくる。
ぺた、ぺた、ぺた。
『おい、誰だ』
真帆には、颯太が叫ぶ声しか聞こえなかった。
足音は、颯太の記憶にだけ鳴っているのだ。
「電気をつけて。テレビでも音楽でも、何でも鳴らして」
『鳴らしてるよ! でも、その音だけ近くなるんだ』
通話が切れた。
かけ直しても出ない。
十分後、颯太からメッセージが届いた。
〈消えた〉
続けて、〈ただの幻聴だ。陸もそれでパニックになっただけだ〉と送られてきた。
また折り畳むのだ、と真帆は思った。
聞きたくない音を、自分に都合のいい言葉で小さく畳む。六人がずっとしてきたことだった。
4
翌日の午前二時前、莉奈から個人通話が来た。
『私、寝ないから』
画面の向こうで、莉奈は明るすぎる部屋にいた。テレビも照明もつけ、ドライヤーを回しっぱなしにしている。音が途切れるのが怖いのだという。
『静かになると、陸が呼ぶの』
「今どこ?」
『家。ねえ、陸が死ぬ前に送ってきたやつ、聞いてくれる?』
莉奈が音声ファイルを送った。
再生すると、最初に陸の掠れた声がした。
『壁の中じゃない。ヘッドホンの中だ』
かちかちと、何かを操作する音。
『おかしい。外しても聞こえる。おい莉奈、これ、あのときの――』
音声はそこで途切れ、十秒ほどの無音が続いた。
真帆が停止ボタンを押そうとしたとき、かすかな呼吸が聞こえた。
イヤホンの音量を上げる。
狭い場所で、誰かが息を殺している。
その呼吸に重なって、遠くで笑い声がした。陸の声。颯太の声。真帆自身の声。
十五年前の自分たちが、誰かを囲んで笑っている。
『もう消してよ』
少女の声が言った。
『私の声、返して』
真帆はイヤホンを外した。
スマートフォンには、MIMIの画面が開いていた。
〈音源を受領しました〉
〈復元率 28%〉
「莉奈、これ以上聞いちゃだめ。すぐそっちへ行くから、航平にも――」
『私たちさ』と莉奈が遮った。『あの日、何してたっけ』
ドライヤーの音が止まった。
突然できた静寂の中で、真帆は莉奈の呼吸だけを聞いた。
「覚えてるでしょ」
『全部は覚えてない。第三音楽準備室に詩音を入れた。陸がスピーカーを持ってきた。奈津が見張ってた。そこまでは覚えてる。で、鍵を閉めたの、誰?』
「莉奈だよ」
『嘘』
「鍵を持って笑ってた」
『違う。私は詩音のイヤーマフを取っただけ』
だけ、という言葉の軽さに、真帆の胃が縮んだ。
詩音がいつもつけていた灰色の防音用イヤーマフ。それを莉奈が奪い、頭につけて踊った。陸はその姿を撮影し、詩音に「返してほしければゲームをしろ」と言った。
第三音楽準備室で、一時間、ひとつも音を立てずにいられたら返す。
防音されているから、どれだけ叫んでも先生には聞こえない。
陸がそう言うと、みんなで笑った。
『私じゃない』と莉奈は繰り返した。『鍵を閉めたの、私じゃない』
真帆のスマートフォンが震えた。
〈質問2。第三音楽準備室の鍵を閉めたのは誰ですか?〉
同じ質問が莉奈の画面にも出たらしい。彼女は悲鳴を上げ、スマートフォンを遠ざけた。
「答えないで」
『何なの、これ。何て答えたらいいの』
「何も言わないで。今から行く」
真帆はベッドから出て、航平を揺すった。
その間に、莉奈の画面が暗くなった。
『真帆』
声だけが聞こえる。
『雨、降ってきた』
真帆は窓を見た。夜空に雲はなく、月が白い。
「そっちは降ってるの?」
『部屋の中』
莉奈の声に、水音が混じった。
さあっ、と一斉に降り始める雨。排水管を流れる水。膝まで水につかりながら歩くような、重い足音。
『やだ。来ないで』
カメラが再びついた。
莉奈は浴室にいた。いつ移動したのか分からない。服を着たまま空の浴槽に入り、耳を塞いでいる。
シャワーから水は出ていない。浴槽も乾いている。
なのに莉奈の髪は濡れ、頬を幾筋もの水が流れていた。
『息、できな――』
彼女の口から水があふれた。
真帆は叫んだ。航平が通話を代わり、救急へ連絡する。画面の中で莉奈は見えない水にもがき、浴槽の縁を爪で掻いた。
その音が、三回。
――こん、こん、こん。
莉奈の手が止まった。
浴室の床は、最後まで乾いていた。
死亡が確認されたのは午前二時十七分。
死因は溺死だった。
肺からは大量の水が出たが、その水に塩素は含まれていなかった。古い雨樋に溜まったような、泥と苔の混じる雨水だったという。
MIMIは告げた。
〈二人目の音を回収しました〉
〈雨の音を復元しました〉
真帆は思い出した。
詩音を準備室へ閉じ込めた日も、夕立が降っていた。
5
陸と莉奈の死は、報道ではどちらも「事件性の低い突然死」とされた。
同じ中学の同級生だったことも、同じ時刻に死んだことも、記事には載らなかった。
警察は真帆たちの訴えを聞いた。しかしMIMIは、刑事が画面をのぞくたびに姿を消した。莉奈との最期の通話も、浴室の映像だけが抜け落ちていた。
記録には、真帆が暗い画面へ向かって一人で叫ぶ姿しか残っていない。
航平にさえ、雨の音は聞こえていなかった。
「しばらくスマホから離れよう」
航平は新しい端末を買い、真帆の古い端末を電源の切れた状態で金属製の工具箱へ入れた。
だが新品の初期設定が終わると、ホーム画面に白い耳があった。
SIMカードを抜いても、無線通信をすべて切っても消えなかった。
〈質問2。第三音楽準備室の鍵を閉めたのは誰ですか?〉
真帆は答えなかった。
工具箱の中から、かすかに声がした。
開けて。
真帆ちゃん、いるんでしょ。
航平には聞こえない。
眠れないまま朝を迎えると、〈3―4いつメン〉に颯太からメッセージが届いた。
〈今夜、学校に集まれ〉
〈全部終わらせる〉
市立青葉中学校の旧校舎は、八月末に取り壊される予定だった。
生徒は五年前に新校舎へ移り、旧校舎はフェンスで囲われている。土地勘のない航平を巻き込みたくなくて、真帆は一人で向かった。
正門の前には颯太と奈津がいた。
柊介はいない。
「電話も出ない」と奈津が言った。「アプリを調べるから、外へ出るなって」
颯太は工具店で買ったらしい大きなハンマーを持っていた。
「学校を壊す気?」
「あの部屋をだよ。あそこに何か残ってる」
「警察に相談した方が――」
「した結果があれだろ!」
颯太の怒鳴り声が、無人の校舎にぶつかって返ってきた。
フェンスの一部が切られている。三人はそこから敷地へ入り、割れた窓を通って校舎へ入った。
夏の熱気と、湿った埃の匂い。
廊下へ一歩踏み出すたび、床板が高い音で鳴った。
懐中電灯の光が、剥がれた掲示物や積み重ねられた机をなぞる。窓の外には街の灯りが見えるのに、校舎の中では自分たちだけが世界から切り離されているようだった。
二階へ上がる。
音楽室の前まで来ると、三人のスマートフォンが一斉に震えた。
〈記憶の場所に到着しました〉
〈周囲の音を収集します〉
アプリが勝手に録音を始めた。
準備室の扉には、錆びたプレートが残っていた。
〈第三音楽準備室〉
颯太がハンマーを振り上げた。
一度目で取っ手が歪み、二度目で木が割れた。三度目を振り下ろす前に、内側から鍵の外れる音がした。
かちゃり。
扉が数センチ開く。
冷たい空気が流れ出した。
「誰かいるの?」
奈津の声が裏返る。
颯太が扉を蹴り開けた。
中には誰もいなかった。
窓のない四畳ほどの部屋。壁には吸音材が貼られ、壊れた譜面台と段ボール箱が残っている。
あの日より狭く見えた。
こんな場所へ詩音を閉じ込めた。
スピーカーで、彼女自身の泣き声を大音量で流しながら。
「あれ、ここ」
奈津が壁の一角を照らした。
吸音材が一枚だけ剥がれ、その下のコンクリートに細い傷が並んでいる。
五本の線。
その下に、震える文字で名前が刻まれていた。
〈まほ〉
「違う」
真帆は後ずさった。
颯太が傷を指でなぞる。
「お前、戻ったんだよな」
「何の話?」
「とぼけるな。みんな帰ったあと、お前だけ戻った」
真帆の耳の奥で雨が降り始めた。
濡れた廊下。準備室の前。扉の向こうから、弱々しく名前を呼ぶ声。
真帆ちゃん。
いるんでしょ。
お願い、開けて。
真帆は、取っ手に手をかけた。
けれど扉は開けなかった。
中から詩音の声がしたら、いじめを認めなければならなくなる。先生に知られたら、母に叱られる。陸たちから裏切り者と言われる。
だから何も聞こえなかったことにして、歩き去った。
その記憶だけは、誰にも話していない。
「どうして知ってるの」
颯太は青ざめた顔で首を振った。
「アプリが聞かせてきたんだ。お前の足音を」
颯太のスマートフォンから、十五年前の音が流れた。
遠ざかっていく上履きの音。
扉を叩く音。
泣きながら真帆の名前を呼ぶ詩音。
「違う!」
真帆はスマートフォンを払い落とした。
画面に新しい波形が伸びていく。
〈水城真帆さんの記憶を受領しました〉
〈復元率 41%〉
「こいつ、俺たちの頭から音を抜いてやがる」
颯太はハンマーで壁を殴った。
吸音材が裂け、黒い埃が舞う。二度、三度。コンクリートに亀裂が走る。
亀裂の奥で、赤い光が点滅した。
古いICレコーダーだった。
詩音がいつも持ち歩いていたものと同じ、銀色の機種。
壁と吸音材の隙間に押し込まれ、十五年分の埃をかぶっている。
「何でこんなところに……」
奈津が手を伸ばした瞬間、レコーダーの再生ランプがついた。
電池など、とっくに切れているはずだった。
小さなスピーカーから、詩音の声がした。
『午後二時十七分。ゲーム開始だって』
6
銀色のレコーダーは、雨宮家へ返された遺品の中にはなかった。
翌朝、真帆は詩音の母、雨宮冬美を訪ねた。
十五年前に一度だけ謝罪へ行って以来だった。あのときは担任と両親に挟まれ、用意された言葉を読んだ。
傷つけるつもりはありませんでした。
ふざけていただけでした。
まさかこんなことになるとは思いませんでした。
冬美は何も言わず、六人の顔を見ていた。
あの目を、真帆はずっと夢に見た。
今、玄関に現れた冬美の髪は白くなっていた。真帆が名乗ると、小さくうなずき、家へ上げた。
仏壇の写真の中で、詩音は十五歳のままだった。
「これを、旧校舎で見つけました」
真帆はレコーダーを座卓に置いた。
冬美はしばらく触れなかった。
「あの子のです」
やがて、それだけ言った。
「警察には?」
「見つからなかったと聞いていました。いつも持っていたのに。スマートフォンは屋上に残っていたけれど、録音機だけがなかった」
レコーダーは昨夜の一言を再生してから動かなくなった。充電池を替えても、ケーブルをつないでも、ランプはつかない。
「詩音さんが亡くなる前、何か……音声を残していませんでしたか」
冬美は真帆を見た。
「遺書があったか、と警察にも何度も訊かれました。ありませんでしたよ」
「そうですか」
「ただ、音は残っていました」
冬美は仏壇の引き出しから古い携帯電話を出した。
折り畳み式の端末だった。
「あの朝、詩音は家を出る前に、私の部屋の前で立ち止まったんです。この子は小さいころから、緊張すると左足の踵を二回鳴らす癖がありました。こつ、こつ、と。私は起きていました。でも前の晩に喧嘩をしていたから、声をかけなかった」
冬美の指が端末を撫でる。
「玄関が閉まる音を聞きました。それが最後です。声なんて、残してくれなかった」
冬美は立ち上がり、隣の部屋から青い缶を持ってきた。
中には何十枚もの記録媒体が、日付を書いた小袋に分けて入っていた。
「詩音が集めていた音です。警察から返されたあと、聞くことができなくて、ずっとしまっていました」
冬美はそのうち一枚を古い音楽プレーヤーへ挿した。
流れてきたのは、夏の朝の音だった。
まだ鳴き方の揃わない蝉。遠くを走るトラック。物干し竿へハンガーをかける硬い音。麦茶の氷がグラスの中で割れる音。
録音の端で、冬美の若い声がした。
『詩音、ごはん冷めるよ』
『今行く』
写真の中に閉じ込められていた少女が、当たり前の返事をした。
真帆の知っている詩音の声とは違った。怯えても、泣いてもいない。少し面倒そうで、眠そうで、生きていた。
次の音声には、商店街の福引のベルが入っていた。その次には猫の喉を鳴らす音。河川敷で少年たちが蹴るボール。夜、部屋の中へ迷い込んだ虫が照明にぶつかる音。
どれも十秒から一分ほどで、説明はなかった。
ただ、最後の一枚の袋には、詩音の字で題名が書かれていた。
〈いなくなったあとも残るもの〉
再生すると、無人の教室だった。
開いた窓から風が入り、カーテンを揺らす。黒板の隅でチョークが転がる。校庭の部活動の掛け声は遠く、言葉までは聞き取れない。
やがて机が一つ、きい、と軋んだ。
それだけだった。
「この題名を見た警察は、死を考えていた証拠かもしれないと言いました」
冬美が停止ボタンを押す。
「でも、違うんです。録音したのは一年前。詩音は、音は姿がなくなってからも残る、と面白がっていました。あの子が集めていたのは、不吉なものじゃない。生きているものの音でした」
真帆たちが聞こうとしなかった詩音が、そこにいた。
耳を塞いで泣く被害者でも、恨みを残した死者でもない。映画の音を作りたくて、日常の小さな響きを拾い集めていた十五歳の少女。
真帆は、自分たちが彼女から奪ったものの大きさを、初めて少しだけ理解した。
真帆は仏壇の写真を見られなかった。
「私、詩音さんが閉じ込められているのを知っていました」
口にすると、部屋の空気が重くなった。
「戻ったんです。扉の前まで。助けてって言われたのに、開けませんでした」
冬美は驚かなかった。
「知っていました」
「え……」
「詩音が言っていましたから。真帆ちゃんには聞こえていた。でも行ってしまった、と」
「どうして、学校や警察に――」
「言いました。けれどあなたは、戻っていないと答えたそうですね」
真帆の喉が塞がった。
調査の場で、担任に訊かれた。
放課後、準備室へ戻りましたか。
いいえ、と真帆は答えた。
詩音の母親は混乱している。娘を亡くしたショックで、事実ではないことまで信じている。学校はそう結論づけた。
「ごめんなさい」
「その言葉を、私は十五年待っていたと思いますか」
冬美の声は静かだった。
責める響きすらなかった。
「あなたたちは、音のした場所だけを探すんですね。泣き声がすれば扉を見る。誰かが死ねばスマートフォンを見る。けれど詩音がどうして死んだのか、誰もあの子自身を見ようとはしなかった」
仏壇の鈴が鳴った。
誰も触れていない。
澄んだ音が一度だけ部屋に広がり、長く尾を引いた。
真帆のポケットでMIMIが震えた。
〈雨宮冬美さんには、このアプリを利用する資格がありません〉
〈登録された六名の音だけが、復元に使用されます〉
画面には六つの名前が並んでいた。
佐伯陸と神谷莉奈には、赤い線が引かれている。
残りは四人。
「あの、これが見えますか」
真帆が差し出した画面を、冬美はじっと見た。
「何も」
「耳の絵が、ここに」
「私には、あなたの顔しか見えません」
冬美が言った瞬間、端末に着信が入った。
颯太だった。
出ると、激しい風の音がした。
『真帆、助けてくれ』
「今どこ?」
『駅。音が、なくなった』
通話の向こうは、確かに静かだった。
昼前の駅にいるなら、電車やアナウンス、人の話し声が聞こえるはずなのに、颯太の声以外は何もない。
『周りに人がいる。みんな口を動かしてる。なのに聞こえない。俺の足音も――』
「ホームから離れて。駅員さんを捕まえて」
『来た』
颯太が呟いた。
『詩音が、向かいのホームにいる』
「見ちゃだめ。そこから動かないで」
『何か言ってる』
電車の接近を知らせるチャイムが、通話ではなく、真帆の背後から鳴った。
冬美の家の廊下。その暗がりで、制服姿の少女が立っている。
両耳に灰色のイヤーマフをつけていた。
少女の唇が動く。
聞こえない。
聞こえないから、真帆は目を凝らした。
うしろ。
『聞こえた』と颯太が笑った。
その直後、電車の警笛が爆発した。
電話が切れた。
颯太はホームから線路へ転落した。
防犯カメラには、自分から降りたように見える姿が残っていた。近づく電車へ背を向け、誰かに呼ばれたように何度もうなずいていたという。
周囲の人は全員、警笛と悲鳴を聞いていた。
けれど颯太のスマートフォンが録音していたのは、上履きで廊下を歩く音だけだった。
ぺた、ぺた、と濡れた足音。
そして、扉から遠ざかっていく真帆の足音。
〈三人目の音を回収しました〉
〈足音を復元しました〉
7
その夜、柊介から連絡があった。
指定されたのは、彼の勤めるアプリ制作会社だった。休日でフロアに人はいない。会議室のテーブルには分解されたスマートフォン、銀色のレコーダー、何台もの測定機器が並んでいた。
奈津は先に来ていた。
三人になった〈3―4いつメン〉は、もう互いの目を見ようとしなかった。
「これはアプリじゃない」
柊介が言った。
モニターに真帆たちの端末の解析結果が表示されている。
「少なくとも、俺たちが呼んでる意味でのアプリじゃない。実行するためのプログラムがどこにもない。通信もしてない。音声データも保存されてない。アイコンが表示される場所には、何も存在しない」
「でも動いてる」
奈津が自分の端末を握りしめる。
「質問して、声まで作って」
「俺たちの端末ではな。別の人間が持つと消える。端末を替えても戻ってくる。俺たちを声と顔で判別してるわけでもない。試したんだ。俺の声で喋る音声合成も、俺の顔を映した動画も、他人には反応しなかった」
「じゃあ、何を見分けてるの?」
「記憶だと思う」
柊介がキーボードを叩いた。
細い波形が六段、モニターに並ぶ。
「同じアプリに見えるが、俺たちが聞かされている音は少しずつ違う。陸が死ぬ前に莉奈へ送ったデータ、莉奈の通話、颯太の録音、それに俺たち三人のスマホから取り出した波形を重ねた。欠けている部分が、互いを埋めるようにつながる」
スピーカーから、あの日の準備室が流れた。
雨。
廊下を走る足音。
鍵の束が触れ合う音。
陸の笑い声。
『一時間、音を立てなかったら出してやるよ』
莉奈の声。
『イヤーマフも返してあげる』
颯太が扉を三回叩く。
柊介の声が、スピーカーの音量を上げろと言う。
真帆が笑っている。
そして、鍵の回る音。
そこで波形が途切れた。
「この先を覚えてるのは、奈津だ」
柊介が言った。
奈津は椅子の上で身を固くした。
「何で私なの」
「鍵を閉めたから」
「莉奈だよ」
「莉奈は死ぬ前、違うと言った。俺も思い出した。鍵を持ってたのはお前だ」
奈津は激しく首を振った。
「私は先生が来ないか見てただけ。閉めてない」
三台のスマートフォンが震えた。
〈質問2。第三音楽準備室の鍵を閉めたのは誰ですか?〉
奈津が立ち上がる。
「やめてよ。みんなでやったんじゃん。何で私だけのせいにするの?」
「誰も、お前だけのせいだなんて言ってない」
真帆が言うと、奈津は泣きそうに顔を歪めた。
「じゃあ何で、陸くんも莉奈も颯太も死ななきゃいけないの。子どものころの悪戯でしょ? 私だって毎日つらかった。詩音ちゃんが死んでから、ずっと人の顔色を見て、保育士になって、いい人になろうとしてきた。それでも足りないの?」
「詩音が死んだあとに、いい人になったかどうかなんて、詩音には関係ない」
自分の口から出た言葉が、真帆自身に刺さった。
奈津は唇を噛んだ。
柊介が銀色のレコーダーから小さな記録媒体を抜き、透明なケースに置いた。
「消去された音声が一件あった。復元はできなかったが、記録日時と長さだけ残ってる。七月十八日、午後二時十七分。四十七分十二秒」
「アプリと同じ……」
「たぶんMIMIは、この消された四十七分を、俺たちの記憶から作り直してる。死んだ三人の端末で、復元率は六十二%になった」
「誰が消したの?」
真帆が訊くと、柊介は目を伏せた。
会議室の空調が低く唸っている。
「俺だ」
奈津が顔を上げた。
「嘘」
「詩音が死んだ次の日、準備室へ行った。あいつ、閉じ込められてる間も録音してたんだ。レコーダーを見つけて、俺たちの声が入ってることに気づいた。警察に聞かれたら終わると思って、データを消した。機械は吸音材の裏に隠した」
真帆は、冬美の言葉を思い出した。
音のした場所だけを探す。
「じゃあ、この十五年、知ってたの?」
「全部じゃない。途中まで聞いた。怖くなって消した」
「詩音が何を言ったかは?」
「覚えてない」
柊介の声が震えた。
「覚えてないことにした」
MIMIの画面に文字が浮かんだ。
〈甲斐柊介さんの記憶を受領しました〉
〈復元率 71%〉
再生ボタンが現れた。
誰も触れていないのに、音声が流れ始める。
準備室で、詩音が泣いていた。
『誰か、いる?』
扉を叩く。
『真帆ちゃん?』
遠ざかる足音。
長い雨音。
やがて詩音は泣くのをやめた。
衣擦れのあと、レコーダーを手に取る音がする。
『これを聞いてるってことは、誰か見つけてくれたんだよね』
息を吸う音。
『私、みんなの音が怖い。でも、いちばん怖いのは――』
そこで再生が止まった。
〈復元に必要な記憶が不足しています〉
〈残り三名の音を回収します〉
「残り三名って……」
奈津が呟いた。
会議室のスピーカーから、鍵の回る音がした。
がちゃり。
ドアが開かなくなった。
8
柊介が非常解錠装置を押しても、ドアは動かなかった。
ガラスの向こうに、制服姿の詩音が立っている。
真帆には顔が見えた。濡れた前髪。白い頬。両耳を覆う灰色のイヤーマフ。
奈津には、別のものが見えているらしかった。
「違う。私じゃない。私じゃない!」
後ずさり、壁に背を押しつける。
「奈津、何が見えるの」
「鍵、持ってないよ。ほら、どこにもない」
奈津が両手を開いた。
右の掌に、錆びた鍵があった。
悲鳴を上げて投げ捨てる。床へ落ちる直前、鍵は消えた。
しかし、金属が床を打つ音だけが何度も響いた。
からん。からん。からん。
音が増えるたび、奈津の首に赤い痕が一本ずつ浮かぶ。鍵を結んでいた紐が巻きついていくように、皮膚がゆっくりへこんだ。
真帆と柊介が見えない紐へ指を入れようとしても、何にも触れない。
「閉めた!」
奈津が叫んだ。
音が止まった。
「私が閉めた! 陸くんに言われて、私が鍵を回した! 詩音ちゃんが泣いてたのも聞いた! でも、私だけじゃ――」
最後まで言えなかった。
鍵の回る音が一度した。
奈津の首がありえない角度にねじれ、全身から力が抜けた。
〈四人目の音を回収しました〉
〈施錠音を復元しました〉
〈復元率 84%〉
会議室のドアが開いた。
柊介は動かない奈津を抱え、救急へ電話をかけた。だが発信音の代わりに、あの録音が流れた。
『いちばん怖いのは――』
柊介は電話を切った。
「旧校舎へ行く」
「どうして?」
「元の場所で記録媒体を壊す。アプリがあのデータに取り憑いてるなら、消せるかもしれない」
「データを消したせいで、こんなことになったんじゃないの」
「じゃあどうしろっていうんだ!」
彼の手には、銀色のレコーダーが握られていた。
「聞くんだよ」
真帆は言った。
「最後まで」
けれど柊介は、真帆を突き飛ばして走った。
救急と警察が会社へ着いたころには、彼の姿もレコーダーもなかった。
奈津の死は、頸部圧迫による窒息と診断された。首には細い索状痕があったが、凶器は見つからなかった。会議室の映像には、奈津が突然自分の首を押さえ、倒れる姿しか映っていない。
柊介を追って、真帆は旧校舎へ戻った。
航平には警察と一緒に来てほしいと連絡した。しかしMIMIが表示した残り時間は、二十分を切っていた。
〈最終復元まで 00:19:41〉
〈復元完了予定時刻 午前2時17分〉
校舎の闇の中から、ハンマーの音が聞こえた。
第三音楽準備室へ駆け込むと、柊介が銀色のレコーダーを床へ置き、何度も叩いていた。
外装は砕け、基板が飛び出している。それでも赤い再生ランプは点滅していた。
『私、みんなの音が怖い』
詩音の声が流れる。
柊介がハンマーを振り下ろす。
『でも、いちばん怖いのは――』
「やめて!」
真帆は彼の腕にしがみついた。
「これを壊したら、また同じことになる」
「うるさい!」
柊介が真帆を振り払う。
「俺はもう三人も死ぬ音を聞いたんだ。あいつらが死んで、どうして詩音が戻ってくる? 死んだ人間はただのデータだ。残ってるから再生される。全部消せば終わるんだよ!」
ハンマーが落ちた。
基板が砕ける乾いた音。
続いて、電子音が一度鳴った。
十五年前、柊介が録音を削除したときの確認音だった。
ぴっ。
柊介の身体が硬直した。
口が開き、そこから彼自身の声が逆回転で流れ出した。怒鳴り声、笑い声、泣き声、これまでに話した無数の言葉。生まれてから発した音をすべて巻き戻すように、甲高く、低く、重なりながら吐き出していく。
柊介は喉を押さえた。助けを求める口の動きに、言葉は伴わない。
最後に、幼い赤ん坊の産声が流れた。
音が途切れる。
柊介は床へ倒れた。
身体に傷はなかった。息も、心音もなかった。
〈五人目の音を回収しました〉
〈消去音を復元しました〉
〈復元率 97%〉
〈最終話者、水城真帆さん〉
9
準備室の扉が閉まった。
真帆は取っ手を回した。鍵はかかっていない。それでも、外から強い力で押さえられているように動かなかった。
残り時間は三分。
詩音の声が部屋を満たしていた。
『真帆ちゃん、いるんでしょ』
扉を叩く音。
『お願い、開けて』
真帆自身の足音が遠ざかる。
何度聞いても、そのたび違う言い訳が浮かんだ。
怖かった。子どもだった。一人では逆らえなかった。まさか死ぬとは思わなかった。
けれど、どの言い訳も、閉ざされた扉を開けはしない。
真帆は床に座った。
「聞こえてた」
詩音の声に向かって言った。
「あの日、全部聞こえてた。あなたが私を呼んだのも、泣いていたのも。私は助けられた。なのに、自分が悪者になるのが嫌で、聞こえないふりをした」
MIMIの波形が、真帆の声を取り込んでいく。
〈復元率 98%〉
「いじめてたのも認める。陸が始めたとか、莉奈がひどかったとか、関係ない。私はあなたを録って、笑って、逃げた」
〈復元率 99%〉
「ごめんなさい」
数字は動かなかった。
冬美の言葉が蘇った。
その言葉を、私は十五年待っていたと思いますか。
謝罪は、失った時間を返さない。死人に許しを求めるのは、自分が楽になりたいからだ。
真帆は〈3―4いつメン〉を開いた。
もう自分以外、誰も読むことのないグループ。
音声メッセージの録音ボタンを押す。
「私は水城真帆です。十五年前、青葉中学校で雨宮詩音さんをいじめていました」
一つずつ話した。
朗読を録音したこと。ノイズと呼んだこと。机を叩いたこと。準備室へ閉じ込めたこと。助けを求める声を聞きながら、扉を開けなかったこと。調査で嘘をついたこと。
死んだ五人へ責任を押しつけず、自分のしたことだけを話した。
「この音声を、雨宮さんのお母さんと、警察と、勤め先に送ります。匿名にしません。消しません。許してほしいからじゃない。詩音さんの声を奪ったまま、私だけ黙っていないためです」
送信する。
〈水城真帆さんの音声を受領しました〉
〈復元率 100%〉
〈六人目の音を回収しました〉
午前二時十七分。
部屋から、すべての音が消えた。
真帆の呼吸も、心臓も、遠くから近づいているはずのサイレンも聞こえない。
完全な無音の中で、銀色のレコーダーが再生を始めた。
四十七分十二秒の最後。
『私、みんなの音が怖い。でも、いちばん怖いのは』
詩音が息を吸う。
『私の声が、誰にも届いてないって思うこと』
少し間を置いて、彼女は続けた。
『これを聞いた人は、返事をしてください。聞こえたって、言ってください』
真帆は口を開いた。
声は出なかった。
それでも言った。
聞こえた。
扉の向こうで、踵を二回鳴らす音がした。
こつ、こつ。
扉が開いた。
廊下には誰もいなかった。
窓から朝の光が差し込み、埃の粒を照らしている。いつの間にか夜が明けていた。
真帆のスマートフォンから、白い耳のアイコンは消えていた。
三か月後、旧校舎は取り壊された。
陸、莉奈、颯太、奈津、柊介の死は、結局どれも互いに関連づけられなかった。真帆は警察の事情聴取を受け、十五年前のいじめについても改めて証言した。時効や証拠の問題があり、何かの罪に問われることはなかった。
仕事は辞めた。
航平とも別れた。
罰を受けたつもりはない。ただ、何もなかった顔で以前の生活へ戻ることができなかった。
真帆が送った音声を、冬美は受け取った。
返事は来なかった。
それでよかった。
十二月、旧校舎の跡地に建つ集合住宅の工事が始まった。
ある晩、真帆の投稿した告白音声に、知らないアカウントからコメントがついた。
〈途中から無音なんですけど、これで全部ですか?〉
あの四十七分は、他の誰にも聞こえないらしい。真帆が話す声だけが残り、その後には長い無音が続いていた。
真帆は返信しなかった。
コメントは数分後に削除された。
代わりに、音声の最後へ、見覚えのない波形が加わっていた。
再生する。
最初は何も聞こえない。
音量を上げ、スマートフォンを耳へ押し当てる。
――こん、こん、こん。
ガラスの向こうから、爪で叩く音がした。
そして、真帆自身の声が囁いた。
「聞こえないふり、上手だね」




